ディック・ダック

志村麦穂

第1話

 心が心臓に位置することを疑わない夜だった。

 指先は手練れの按摩師で、暗闇のなか皮膚の上を丹念になぞった。内転筋の繊維の導線をたどって鼠径部に至る。恥骨に両の親指をあてがい、骨盤の開きをなぞる。女が受け止め得る、生命の容量に想像力を豊かにした。触覚は、その使用範囲を指先から手のひらへと広げ、臀部を覆い尽くした。男の、峻険な峰を思わせるぶつかり合う大臀筋とは異なる。丸みを帯びた、たおやかな繊維の斜面を支持する。

 女の腰は息を詰め、深くたわみ、長く短い抱擁を交わして浮上する。男と女の間には暗黙のうちに再会の約束がかわされた。出会い、別れては、約束が守られた。幾重にも信頼が確認され、そのことが何にも代えがたい快楽をもたらした。

 俺たちはその夜、確かに繋がっていた。

 身体が脳を凌駕し、五感のシグナルが優位に立ち、思考を支配していた。

 俺の身体を、俺の脳でも、心でもなく、俺が動かしていた。あの夜、俺は俺の身体だった。俺は俺のものだった。

 紛れもなく、肉体の支配した夜だった。

 夜は密室に満ちて、ふたつの身体を密閉した。息を奪った。光はちっぽけだった。

 俺と女の身体は果てしなく深い宇宙に浮かんでいた。たったふたつの身体。反転し、俺と女の位置は目まぐるしく入れ替わる。不可視の斥力が二人を引き付けた。溺れないように、ふたつの身体で息を交換し合った。

 やがて俺の想像が俺の身体と寸分の狂いなく一致した。頭髪の枝毛から、臀部の産毛、膝の傷跡、足の小指の割れた爪まで。俺の考え、思い浮かべる肉体が、すべての現実と重なる。一秒が千に細切れに引き伸ばされた感覚のなかでさえ、フレーム単位の誤差もない。身体感覚は間違いなく、肉体に密着していた。指先は思い描いた通りに曲がり、腕の位置は想像に張り付き、内臓の収縮さえも意識の内側に収められた。無意識の身体は存在しない。感覚受容器から這い上がる神経のパルス、シナプスの噴射、振り絞られる筋肉の収縮、拡散する血管から発散される体温。夜に散りばめられた俺だった飛沫に至るまで。

 俺の身体は、神経は、感覚は、意識は、分子は、夜に触手を伸ばし、広がり、支配した。

 張り巡らされる誤差のない神経は、女の身体に入り込もうと試みる。自と他の境界を侵犯する。支配領域を広げるときだ。俺の肉体は帝国主義の野望に染まっていた。

 女は腕の中で、激しい痛みを訴えた。血を流さない、疾患もない、透明な痛みだ。

 女は寒いと誘った。遠いと泣いた。彼方と哭いた。

 女は隙間を埋めようとした。ひたすらに。

 身体は穴だらけで程遠い。夜は多孔質で、気の抜けることばかりで悩ませる。

 黒ずむばかりの毛穴を嫌っていた。ノイジーな口を憎んでいた。汚れる排泄孔を悲しんだ。穴だらけの皮膚に意識がフォーカスすると、にじむ汗が、吐き出される細胞の吐息が、身体の一体感を損なわせるのだと。肛門への拒絶は、失われる、変化する身体への惜別だと言った。流動的で、一時もこの世界に確立されていない、存在の希薄さが恐ろしいのだと女は涙を流した。

 女は繊細に身体を知り尽くしていた。体内に取り込まれた食物が、女になる手触りを知り、身体から落魄していく分子に痛みを覚えた。女もまた、身体と感覚が一致していた。俺よりもはるかなる絶望にさらされていた。深く、深く一致していたから。

 女が求めたのは、ほんの一時の慰めに過ぎない。

 穴を埋める、代替行為。それにより擦り切れる自己を感じる、自傷行為。

 密着し、摩擦し、分泌し、私になり、私でなくなり、俺があり、どちらでもなく夜に蒸散していく私のこと。

 俺はより大いなる一致を求めた。

 それがすべての身体を解決する妄想だと信じていた。

 俺の妄想は、俺の肉体の中で膨らみ続けていた。その誇大な妄想は、俺の肉体を突き破らんばかりで、すでに一致していた肉体さえ凌駕していた。

「これで最後にしよう」

 女は言った。たった一言が、俺を夢から叩き起こした。

 俺は再び剥離をはじめた。

 女の穴を埋めるたびに、膨らんでいく妄想が俺を身体から浮かび上がらせた。

 穴を埋めた。穴を埋めた。隙間を密着した。

 俺は女との一致を望んだ。しかし、強く望むほど乖離していった。

 募るばかりの焦りが、さらに俺を剥がしていった。思い通りにある身体が現実でなくなり、意識が浮かび上がった。身体は再び脳の支配に取り戻され、無意識がほてりを冷まして、夢を散らし、夜が明けた。

 あれほど隙間なく一致していた身体は朝焼けに洗い流された。

 すべてが朝に溶ける幻だった。

 俺は目覚め、女は姿を消した。

 俺はまた信じられなくなった。

 この身体は俺のものか。確かな存在か。すべてを知ることのできないものに、確信など、どうして抱けるだろうか。

 呑気な俺はまだ気がついていない。俺のなかで、俺だけが抱え続けた疑問に、女はまだ答えていない。

 交わしたはずの約束は果たされるだろうか。

 ナイーブな。情けないほど、繊細な朝焼けだった。


 あくる日、目が覚めて股間が熱を持ちだした。そればかりか、じれったいかゆみに悩まされはじめたとき、ついに来たかという喜びにも似た興奮を覚えた。まったく馬鹿な俺に違いない。愚かで離れがたい、愛しい肉。

 呑気な俺の頭が、あるいは危機感のない俺の心がそのことに思い至ったのは、無邪気さの確信を切り崩された時のことだった。あけすけに言えば、俺が俺自身を切断されてしまったときだった。

 かゆみはいついかなるときも消えず付き添い、そいつはまったくいい女の条件と同じで、常に裏切ることがない。俺がなにをしていても消えず、予感していた通りやがてかゆみは痛みへと変わった。

 愛情が深くなりすぎると、いつだってそれらは重荷に変わる。俺はまだるいやり取りを嫌っていた。お互い了解済みの駆け引きが嫌いってんじゃない。それらは挨拶みたいなもんで、ある種の交わされた約束を確かめるための儀式だ。ムードと言い換えてもいい。しかし、重たいことは別だ。まったくの重症だ。そうなってしまえば、女とは切れる他ない。その点、俺と医者の見解は一致していた。やつのテクニックのある手先も気に入っていた。ここがクリーム色に囲まれたしかめ面のダンスホールでなけりゃ、気が合う飲み仲間になれただろう。

「切るしかない、自業自得だと思ってくれ。本来ソレは遊び道具なんかじゃない」

 どこまで、とは聞けなかった。なんせ、痛みはタマの中まで疼いていた。すっかり悪くなった小さな俺は、擦ってもいないのに黄ばんだ汁を垂らしていた。

 痛みは俺に目を覚まさせた。枕元を脂汗で濡らさせた。

 痛みはより明確に、俺が俺の中に立ち上がることを強く意識させた。

 俺は後悔していたか? あの夜。身体が俺になった夜。俺はいつもの俺以上にはしゃぎすぎた。陰気な女の、陰鬱な願いを耳にしながら、身体は浮かれきっていた。今になって認めるさ。俺はたしかに俺なのだと。つまり、俺もすっかり間抜けに違いなかった。

 よお、相棒。俺はどこで間違えた?

 俺は答えた。運が悪かっただけさ。

 俺に小さな傷ができて、菌が入り込んで繁殖した。おい、お前はどこからやってきたんだ? ああ、そう、一週間前のディナーだって? ずいぶん熟成された宿便だ。あの女は神経質過ぎた。あの女は精神以上に、便秘に悩まされていた。

 切るか、死ぬか。俺には選択肢がなかった。

 俺は聞いた。「相棒は元通りになるのか?」って。

「日常生活には戻れるさ。そう悲観することもない、世の中にはいろんな奴がいる」

 そんな言葉はなんの慰めにもならない。

 同意書のサインは、信頼の証にはならない。

 俺は大切な俺の一部を失った。

 他人とつながるための、何より重要な接続端子だ。

 全身麻酔から目覚め、最悪な気分の夜を過ごしたあとで、ICUから開放されることになった。俺の母親ぐらいのベテランがやってきて、「痛くしないから安心して」とウインクした。

 尿道から手早くカテーテルを引き抜くとき、俺は改めて自分の有り様を知った。ごく小さな、肉の切り株が残されていた。ガーゼに包まれた生々しい肉先は、小さな穴を残して縫い塞がれている。ちょっとした吹き出物みたいだった。

「想像以上に悪くなっていた。わかるだろう? 切るしかないんだ」

 医者は気を利かせて、切り落とした俺を残していた。相棒と片方のタマだ。このときばかりは涙がこぼれたね。母親の葬式でもこんなに泣かなかっただろう。生き別れてしまった俺の片割れをレジンで固め、チャームとして首から吊るすことにした。身体に残った一方。唯一の男性ホルモンの忘れ形見。ソレが俺だった。右のタマだ。

「俺をもとに戻す気はあるんだろう?」

 一番気がかりなことを医者にぶつけた。

「以前と変わらず、男性用小便器を使えるようになる。君の尻から皮をちょっとばかりもらえば。ただね、男を立てるってのは存外難しい」

「今どき女だって男になるだろう? わがままを言ってるつもりはない。完璧に元通りじゃなくてもいい。左のタマは諦める。将来の息子も、だ。大きさは譲ってもいい。俺は俺らしく戻りたいだけなんだ」

 ソーセージだ。わずかに快感を取り戻すことはできるかもしれないと可能性を示された。それは今までの俺のように闊達自在とはいかない。事実を改めて伝えられたとき、俺は二度目の喪失を迎えた。

 俺はその医者をヤブだと散々に罵って退院した。不完全な形成術を受けるつもりはなかった。

 俺の身体ははっきりと損なわれていた。世の中にある百パーセントの、完璧な妄想を、俺は自身の身体に対して紛れもなく抱いていた。切り取られたのは、身体のほんの数十分の一の重さしかない肉の塊なんかじゃない。

 俺は欠け、損なわれてしまったのだ。

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