3-2
◯
「いやー、お父さん、入院しちゃった!」
きっと第一声はそんなものだろうと思っていた。
あの、殺しても死んでくれなさそうな、蜚蠊よりも生き汚い父のことだ。襲われた、と言っても、入院した、と言っても、大したことはないはずだと、そんな楽観と共に病室を訪れ——そして、現実に打ちのめされた。
「——意識が戻るかどうかは、わからないって、言われたわ」
白亜の病室。ぴ——ぴ——と、心電計が立てる音だけが、虚しく響いていた。
純白のベッド。横たわる父は——目を開かない。
人工呼吸のマスクが、数秒ごとに曇る。
そればかりが、生きている証のようだった。
母が、その手を握っている。その指の一本一本がさえ、傷だらけで——血の滲む包帯が、巻かれている。
生きては、いる。
生きてはいるが——それだけだ。
父は、意識不明の、重体だった。
「全身が傷だらけで、誰かに、痛めつけられたみたいだ、って——」
母は瞳から、涙をこぼす。
誰がそれをやったのか。
答えは明白だ。
鬼。
あの時の——鬼が。
父を、傷付けたのだ。
『そう怯えなくても、とって喰いはしませんって』
——あなたはね。
奥歯を、強く噛み締める。
ぼくは、病室を出た。
「——っ、伊江郎くん……」
瞬間。バッタリと、鉢合わせる。
その相手は——我が幼馴染、
「潤果……」
ぼくはその名を呼んだ。
実のところ——傷付けられ、道端に倒れ伏していた父を最初に見つけてくれたのは、何を隠そう、彼女だったのである。
放課後、部活のある彼女は、いつもぼくよりも遅く帰っている。だからこそ、会社帰りだったのだろう父が、痛めつけられ、倒れ伏していたのを、部活帰りの彼女が見つけてくれたというわけだ。
意識不明とは言え、父が一命を取り留められたのも、彼女が見つけてくれたが故のことだった。あと少しでも発見が遅ければ——本当に死んでいたかもしれない。彼女には、感謝してもし足りない。
「ずっと、病院に居てたのか?」
「う、うん。親族以外は、入れないって言われて……あの、おじさんは——」
「……意識は、まだ戻ってない」
ぼくは首を振った。いつ戻るかわからない——なんて、そんなことまで言うつもりにはなれなかった。
「ありがとうな、潤果」
ぼくは言った。
「ありがとうって、何が——」
「お前が見つけてくれたおかげで、父は命を繋げた」
だから、ありがとう。
今一度言えば——彼女は、けれど苦しそうな顔をした。
「私——何もできなかった……」
おじさんが苦しんでるのに、何も——
彼女は悲痛な顔をして、その眦から涙を溢す。
「私が、私のせいで——」
「お前のせいなんてことはひとつもないよ」
ぼくは彼女の自責を、強く否定する。
「さっきも言ったがな、父が生きていられるのは、お前のおかげだ。きっと父も回復したら、お前に礼を言うだろう。今のうちから、謝礼金をもらう準備をしておいた方がいいな。きっとたんまり払ってくれるだろうさ」
毟り取れるだけ毟り取ってやれ。
ぼくは冗談めかしていって、肩をすくめた。
それでも潤果は、辛そうな顔をする。
「伊江郎くんは、辛くないの?」
問われて——ぼくは、答えに困った。
「おじさんをこんな目に合わせた犯人が、憎くないの?」
私は——憎いよ。と彼女は言った。
「こんな酷いことする奴なんて——死んじゃえばいいって、思う」
ぼくはその言葉に、少し驚く。
彼女が、瀬来目潤果が——こんなにも、誰かに対する憎悪をあらわにするところは、ともすれば、生まれて初めて見たかもしれない。
だからこそ——ぼくは。
「怒ってくれて、ありがとう」
彼女の肩に、そっと手を置く。
「でも大丈夫だ」
大丈夫。
決着は——ぼくがつける。
「お前は何も、心配しなくていい」
ぼくは言って——彼女を残し、病院を出るべく、歩き出す。
拳を強く、握りしめて。
思い返すのは、昨夜のこと。
『せいぜい、へたれのままでいてくださいな』
「——舐めやがって」
ぼくは歩きながら、小さく呟く。
ああとも、人を舐めるにも程がある。
ぼくは人間だ。誰に何を言われようとも、河童でなどあるわけがない。たとやその血を引いているのだとしても。ぼくは河童になんて絶対にならない。
だからこそ——
「退治してやる」
人間らしく、鬼畜生を。
ああとも、ぼくが退治してやろうじゃないか。
へたれてなんて、いられない。
ぼくを甘く見た代償は高くつくぞ、鬼よ。
決意を胸に——ぼくは病院を出て、橋の下を目指した。
◯
「師匠、師匠——」
賀茂大橋の下。浮浪者御用達の寝床で、ぼくは声を上げる。橋上の通行人にまで声が聞こえてしまうのではないかと思うほどの大声を。
「師匠……」
しかしどれほど呼んでも、師匠は姿を見せなかった。外出だろうか? こんな時に——
「——なんだぁ、人探しかぁ、小僧」
ぴちゃ、ぴちゃ——と。水音がしていた。
ぼくは咄嗟に振り返る。そこには——女の顔があった。
あの時の鬼のそれとは違う、醜く老いさらばえた顔付き。ともすればただの老婆の顔のようにさえ見えるが——それは顔だけを見ていればの話だ。
頬を裂いて笑うその女の首から下は——うねり狂う、蛇のような姿をしていた。
「け、け、け——」
老婆の顔が、奇怪な笑い声を上げる。乱杭歯の隙間から覗く舌は、裂けたように二股に分かれていた。
「濡れ女——」
ぼくは咄嗟に距離をとって、その正体を言い当てる。
川底から伸びた体は、果たしてどれほどの長さがあるのかもわからない。蛇体に女面。水場に現れる妖怪といえば、それしか居まい。
「よう知っとるなぁ、ええ? そうだよ、あたしゃあ濡れ女だよう」
ずるりずるりと音を立てて、濡れ女は体をくねらせる。鱗の代わりに藤壺が生えた醜い蛇体が擦れあって、じゃらりじゃらりと音を立てた。
濡れ女——水辺に現れる妖怪としては、相当な力を持った妖怪だ。少なくとも、影鰐よりは遥かに。
「——お前も、あの鬼の仲間なのか?」
「うふふ、ええ、仲間? とんでもない。あたしは、あのお方の従僕よ。仕えておるんだよう」
け、け、け——と笑い声を上げ、濡れ女はずろりと土手の上に体を滑り込ませる。
「ぼくとやる気か?」
「なんだぁ、夜の誘いか? 助平な小僧だなぁ、け、け、け——」
そんなわけがあるか。
ぼくは人間だ。化け物とヤる趣味はない。
「なんだよう、冗談じゃねぇかよう、ええ? つまんねぇ小僧だなぁ」
濡れ女はしゃ、と舌を出して言う。
「へたれの妖怪もどきと殴り合う気はねぇよ。弱いもんいじめはつまんねぇかんよぉ。あたしゃ、あたしゃ使いだよ」
「使い?」
「交渉しに来たんだよう」
ずろ、と口から舌が伸ばされる。それはぼくの胸先にまで届き、その先端には——一枚の紙があった。
「これによう、血判押して欲しいんだよう」
「血判? おい、なんなんだこの紙は」
舌先に置かれたそれを恐る恐る摘み上げると、意外や意外、それはどんなカラクリなのか、唾液に濡れていると言うこともなく、綺麗に乾いたままだった。内容を読めば——
「鴨川の、権利譲渡?」
内容を要約すれば、こうである。
鴨川の守護者にして所有者である伏見桜家の当主が、その権利を
しかし——
「こんなもの、覚えがないぞ」
伏見桜家が、鴨川の守護者にして所有者だと? 馬鹿も休み休み言え。我が家にそんな特権があるわけなかろう。うちの父は出世街道を外れた哀れなサラリーマンであるし、母に至っては単なる主婦だ。
そもそも、一級河川であるところの鴨川を、一個人が所有などできるはずがない。
「そりゃあおめぇ、人間の世界ではの話だろうが」
物知らずだな、と濡れ女は見下げたように言う。
「こりゃあ、妖怪の世界の権利書だあ。人間のホーリツだのなんだの、関係ねぇよ。あたしたちゃ、ここに住む許可欲しいんだよう」
「勝手に住まえばいいではないか」
「そういうわけにゃいかねぇんだよ」
イラついたように言って、濡れ女はずい、とぼくに顔を近づけてきた。
「いいから押せよう、血判よう。はよしろよ、今すぐしろよ、ええ? 出来ねぇのかよ。はっきりしろよう」
ゆらゆらと体を揺らしながらも、濡れ女はぼくを問い詰める。しかし——
「一つ聞く」
「ああ? あんだよう」
「この権利書に判を押したとして——お前たちはこの鴨川で、何をするつもりなんだ」
「ああ? んなもん決まってんだろうがよう」
け、け、け——
濡れ女は、笑って言った。
「人ぉ喰うんだよ」
ぎしぎしと、笑う口の——奥。喉元近くの歯に、何かが引っかかっている。
それは。
それは——金魚の刺繍が入った、布だ。
師匠の着ていた、服の切れ端だ。
「そうかよ」
ぼくは拳を握りしめた。
そして、足を。
高く高く振り上げる。
「お前は殺す」
——
「のこった」
ダァアアアアアアア————ン。
天地を震わす爆音が、響き渡る。
それはぼくが、高く振り上げた足を大地に叩きつけた音。
それは相撲の開始を告げる音色。
相撲とは、神事である。
神に捧げる、祭り事である。
どう、と。
どうどうどう、と。
下劣に響く、狂った太鼓の音色が聞こえてくる。
ひょ————
ひょ——おお————
長く、長く続く、か細い龍笛の音色が響く。
それは神を讃える音色。ふるぶるしき水の神を讃え、聖なる加護を得るための讃歌。
音色に合わせ——空間が歪む。時間が歪む。世界が歪む。
深く霧が満ち、その内側に——土俵が。
世界を歪め、狂わせ、違わせ、橋の下の大地に——一つの土俵が、描かれる。
円。
真っ白な——円が。
ぼくと濡れ女の体を乗せて——ぼんやりと、輝く。
「な、なんだよう、これは——」
濡れ女は円の淵に体を擦り付けている。おそらくは、出ようとしているのだろう。だが、無意味だ。
「土俵だ」
ぼくは答えた。
相撲を取り終えるまで、土俵からは出られない。それが神事というものだ。
「相撲だよ、濡れ女。ぼくたちは相撲を取るんだ」
神は、それを望んでいる。
その言葉に、濡れ女は体を震わせた。
「神なんて——んなもん、いるはずがねぇだろうが!」
「いるんだよ」
どれほど否定しようとも、神はいる。
神だけはいる。
それが事実で、それが現実だ。
目を逸らすなよ、濡れ女。
「神は、お前を見ているぞ」
ぼくはTシャツを脱ぎ捨てて、上半身裸になった。
はらりはらりと髪が抜けていくが——知ったことか。
「さあ、相撲だ」
はっけようい——のこった。
「死ね」
ぼくの突進を、濡れ女はすんでで避ける。
「なんだ、おめぇ、出来損ないの、なり損ないじゃあねぇのかよ」
「知るか」
ぼくはただの人間だ。
ただの人間でも、妖怪を殺すことは出来るんだ。
これはただ、それだけの話だ。
「そんなの、おかしいだろうがよう!」
濡れ女は鎌首をもたげ、その口をがぱりと大きく開いた。
「死ねよ」
圧縮された水が、あたかもレーザーのように放たれる。神聖なる土俵にヒビを入れるほどの威力。だがそれも——当たらなければ、意味がない。
ぼくは放たれる激流を紙一重で避けながら、濡れ女の元へと向かっていく。
駆け寄った勢いそのままに、その藤壺だらけの肌に——張り手を叩き込んだ。
「ぐっ、ぅううううううう!!」
濡れ女が苦悶の声を上げる。口から放たれていた激流は止まり、代わりのように血潮が吐き散らかされた。
「のこった、のこった、のこった——」
ど、ど、ど——まるで重機が立てるような重たい音とともに、幾度も張り手を叩き込む濡れ女はもんどり打って倒れ、その上半身を、土俵からはみ出しかける。その瞬間——
「ひ、ぃ、あああああああっ」
叫び声と共に、濡れ女は必死になって体を土俵内に戻した。
「な、なんだ、なんだあれは、なんだあれは!!」
両目を限界まで開き切り、濡れ女は叫ぶ。
おそらくは見たのだろう——神のお姿を。
「相撲のルールは知っているだろう。土俵を出たら、負けだよ」
ぼくは言った。
濡れ女はごくりと喉を鳴らす。ようやく、相撲を取るということの意味を理解したようだ。
「お、おめぇを殺せば、おめぇを殺せばいいんだろうがよう!」
「そうだよ」
出来るもんならな。
ぼくはつぶやいて、濡れ女の懐に潜り込んだ。
そして——その体を、がっちりと掴み上げる。
「お、おめぇ何して——」
「せーのっ」
足を踏み締め、濡れ女の巨体を投げ飛ばす。
「う、わぁああああっ!」
投げ飛ばされ、縄のように空中でたわむ濡れ女。当然、空を泳ぐような力など持たぬ濡れ女は、そのまま土俵の外に——
「——っ、舐めるなよ!」
しゃあ——と叫び上げ、濡れ女は空中で無理矢理に体を捻った。そして——
「けぇっ——!」
叫び声と共に、濡れ女は自分の体に向かって水流を吐いた。レーザーと見紛う高圧水流。それが直撃した細い体は弾け飛び、千切れ飛ぶ。そして、ちぎれた半身にさらに水流を当て続けることにより——作用反作用の法則。踏ん張りの効かない空中で無理矢理推力を生み出し、濡れ女は土俵内に舞い戻った。そしてその勢いのまま、ぼくの元へと突進をかける。
「死ねぇ、小僧っ!!」
大口を開けて、迫り来る濡れ女その顔面に——ぼくは狙いを定める。
「敵ながら、あっぱれ」
己の半分を犠牲にしてまで勝ちを狙うその闘争心、神はさぞやお喜びであろう。
ゆえに——これはその返礼だ。
どっしりと、深く、体をかがめ——弓のように引き絞る。
極限の静。
迫り来る濡れ女の動きが——止まって見えた。
「のこった——」
解放。
全身全霊の、五指を開いた大張り手。
それは過たず、迫り来る濡れ女の額に直撃し、そして、濡れ女の額をかち割った。
「あ——」
砕け散った頭蓋骨の破片が宙を舞う。血を吹き出した濡れ女は、断末魔のため息を漏らし——どう、と倒れ伏す。
決まり手——張り倒し。
そして——戦いの後には、収穫がある。
「ひ、ぁあああああ!」
濡れ女には、不幸なことだっただろう。頭蓋が砕けてもなお——恐怖を感じる脳が残っていたことは。
頭上から、ゆっくりと——指が、伸びてくる。
巨大な、巨大な巨大な巨大な——どこまでも巨大な、指が。
それは非ユークリッド幾何学的な歪んだ構造を持つ七色に輝く藤壺がまとわりついた巨大な眼球が蠢き連なり弾け生まれ死に絶え腐り蕩けその内側から再び生まれる闇色の触手が束なる軟体構造のひび割れた樹木のように乾き湿り狂いねじくれふしくれ立つ矛盾した螺旋構造の結晶体にも似た金属質の柔らかな青褪めた血の鼓動する臓器の腐乱した残骸にも似た水棲の神経網を携える異形にして異質にして異端にして異常なる異星の指だった。
その指が、指としか言えない何かが、ゆっくりと、あるいは瞬く間に、時間の構造を超越して淑やかに——濡れ女へと、伸びていく。
ぼくは頭上を見上げた。深き霧の向こう。
そこに、神はいる。
神は見下ろす。
土俵を、見下ろす。
真上から。真っ白の。丸い丸い円を、見下ろす。
なぜ、土俵は丸いのか?
その答えが、ここにある。
土俵とは、土俵であって土俵ではない。
真上から見た土俵は。
丸く。
真っ白く。
つるっつるの。
めっちゃ綺麗な——皿。
そう、それは、皿なのだ。
土俵は——
神の皿なのだ。
我々は、その上に載せられた食材にすぎない。
「ひぁあああああああああああああ!!!」
神の指に摘み上げられ、濡れ女が叫びを上げる。ぼたぼたと、割れた頭蓋から血が、脳漿が流れ落ちる。けれどそれよりも多く流れるのは、その両目から滴る涙だ。それは、己の末期を悟ったが故の涙なのだろう。ぼくには理解できるとも、その恐怖が。神に拝謁する、その畏れが。
ゆっくりと、濡れ女が持ち上がっていく。深き霧に、その体が沈んでいく。
そして、サンタクロースのように、モジャモジャとした、うぞうぞとした、じゅるじゅるとした、触手の髭を生やした、神の巨大な口元に吸い込まれていく。
「ああああああああああああああああああ」
遠く、こだまするように絶叫が上がり、最後には——
むしゃむしゃ、ごっくん。
『 うまい 』
神はそれだけを言って、霧の向こうに、消えていった。
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