街人
里見詩情
第1話
俺は待っていた。電車のホームで、誰が、何が、来るわけもねえのに。来るわけはねえのだが、何かの手違いで滑り込んできた電車から、来るはずのない待ち人がこのホームに降り立つことを願い、待っていた。いや、待っている。来るはずはない。来るはずは、ないのだ。そもそもこの駅をまだ彼女が使っているのか、いや、今日だけでも使うかすら怪しいのだ。いや、使っているか、もしくは使うかもしれない、なんぞということはなく、俺が、ただ、俺の願望でもってここにいるに過ぎないのやもしれぬ。いや、間違いなくそうだろう。俺の願望に、俺は全てを賭けて、ここにいる。この場所に、毎日毎日通い、待っている。そのせいで初めは見慣れなかったこの町の景色も、もう見慣れてしまった。
彼女が今日も現れなかったことに、どこか安心感を感じつつ、入場券を改札に通し、駅を出て行く。出れば帰宅する連中が、無人のこの駅に溢れている。溢れると言ってもたかが知れた人数だが、無人駅にしては溢れている。そいつらも、この町のことも、俺は知らぬ。知ったこっちゃねえのが本当のところだが、見慣れた町の景色の中でうごめく奴らのことすら知らないとは不思議な感覚だが、それもまた俺には知ったこっちゃねえことなのだ。
彼女。あの、昔別れた彼女。その人。その人以外のことはどうでもいいのだ。いい。いいのだ。いいのだが、俺の彼女への感情は性欲ではなかったか。それが俺には大問題だった。なかったと、どうして言い切れるのか。それが俺には大問題だった。なかったとしても、何割かは性欲であったはずだ。成人男性の体の六割は水でできているらしいが、ならば俺の残りの四割は性欲なのだろうな。いや、それが愚かな間違いであることはわかっている。わかっているのだ。しかし俺は、俺の、この体の内に性欲なんていうものが巣くっていることが、憎悪の対象なのだ。
性欲。性欲なのだ。俺の中の悪の一つ、悪の中の悪としての性欲が、俺の中にはあるのだという意識。性犯罪でもなんでもいいが、いや、なんでもよくはねえが、とにかく男とやらの悪の部分として、性欲があるように思える。思えてきやがる。なんせ性欲が発端の加害とやらは全てといっていいほど男の所業なのだからな。その男である俺の性欲とやらが、彼女に向けられ、いや、彼女だけでなく他者に向けられることが、俺は我慢できない。のだが、「向けられる」なんぞと他人事のように言うが、それを向けるのは他でもない俺、俺、なのだ。それがまた我慢できない。のだが、我慢できないなんぞと抜かしているうちは、現実的に見れば性欲を彼女へ向けようとし、少しの葛藤を抱えているだけに過ぎない。どこまで行っても、俺は誰かへ性欲を向けている。本当に向けていないならば、そんなことは考えもしないのだろうから、な。
そうは言っても、俺にはどうすることもできない。全て、全てどうすることもできない。のだ。いや、全てどうすることもできねえ訳もねえのだが、俺には俺の望む全てがどうにもならぬ。正確に言えば、俺は俺の全てが俺に都合のいい結果として現れることを望むのだが、そんな現象なぞあり得ぬ故、俺は俺の全てをどうすることもできぬ。故に俺にできることと言えば、家路につき、俺のどうしようもない全て。全て、の代替として、オナニーするしかない。いや、するしかねえ訳がねえのだが、俺は俺の全てを一時でも忘れるすべをそれしか知らぬ。いや、それしか知らぬ故、いや、それしか知らぬ訳もねえのだがどうしてもそれしか思いつかぬ故、今、俺は、このざまなのだろうが、とにかくそれしか俺にはできぬ。故に、俺は帰ってオナニーするしかない。あの、性欲を発散する時の、強烈な感覚で全てを遮断するしかない。
忘れるしかない。いや、本当は忘れることなぞできぬ。できぬし、忘れてはならぬのだ。決して、な。いや、だが、なぜ忘れてはならぬのか、俺には理解不能だ。彼女への引きずっている感情を忘れてはならぬというわけではない。いや、それもまた忘れてはならぬものではあるのだが、そういうことではなく、それも含めて俺は俺の全てを、全てを抱え込んだが故の苦しさも、いとしさも、理解不能な感情も、全て含めた、全て含まれた苦しさというものを、忘れてはならぬのだ。が、その、決して忘れてはならぬ感情とやらの、苦しさとやらの、果ての、答えを、俺は知らぬ。人生とやらの答えと言い換えてもいいだろうが、な。いや、そんなものはとうに答えなぞ出ている。そんなものは単純で、誠実とやらでもいいし、つつましさとやらがその答えやもしれぬ。のだが。だが、そんなもので俺は満足できぬ。充足できぬ。
なぜかは他でもない俺にもわからぬ。なぜ俺は充足できぬのだ。いや、知らぬ。知らぬのかわからぬのか、それともオナニーのし過ぎで忘れちまったのか。それすらわからぬ。のだが、とにかく俺は人生とやらの全てがわからぬ故に全てがわからぬ。そうなると、俺に残された道は昔日の美化された思い出とやらを、さらに美化し、飾り立てることで、人生とやらへの郷愁をすることだけなのだ。だけなのだが、だが、それでは何も解決はせぬ。それはわかっている。わかり切っている。しかし俺は逃避が辞められぬ。逃避としての自慰が。
本当はオナニーなんぞしたくもないのだがな。本当はそんなことをしたい訳ではないのだがな。それが逃避の唯一の方法であったとしても、本当はそんなことがしたい訳ではないのだがな。それでも、俺に残された、唯一の方法は、自慰のみで、俺は来た道を戻って行く。風化しつつある木造の駐輪場。今はもうやっていないたばこ屋の錆びた看板。平屋の古い家々。雑草の生い茂る荒れた田畑。それらの風景を夏の西日が焼き焦がしている。盆が終わり、八月も終わりかけ、虫の音なんぞが聞こえ始める夕方。九月が迫り、高くなり始めた空に、季節の衰亡なんぞというものを感じて、俺は、俺は、人生とやらへの郷愁を重ね、感傷なぞを感じ始めるが、それを振り払い、ゴム草履の底をアスファルトに擦りながら歩いて行く。
危機的な暑さが和らぎつつあるこの夕方。振り払っても振り払っても、感傷が追いすがって来る。のだが、俺は俺のこれまでという過去への、現象への、感傷に浸っている場合ではない。断じてないのだ。だからと言って、何をする訳でもない。ただ、家なる場所へ、帰って、オナニーするだけだ。俺の無為が何を生むこともないが、同時に俺の行為が何かに繋がる訳でもない。ただ、自慰という、事務的な快楽行為をするだけだ。
そうだ。あれは、俺の自慰は、義務でも責務でもなく、感情でもなく、事務行為。俺には射精の快感すら排泄行為に思える。反吐が出るような排泄行為にすら思える。のだが、本当にそれだけか。俺の、この、俺の、自慰なる行為は、本当に事務的行為であるのか。それは、その問いは、俺にとって大きな命題であるのだ。
しかし、しかし。しかししかししかし。「性欲」なんぞという笑っちまう哲学を考え出すと、いや、哲学なんかではねえのやもしれぬが、とにかく俺の罪である「性欲」という問題を考え出すと、それ以外に付随する思考は成層圏の向こうまで吹っ飛んで行っちまって、「性的な欲求」、つまりは「性欲」のみに埋め尽くされ塗りつぶされ支配され、正確に言うならば「性的な欲望」のみになり、「彼女」へ、「あの過去」へ、性的欲望を向け始め、だからこそ俺はそれを否定するべきであり俺の人生への郷愁の感情なんぞにかまけている場合ではない。ないのだと、強く、思う。
そのために、俺は、俺の罪であり憎悪の対象である性的欲望を捨て去り、克服し、超克するために彼女を待っているのではなかったか。感傷を感じるために彼女を待っている訳ではない。そんな訳ではなかった筈だ。
そう。そうやって、思考を強制的に矯正し、残暑の残照の中、俺は俺の膨れ上がった忌むべき衝動を抑え込み、反発し、殺意さえ向ける。それ故に思考と衝動の矛盾が増大して肥大化し過ぎた、性的欲望とそれを否定する理性、その二つ、いや、それらの混在する馬鹿でかくなり過ぎた、が故に説明しようのない、感情なのか感覚なのか思考なのか、いやもう何なのかすらわからない謎の何かを引きずって、引きずりまわして、歩いて行く。
そのせいかどうかは判断できかねるがとにかく、俺はもうどこをどう歩いているのかわからない。この引きずっているものに飲み込まれたのか、残暑のせいで思考がどうにかなっているのか、それとも俺には感知できないが間違いなく俺の中にある何かによってどうにかなっちまったのか、わからないが、とにかく意識が朦朧とする。いや、だが、意識はある。認識もしている。しかし俺にはこの世の全てがわからなくなってくる。
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