女王蜂の守る庭
青果
第1話
御堂蓮司は手荷物検査を終えて門の中に入る。建物の周囲は高い壁に囲まれており、出入口はこの門だけ。その門もやたら重厚で、車がぶつかっても壊れない強度がありそうだ。
エントランスは温かな雰囲気の作りになっているが、その奥には頑丈な電子ゲートが設置されている。その更に奥にはもう一段階セキュリティゲートがあるうえ、エリアごとに厳重なシャッターが下ろせるようになっている……らしい。集団で押し寄せてきても内部で分断できるシステムである。蓮司もこの施設の内部を見たのは初めてだった。
ここは機密情報に満ちた政府機関でも、危険な薬品を取り扱う研究施設でもない。アルファを始めとする理不尽な暴力から逃げてきたオメガが身を隠すためのシェルターである。
蓮司は建物に一歩踏み入れた時からどこか寒気を感じていた。それはこのシェルターという特殊な空間の影響かと思ったが、受付に座る人間と目が合った瞬間に、冷気の元がこの人であるとなぜか理解できた。
「あ……ええと……」
その人の雰囲気に圧され、言おうと思っていた言葉が吹き飛んでしまった。目の前に座る男は蓮司と同年代に見えるのに、経験したことのない緊張感で口の中が渇く。
「ご用件を伺ってもよろしいですか」
蓮司の様子を気遣ってか、受付の男の方から話しかけてきた。その声が意外にも優しく、蓮司の緊張が少しだけ緩む。
「あの、入居者との面会希望なんですが」
「お約束はされていますか?」
「いえ……」
「お約束が無い場合は、職員との面談と入居者の方への確認が必要です。お時間は大丈夫ですか」
「はい。今日は一日空いているので」
その点は既に調べてあった。蓮司は卒業を目前に控えた大学生である。どれだけかかるか分からないが、時間ならばいくらでもあるのだ。
「では、入居者のお名前と身分証明書をお願いいたします。コピーを取らせていただいてよろしいですか?」
「大丈夫です。入居者の名前は、小川幸乃です」
財布から免許証を出しながら名前を伝えると、男の手が一瞬止まった。受付といえど、ここの職員ということは入居者と交流があるはずだ。彼女の事情を知っているのだろうと蓮司は想像した。
「少々お待ちください」
コピーを取るため、男は裏の事務所に入っていく。そして三分も待たずに戻ってきて免許証を返却された。
「ではまず面談を行います。立ち入った話になりますので、こちらにどうぞ」
男は手元にあったタブレットを持って立ち上がり、蓮司は案内されるまま付いていく。行き先はフロア奥にあるドアらしい。小窓が付いた扉の奥は小会議室のような個室だった。
受付はどうするのかと思って振り向いてみると、男と入れ違いに別の職員が受付に入っていくのが見えた。
「職員の神木と申します」
神木は写真付きのネームプレートを見せて一礼する。神木冬真という名前が書いてあった。
「さっそくですが、小川さんとのご関係は?」
「俺の母です」
「一緒に住んでいらっしゃった時期はありますか?」
「八歳までは一緒に住んでいました。えーと、十四年前ですね」
「なぜ小川さんがこのシェルターに居ると分かったのですか?」
「母方の祖母が教えてくれました。この三月で大学を卒業して、やっと父親から完全に独立できるので、もう俺に教えても大丈夫だろうと」
オメガが隠れるシェルターは情報漏洩を最も恐れる。隠れざるを得なくなったのに、その原因を作った人間に知られれば再度危険な目に遭う可能性が高いからだ。
とはいえ元の居住区域から遠く離れることを希望しない人はそれなりの割合で居るし、オメガ本人が信頼する相手に居場所を伝えることは許されている。そこから第三者に教えるのは推奨されないが、蓮司の祖母は自立した孫を信頼できると判断したのだろう。
「お祖母様のお名前は?」
「小川まり子です」
神木がタブレットに視線を落とした。情報の照合をしているようだ。蓮司は嘘を吐いていないのだが、次に神木が視線を上げた時、その目には鋭さが含まれていた。
「御堂さんはアルファでいらっしゃいますよね」
情報が照合できなかったわけではなくて安心したが、神木の言葉にハッとする。彼らはアルファを警戒しているのだ。
御堂蓮司という人間は、世間一般のイメージするアルファと比べて随分と穏やかな性格をしている。他人を威嚇したこともないし、我を失うほど怒ったこともない。だから自分が警戒されるべき存在という扱いを受けたのは今が初めてだ。
「……はい」
「小川さんに限らずですが、シェルターに避難されている方はほぼ全員アルファという生き物を恐れています。たとえそれが自分の子供であっても」
蓮司は静かに頷く。オメガが危ない目に遭う時、そこにはほぼ確実にアルファが絡んでいる。こういった施設にアルファが訪れること自体あまり歓迎はされないと蓮司も知識としては知っていた。
「なのでご本人が拒否した場合、面会していただくことはできません。それでもよろしいですか」
「はい、もちろん」
そもそも蓮司はダメ元でここへ来た。会う約束をしていないどころか、母が消えてから現在に至るまで連絡ひとつ取れていない。
蓮司の母は父の暴力と搾取と束縛から逃げるため、連絡を取れる手段は全て断ち切っていた。当時父と一緒に住んでいた我が子に居場所を知らせたら、今度はそれを聞き出すために蓮司が脅される可能性が高かったので、それも無理からぬことだろう。
ただその経緯があったからこそ愛されていなかったとは思えず、こうして会いに来たのだ。
「分かりました。ではご本人に確認してまいりますので、こちらでしばらくお待ちください」
「ありがとうございます」
神木が部屋を出ていき、蓮司は思わず詰めていた息を吐いた。どういう訳か分からないが、神木の近くに居ると緊張してしまう。神木は別段厳しそうな雰囲気の人間ではない。むしろ温厚そうで、言葉遣いも事務的ではあるが丁寧だった。
蓮司も特に人見知りというわけではない。彼の人生で一番緊張した場面といえば就職活動での面接だが、それとは何か違うものを感じていた。
少し経つと部屋のドアがノックされる。神木が戻ってきたのかと思ったが、受付の代理の職員が温かいお茶を持ってきてくれた。その職員もすぐ去っていき、再び部屋に静寂が訪れる。
それからどれくらい時間が経っただろうか。蓮司がスマホを眺めてしばらく過ごしていると、にわかに部屋の外が騒がしくなってきた。プライベートな話をするための小部屋はある程度防音になっているだろうが、それでも声が聞こえてくる。
「そうやって誤魔化しても騙されねえぞ! 早く出せ!」
「ですから、お約束が無い方は身分証の提示と面談が必要でして」
「俺が誰だか知らねえのか!」
流石に気になって、蓮司は扉の小窓から受付の方を覗く。四十代くらいの男が大声で受付の女性に詰め寄っているのが見えた。男は理性を失っている。そしておそらくアルファだろうことが感じ取れた。
シェルターの職員は例外なくベータかオメガだ。あんな風にアルファから怒鳴られては恐ろしくて堪らないはず。向こうの主張が無茶であるのも見逃しがたく、せめてアルファである蓮司が止めに入ろうと扉を開けた。
しかしその直後、底冷えするような寒気が襲ってきて蓮司は動けなくなった。
「どちら様でしょうか」
やっとの思いで声の方に視線を向けると、神木が険しい表情で受付に向かって歩いている。先ほどまで威勢の良かったアルファの男も蓮司と同様に固まっていた。
神木は男に向かって何か声を掛け、男も小声で返事をしているが、蓮司の耳にはほとんど届かない。責められているのは別の人なのに、蓮司も恐怖で足がすくむほどだ。
結局、男は急に大人しくなって帰っていった。男が出ていったのを見届けると神木が蓮司の居る部屋に戻ってくる。その雰囲気は元通りになっていたが、蓮司の心臓はまだドキドキと暴れていた。
「御堂さん、申し訳ありませんが、ご本人の意向により面会していただくことはできません」
「あ……はい……」
そういえば神木は小川幸乃の意思確認のためこの場を離れていたのだった。いまだに蓮司の手が震えている。それを見て神木は眉尻を下げた。
「……さっきの、ですよね。すみません、怖い思いをさせたと思います」
それはアルファの殴り込みに対してではなく、自分が蓮司を、アルファを怖がらせたと理解している言葉だった。
「あなたは、何者なんですか」
神木が発していた圧は、自分より強い生き物に襲われるような絶望感があった。だが蓮司には神木がアルファだとはどうしても思えない。かといってアルファ以外が他人を威嚇する能力を持っているなど聞いたことがない。この建物に入ってから感じていた寒気といい、この神木という人間は常人とは何かが違っていた。
「僕はアルファを威圧できるオメガなんです」
怖がらせたお詫びだからと、神木は着席して説明を始めた。
「世界でも数えるほどしか例がないらしいのですが、例えるなら女王蜂みたいなものです。僕のフェロモンは強制的にアルファを跪かせる力があります」
第二性の研究が進んできたとはいえ、まだ分からないことも多い。特にバースフェロモンについては個人差がある。フェロモンによって特性が発生することもあり、神木はその顕著な例なのだと語った。
女王蜂と言われると蓮司も腑に落ちる。確かに神木を前にして、逆らおうなどという気はとても起きなかった。無論、今のところ彼に逆らう理由も無いのだが。
「でもこの力はアルファにしか効きません。ベータやオメガの方は何も感じないそうです。だから僕は立場の強いアルファからオメガを守るためにこの仕事に就きました」
ここは近隣のシェルターの中でも規模が大きい。先ほどのようなアルファが来襲することも珍しくないのだろう。
一般的にアルファは強い生き物で、自分が脅かされるとは夢にも思っていない。それもあって神木に威圧されると恐怖と驚きで足がすくんで、大抵すぐ大人しくなるのだという。
「確かに、さっきみたいな恐怖感は初めて味わいました」
アルファの威圧は炎のような激情だが、神木の威圧は体の芯から凍えるような気分になるものだった。生命の危機ともまた違い、首根っこを掴まれて膝を折らなければならないと思わされた。本能的な上下関係とはああいうものを指すのだろう。
蓮司の言葉に、神木はますます申し訳なさそうな表情になった。
「……ここにアポなしで面会を求めに来るアルファはほぼ全員、僕や他の職員に敵意を向けてきます。僕はそれを制圧するのが常でした」
そうだろうなと蓮司も頷く。入居者と約束していないということは、たいてい連絡先を知らされていない人間である。そのうえアルファとなれば、加害者側である可能性が非常に高くなる。蓮司のようなパターンは珍しい方なのだ。
「でも御堂さんは、少なくとも僕がこの仕事を始めて以来初めて敵意を向けてこなかったアルファです。余波とはいえ、巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、とんでもないです。神木さんは自分の仕事をしただけでしょう。面会できなかったのは残念ですが、予想はしていましたし……そうだ、手紙なら渡してもらえますか?」
「はい、可能です。お渡しする前に職員が中身を拝見しますが、それでもよろしければ」
なぜ、と疑問が浮かんだが、それが蓮司の口から出る前に理由に思い至った。手紙でも人を追い詰めることは可能だ。
「じゃあ、手紙を書いたらまた来ます」
「ええ、お待ちしております」
神木はそう言ってにこりと笑う。その瞬間、蓮司の手の震えは完全に止まったのだった。
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