第2話 筆の折れた絵師


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 ひとまず返信は保留にして、私はスマホを置いた。眠るつもりだったのに、眠くなくなってしまった。目をこすり、ゆっくりと起き上がる。


 就職してから住み続けているワンルームは、もので溢れている。

 部屋のいたるところに洋服の山ができ(床の山は「これから洗濯するもの」、ベッドの山は「洗濯しおえたもの」で、私はベッドの山から服をとって着ている)、本棚から溢れた本は、床に重ねて置かれている。フィギュアやアクリルスタンドも飾られているが、しばらく触れていないので、薄く埃がかかっていた。

 かろうじてパソコンを置いているデスク周りは整頓されているが、バッグやストールがその周りに放って置かれているので、雑多なことに変わりはない。

 夏までは、これにくわえて食事用の座卓もおいていたが、邪魔になって捨ててしまった。今は、食事は床に置くか、台所で立ったまま食べている。


 寝れないなら絵でも描こうと思い、デスクに腰掛けた。

 iPadを起動し、画面に白いキャンパスが現れたところで、すぐにそれを閉じてしまう。

 どうせ描いたって完成させられないのに、筆を取ることになんの意味があるのだろう。


 私が画家の道を諦めたのは、才能に恵まれなかったこととは別に、私が度を越した遅筆だったからだ。

 自覚したのは大学に入学した後だった。

 アルバイトで受けた絵の仕事で、一枚絵を完成させられなかったことで、自分が規格外の遅筆であることを思い知った。

 スケジュール管理はできていたと思う。

 着手も早かったし、打ち合わせは即レスで対応した。

 ただ、描いても描いても、絵が完成しない。工程を進めるたび、構図の不自然さやデッサンの未熟さが気になった。仕上げれば仕上げるだけ、劣化していくような感覚だった。

 なんとか納期には間に合わせたが、実装されたイラスト見て私は泣きたくなった。まるで服についたほこりのように、至らぬ点がいくつも目についた。

 不完全なものを納品してしまった罪悪感に苛まれ、それ以来、お金を取って絵を描くことが怖くなった。こんなことになるのなら、絵の仕事なんか受けなければよかった。


 絵を描いている時間だけは幸せだったのに。悩みも何も全部忘れることができたのに。絵を描いてさえいれば私は元気になれたのに。

 アニメや漫画も好きだった。好きなキャラクターを描いてネットにアップしていたし、カップリングにハマって、同人漫画を出したこともあった。

 でも今の私は、アニメも漫画も見ないし、絵も描かない。

 道を外れるしかなかった私と、あえて道を外れた香坂くん。この惨めな気持ちは、彼にはきっとわからない。


 私は部屋を暗くして、ベッドに横になった。仰向けにスマホを持ち、インスタを起動する。

 ロム垢のフォローリストから香坂くんのアカウントを見つけると、ぼうっとそれを眺めた。

 そのアカウントは、香坂くんが大学時代に使っていたもので、もう何年も更新されていない。嫌なことがあると、なぜか私はこのアカウント見にきてしまう。

 ピン留めされた投稿をタップすると、CG短編アニメーションが流れ始めた。

 鮫が波を割る一分ほどの動画。フォトショップで制作されたそれは、まさに彼が在学中に賞を獲った作品だった。

 海のうねり、ぬるりとした肌。飛沫をあげて突進する躍動に、いつ見ても心を打たれてしまう。

「香坂くんはすごいなあ」

 つぶやきながら、鼻の奥がつんとする。ちゃんと成果を出してすごいなあ。

 それに比べて私ときたら。

 溢れたものが頬をつたい落ちる。


——絵で大学まで出してもらったのにね。

——意味なかったね。

——遅筆ね(笑)。でも、いくらあなたが丁寧に仕上げても、はっきり言って、私の方があなたより上手いよ

——私みたいな素人に反応が負けてるの。どんな気持ち?


 かつて誰かに言われた言葉が頭をよぎる。

 私はスマホをヘッドボードに戻すと、ため息をついて、掛け布団を鼻の下まで持ち上げた。

 

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