第6話 結良乃
車に戻り、腰掛けてそのまま数十秒。満腹を主張するようにゆっくりと腹をさすり続ける結良乃の隣で衣代はキーを差し込んで回してシートベルトを締める。
「お嬢様が楽になれるまではそのままでよろしいです」
「おなか一杯」
このような外食など初めての事だったのだろう。目を輝かせながら結良乃は衣代の頬をつつき、感情を奏で始める。
「ねえねえ衣代は人生の中でこういうところに何度も行った事あるのかしら」
「庶民の出ですから時としては」
嘘をついた。何度でもついてしまう嘘。彼女にとっては活気があって新鮮で良い場所として映ったようだが、衣代にとっては夕飯を作る余裕すら持たないための選択肢、今の生活からすれば恥そのもののよう。
「楽しくて学べていいわ」
「お嬢様には平凡の楽を学の岳として修めていただかなければいけませんね、庶民を知ってこそ社会を動かせるものだと思います」
庶民には想像も付かない世界、庶民には手の届かない貴族の舞台ではあったものの、貴族の側は庶民にまで目を向けなければならない。大多数の想いを汲み取らなければ生き残る事など出来ない。
「そうね、分からず屋が回そうともそうは行かないものね」
結良乃がシートベルトを締める様を見届けて衣代は車を走らせる。車の揺れからタイヤの回りに車内までもが静寂に満たされている。かつての仕事ではラジオを聴くことも可能、寧ろ情報収集、世間の流れを知っておくためにもラジオニュースから流行の音楽やドラマに映画を情報として取り入れるためにも車の中で流し、家に帰ればドラマや映画を観て音楽に耳を傾けると言った生活を送っていた。
今となっては車内でラジオを聴くことも結良乃がいるところでの音楽鑑賞すら禁じられており、幾つかの新聞社から取り寄せた朝刊と朝の鳥の鳴き声及びその音声を流す事だけが許されていた。余計な疲れを溜めては仕事にならないという雇い主、松時財閥の頭の方針。
「いつも静かな車内ね」
疑問は抱いていたのだろう。余裕のある空気、騒がしさを断絶した動く室内で結良乃の声が最も良く響いていた。
「私は音楽も聴きませんしテレビも観る事がありませんから」
知らなくていい事、衣代の事を本気で好きな結良乃にさえ事実が伝わらなければ大きな事に発展する事は無いだろう。装う事など今更手間ですらない。本音の昂ぶりに難儀する事も無い。
「それにしても、ラーメン屋は空振りでしたね」
本来の目的は潜入捜査。結良乃を襲う脅威を驚異の力で迅速に隠匿して世間が抱く松時財閥の印象を守る事が大切だった。
「捜査の大振りは続くわ」
恐らくこれからも同行するつもりだろう。今回は見込みがなかったが為に連れて来たものの、敵対組織が絡む可能性が濃厚であれば今回のような振る舞いは許されないだろう。
「予感の素振りは日々行わなければいけませんね」
冗談を被せた本音たちが行き交う中、進む車の隣を向かい合って走る車たちとのすれ違いが毎秒のように行なわれていた。
「衣代と幸せな未来を築き上げたいわ」
それは叶わない話だろう。雇い主の力には敵わない。今は高校一年生。学年を上り、やがて卒業すると共に衣代は解雇されるかも知れない。次いでもっと優秀な男を雇って恋人関係を装うか護衛という立場を大っぴらにする事だろう。しかし、そのような事情を口にしたところで結良乃を悲しませるだけ。
「ええ、ずっと一緒です。きっと」
誤魔化しながら家に着く。車を降りれば外の世界。既に嘘の数は計り知れず、後ろめたさに押し潰されてしまいそう。外の空気が心なしか冷たく重たいものへと変わり果てているように思えて仕方がなかった。
「家がお待ちですよ」
「私を待ってるのは衣代以外苦しみだけ」
それはどのような口だろう。頭は何をつかんで砕いて理解として取り入れたものだろう。
「お嬢様、そのような事はいけません」
口を尖らせる結良乃の顔が愛おしくて仕方がなかった。もしかすると衣代もこの歳の頃には同じように思われていたのかも知れない。想いを仕舞って代わりに鍵を取り出してドアを開いた。
「ただいま」
返事をする者など誰もいない。朝から生きたものを何一つ飲み込んでいなかった大きな屋敷に十時間ぶりの人間。
結良乃はリビングのソファーに腰掛けて画面を点けて通信を繋ぐ。続いて端末を操作して一人の男と繋いだ。
「お父様、無事に戻りました」
父は結良乃の目を見つめて真顔のまま口だけを動かした。
「無事ならよい」
二人が話している間に衣代は掃除に取り掛かる。三日に一度で構わない。そう申しつけられていたものの、一度に手を付けられる広さではない屋敷を部屋ごとに三分割して清掃作業に取り掛かるため毎日掃除を行なっている気分だった。
「そこのもしっかりと護っているな」
「はい、この命に代えてでも守り抜いてみせます」
名前すら呼ばない声を受けて返事だけを返して再び掃除に取り掛かる。これからどのように動くか、身体に染み付いた記憶が勝手に引き出してくれる。
「そこのでなくて衣代って呼んでくださいお父様」
「区別は必要だ」
人を人として見ないような言葉に思わず顔をしかめてしまう結良乃に対して父は顔を微かに歪めつつもすぐさま圧の強い無表情に変えて更なる言葉を挟み込む。
「無表情でいろ、笑みの形は教えただろう。話すときの口の角度から声の調子まで。松時財閥の名に泥を塗るな」
沈黙の三秒はあまりにも痛々しく、衣代の方へと視線を逸らしてしまいそうになるものの、衣代は既に部屋にはいなかった。
「はい、かしこまりました」
なんて無感情な声だろう。氷のように冷たくて実用的な鉱物のように無機質でビル群のように色を失った言葉。それこそがあの男の求めるものであることは明白だった。
「勉学に励め、わたくしはもう長くないのだから」
「はい、かしこまりました」
既に五十台のへと差し掛かろうとしている彼。それ程までに年を取っていないように見えても日常に於いて咳き込む姿からは終わりの予兆が見受けられる。今も恐らく苦しみを隠して耐えているのだろう。明らかに若い頃の過労が今にのしかかっていた。
「今日はここまでだ、また来月」
通信は途絶え、残された静けさと虚しさ。埋める方法などただ一つ。それを実行するには全ての用事を終わらせなければならなかった。
「衣代が掃除をしている間に」
自室に戻り鞄を開いて宿題をすぐさま片付ける。結良乃が積み重ねてきた勉学、彼女が手にした学力をもってすればすぐにでも片付けられる。
「早く終わらせた方が楽しい時間が増えるもの」
そうしてすぐさま書き込むべき事を全てノートに刻み、予習を軽く済ませてくつろぐ事数分後。勉強の疲れは感じられないもののちょっとした余韻に浸って力を抜いている彼女に用があるとでも言うようにドアを軽く叩く音が届いた。
「そうね」
開くと共に衣代から入浴するよう言いつけられて結良乃は色濃い笑顔を作り、端に滲む影すら明るみを引き立たせる為の素材に変えてしまう。
「衣代も一緒に」
「申し訳ございません、お一人様で」
結良乃の目論見は一秒ともたずに敗れ去り、破れた願いの破片は花びらとなって心を漂いやがて壁に張り付いた。この感情が心に刺さるほどの固さと鋭さを持っていたのか結良乃の心が脆かっただけなのか、今の時点で確かめる術は見当たらなかった。
寝る準備を整えて、しかしながらまだ眠りに就くつもりはないのだと灰色がかった薄水色のソファーに背を預けてくつろいでいる。近頃映画化されると話題の本を開き、文字を追い、描かれる情景を取り入れる。初めて見たものがどこか知っている景色に置き換えられて脳裏で描かれるそれは本物に近しい芸術か偽物でありながらも偽りから程遠い現実か。
風の音すら通さない屋敷の一部屋の中でドアの開く音が届いてきた。
「紅茶を淹れます」
衣代の細い指に支えられた濁りのないティーカップとソーサーは明かりを弾いて艶を描いている。まさに今しか描けない模様。
紅茶が注がれるだけ、ただそれだけで湯気が空気の中に息づいてカップの艶に曇り模様を加えて行った。更に温めのミルクを加える。ぬめりのあるそれは明るめの紅と混ざり合ってマーブル模様を描いていく。
「イングリッシュブレックファーストです」
「……名前」
目を細めて呆れ混じりに見つめてくる結良乃に対して控えめな笑顔を咲かせ続けてその目を閉じる。
「紅茶の渋みにミルクのコクがちょうどいいのです。朝のお供を夜の単品だなんて」
「夜食は無いのかしら」
「ラーメンのカロリーを聞けば同じ言葉は出て来なくなることでしょう」
そうして衣代は入浴するべく部屋を後にした。
一人残された結良乃は湧き出る靄のような想いを上る湯気に溶かしながら口に合った控えめな量の紅茶を含み、香りを広げる。真面目な雰囲気を醸し出す芯の通った紅茶にまろやかなミルクの味わいと舌に絡む心地がねっとりとした安心感をもたらす。
「衣代との楽しみはもうすぐかしら」
しばらく待って二十分程度の時間を過去へと流した後でカップのそこへと細くなっていく角度が急激となり始める位置で溜まり続けて冷めてしまった紅茶を一気に飲み干し自分で洗い始める。
そうして片づけを終えた後、衣代が戻って来ると共に部屋へと案内し、先に部屋に入れる。
「ねえ、衣代」
「寂しいんだね」
丁寧語は奥へと引っ込み、柔らかな瞳に真実の色が付いた。
「誰も私から距離を取って、本音が吐き出せないの」
溜め込んだそれは一気に流れ出す。一度崩れ去った我慢は再び形作られる事を知らず、気が付けば衣代の手を取って引き寄せベッドに引きずり込んでいた。
「衣代だけだよ」
世間の目を気にして生きて行かなければならない。少々のふざけはあっても甘えることの出来る程気を許せる相手などそこにしかいない。
「私からのお願いが必要だとしてもこうやって寄り合える相手は」
「どんなに強くても孤独に耐えられる人じゃなきゃ苦しいかも知れない」
現に耐えきれない結良乃が衣代に乗りかかるように、その手で包むように抱き締めて温もりを求めている。
そんな愛を受け取りながら、衣代は結良乃の頭に顔を寄せてしばらくの間動くことが出来なかった。
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