第2話 寝不足
部屋中に大きく鋭い音が響く。素早く何度も打ち鳴らされては重なり合って耳を叩く。
「うる……さ」
手を伸ばし目覚まし時計の頭を叩くように押し、頭の中に流れる気怠さに睡眠不足を実感する。
「昨日は楽しかったけど、きつ」
そうして開かれた目に飛び込む景色は薄っすらとしたライトグリーンの輝きに零れて入り込む朝の陽ざし。
でーでぽっぽぽー、でーでぽっぽぽー。
空の彼方から美しき声楽を奏でる鳥は果たしてどこにいるのだろう。
結良乃はゆっくりと起き上がり、睡眠不足に揺らされる足取りでカーテンの方へと歩み寄りそのまま開く。
「鳥の鳴き声、どこかな」
空を眺めた。見渡す限り自然の姿は見当たらず、切り開かれた都会の景色が見えるだけ。
ドアを開く。ただそれだけで鳥の鳴き声は大きくなり、不自然な音の流れをしている事が見受けられた。
「もしかして衣代の仕業」
隣の部屋のドアを開き、音がさらに大きくなった事を確かめて確信を得た。
「おはようございますお嬢様、朝からお元気ですね」
ラジカセから流れる鳥の声は紛れもなく衣代が意図して流しているものだった。視線に気が付くと共に衣代は口を微かに横に広げてみせた。
「これですか、キジバトの鳴き声いいですよね、落ち着いて業務に取り組む準備です」
恐らく彼女の日課なのだろう。酒もたばこも禁止、趣味に大きな時間を費やす事も許されない、まさに現代社会の自由の中に取り残された不自由の澱。
「今から朝食とお弁当をご用意いたしますのでどうかお待ちを」
ラジカセの電源を切り、立ち上がる。そんな動きの中、侍女の立場を奪う発言が現れた。
「私がご飯作る、衣代は楽に」
目を丸くしつつ、強く輝く瞳を覗き込む。その意志は軽い言葉で跳ね除けられるものではなく、彼女の想いの重さに敗北を掲げつつも一つの問いを放り込む。
「作られたことはございますか」
「いいえ、包丁の重みすら分からない」
途端に首を左右に振る結良乃を見つめ、沈黙の三秒間は生まれ落ちる。
「では、一つずつ……お嬢様にも大人になっていただきましょう」
「衣代師匠、お一つよろしいですか」
勢いよく飛び出して来た言葉に気圧されながらも、その無言すら纏って態度で促してみせる。
「師匠という事でタメ口でお願いいたします」
日頃の言葉遣いと反転してしまう。一緒に過ごし始めて一か月足らずでそのようなことが起こってしまう事に衣代は頭を抱えた。
包丁を握らせた途端目つきを変えた結良乃の包丁捌きはあからさまな乱暴者だった。
野菜を上に投げて切り裂こうとするという発想はどこの番組で知った事だろう。
「誰に教わったの」
「アニメで知りました」
衣代に止められて改める。しっかりとまな板に人参を押し付ける姿はまるで見下しながら人間を押さえつけて斬首を執り行う野蛮な処刑人。
「気分は」
「ご機嫌よ」
結良乃の言葉はその通りの感情を宿している。妙に高揚した様子が見られるのは何故だろう。
「次いで」
掛け声のように声を放ち、包丁を掲げて人参を見下しながら言の葉を落とす。
「ごきげんよう」
遅れて落とされた刃は橙色の身体を見事に一刀両断する。その様を肝を冷やしながら見つめる使用人という風変わりな立場と共に結良乃の態度に困惑を覚える衣代は結良乃の手首を細長い指で優しく包み込む。
「いいかな、こういうのは」
そこから始まった衣代のサポート付きの包丁さばきは圧巻の一言。そんな一言を素直に出す事すら叶わなかった。
「これは何度も刻んで」
まな板に小刻みな音が立つ。幾度となく身を断つ。結果生まれた人参のみじん切りは結結良乃の中に驚きを生み出した。
「スマートな奥義のようですね」
「何年も努力を積み重ねてきたから」
「さすがです」
むず痒い、そんな感情に頭を掻きたくなるものの、堪えて平常心を装い現実へと変えて行った。
「ピーマンは一回両断してタネとヘタを取って」
従ってピーマンを切るその仕草はたどたどしく、衣代にとってはひどく懐かしく思える光景だった。その懐かしさの正体が自分自身だと確認するや否や軽い笑みを浮かべながら続けて凍った肉を電子レンジに入れて解凍するように使い方を教えながら実行させてピーマンの刻み方を感覚として身体に染み込ませる。
「玉ねぎを」
包丁を入れる度に結良乃は目を閉じ動きを止めて涙を拭う。衣代を見つめて彼女の言葉は突如飛び出した。
「女の子ですもの、泣いてもよろしいですね」
「女の子関係ないと思う」
「師匠も私の成長ぶりに泣いても宜しくてよシクシク」
真面目なのか不真面目なのか、真面目にふざけているのだろうか全力で全力を出さない事に尽力しているのか。つかみどころのない姿が見受けられ、本日何度目か覚える事すら諦めた困惑を繰り返し抱いていた。
トマトとキャベツとキュウリのサラダにピーマンと人参と豚肉のからしみそ炒めといった庶民的なメニューを作り上げ、結良乃は心底誇り高い笑みを見せつけていた。
「貴族の血を引いた私に不可能は無かったみたいね」
「ええと、その調子? で頑張って……でいいのでしょうか」
血筋が関係してくる事なのだろうか、などと言った余計な言葉を挟むことなく、黒の細いフレームに収まるレンズ越しの瞳で結良乃の誇らしさに満ちた表情を見つめていた。
「庶民と同じように生きて行ければ庶民の事も少しはお分かり頂けるでしょう」
「調理実習おかわり」
衣代は細い手首に巻いた素朴な茶色の革のベルトを、そこについている腕時計を見つめてまた今度と言葉を置いて外出の準備に取り掛かる。
結良乃の部屋の前で姿勢を正し、しっかりと立ち、彼女の登場を待ち。
五分が経過。沈黙は保たれている。
更に待つ事五分が重なり、しかしながら未だ沈黙は保たれている。
時の経過を数字として声に出す代わりに時計の秒針の進みを目で追っては学校に遅刻してしまわないかと肝を冷やす。
「お嬢様」
答えが返ってくる気配すら見られず、ため息をつきながら遂に足を踏み出す。
「無礼をいたします」
許可すら取らずに開いたドアの向こうに彼女の姿は見られない、かのように思われた。しかしながら見渡してみればベッドに大きな膨らみがある事に気付いて衣代は布団を剥がした。
「起きて下さい、お嬢様」
「嫌だ、衣代と一緒に寝たい」
腕時計の盤面を向けて針を指し、クローゼットの中でハンガーに掛けられ続けている制服一式を手に取り衣代の黒の鞄と結良乃の学生鞄を左腕に掛けて結良乃の背中に右腕を回して持ち上げ左腕を膝裏に回して支えとする。
「お嬢様はお姫様ですか」
「お嬢様抱っこ」
勢いよく階段を駆け下りて、結良乃を支えたままの右腕を微かに捻りドアの部を握り締める。
「無茶を、追加手当の茶も無しなのに」
靴を履き、結良乃の靴を手に取る。ここまで結良乃のやる気は皆無、衣代の腕の中で眠りの続きを担当、楽しみを堪能する身となっていた。
「甘えん坊のお姫様もすぐに終わりますよ」
戸締りを済ませて車に乗せ、エンジンをかけてすぐさま敷地を飛び出した。
眠気に支配されていた結良乃は目を擦りながら意識を現実に留めながら辺りを見回し、続けて着替え一式を確認したのちに衣代を直視する。
「靴下は……どこ」
衣代の心は音を奏でる。意識は一つの失敗の末尾を繰り返し演奏し、恐る恐る言葉を引き出す。
「もしかして、もしかするまでもなく忘れてしまいました」
しばらく進み、信号機が赤に変わったタイミングで衣代は鞄を開いて紺色の靴下を取り出す。
「申し訳ございません、私の替えのもので宜しければ」
結良乃は頬を緩めて蕩けてしまいそうな笑みを現しながら受け取って真っ先に足を通していく。
「衣代みたいに何でも出来る気がして来た」
「そんな子どもみたいなこと言われましても」
サイズは合っているだろうか。衣代の方が頭一つ分程度背が高く、結良乃の小さな足を覆うには必要以上の大きさである事は間違いなかった。
「体育が無い事を祈っておきます」
この調子であれば体育用の白ソックスも忘れている事だろう。記憶の用紙に綴っていた本日の授業のスケジュールを見つめ返す。
――国語、日本史、数学、家庭科、数学、地理
信号が青の輝きを示す。進むことを許してくれるまでにかかった時間が嫌に長く感じられ、そこからアクセルの踏み込みが荒くなった事を進みから感じて更なる動揺を呼び起こす。
「いけませんね」
一度大きく息を吸って、気分をすり替えては暴れ馬の如き激しい車を励ます。平静を保つことによって迷走を防ぐ。
学校の近くにまでたどり着いた。そのまま職員用の入り口へと回り、敷地に入り車を停める。
「お嬢様、早くお着換えください」
衣代はいち早く学校指定の制服に袖を通して車を降り、缶コーヒーのタブを上げるその仕草に見蕩れている姿が外からでは薄暗い窓を挟んでも見えてしまう。
ドアを開き、顔を覗かせて結良乃へと言葉を捧げる。
「お嬢様」
「大丈夫、今日は何でもできるわ」
頬を赤らめながらうねる髪をなぞる艶同等の輝きを瞳に宿し、柔らかなまつ毛の色っぽさを前面に押し出し全面的に魅惑を放つ。
その顔はまさに自信に満ち、指針を見失った一日を過ごしてくれそうな気配を隠し切れない。
――嫌な予感がする
たかだか靴下の一足で生まれ変わることが出来るのであれば衣代は今の仕事に就いている事は無かっただろう。
――いけない、あの失敗は次の失敗を防ぐ為の防波堤さ
経験は何処に行っても活かすための材料となる。
――だから、過程も結果も感情も全部生け捕りにしたのに
ふと思い出したそれを冷めたコーヒーと共に流し込み、再び結良乃へと視線を向ける。
「着替え完りょ」
出て来た彼女の顔はまさに自信満々でやる気に充ちていた。
「気合いが空回りしないようお気を付けください」
「もっちもっちもっちのもちろーん」
それから顔を傾けながら衣代の瞳を覗き込み、数秒の沈黙を生む。
衣代の心臓が騒がしい音を立て、意識を掻き立てる。同性の目からでも綺麗な彼女から瞳を放すことが出来なくなってしまっていた。
――現代のメデューサは魔力でなくて魅力で石に変えてしまうのかな
「衣代衣代ところで勿論ってどんな論かしら、餅でもつけばいいのかしら」
ただ少し困らせたいだけの発言に対して微かな笑い声を零しながら結良乃を教室へと先導した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます