お嬢様は甘えたい

焼魚圭

第1話 夜のドライブ

 静寂の暗闇を切り裂くのは金属のボディーだろうか。アスファルトを叩くのは金属の身体を運ぶ黒くて分厚いゴムの輪だろうか。誰もが眠ろうとしているように思えて眠らぬ民のいる鉄の街を駆けるそれは激しく揺れる。

「お嬢さま、しっかりと捕まっていて下さい」

 ぴっちりとした灰色のスーツを纏い眼鏡をかけた女は目を細めながら勢いよくハンドルを切る。眉にかかる前髪が鬱陶しくて仕方がない。

 勢いよく角を曲がる車が内側に生んだ衝撃は乗っている二人を激しく揺らす。

「お嬢様じゃなくて結良乃って呼んで」

「いいえ、今はお仕事でございますから」

「衣代と二人っきりなのに」

 松時結良乃は松時財閥の次女。スーツ姿の眼鏡の女、納川衣代は次女専属のボディーガードにして侍女。

「いいえ、お仕事でございますから。お嬢様はお隣で推し事なさっていて下さい」

 追われていた。何者かによって追跡を受けて在学中の別荘が特定されて襲われている。

 衣代は己の危機管理の甘さと共に胸いっぱいの苦みを噛み締めて、細い黒フレームの眼鏡を外して赤ふち眼鏡へと掛け替える。

「推しが降臨、眩しいよ」

「寒いかも知れませんがご覚悟を」

 拳銃を取り出して窓を開ける。ヘッドライトだけが示す道、後ろはおろか隣も見えない暗闇の中で衣代は一筋の迷いもなく拳銃の引き金に掛ける指に力を込めた。爆発音と閃光、勢いよく突き進む弾丸が瞬きの輝きで射線を描く。続いてもう一つの爆発音と金属がアスファルトを削る音が響き渡る。

「終わったのかしら」

 あまりにも素早く差し出された狙撃の結果は結良乃にとっては一瞬の出来事で、実感が湧いて来ない。

「油断なりません、お嬢様」

 視線を正面に移した途端に現れた強烈な光、ハイビームと逆走という迷惑を極めた車の突進は敵の計らいだろうか。再びハンドルを切って躱す。死を躱し生と交わす。

 視界の端にて逆走車が唸りながら道路を蛇のようにうねる姿を見て取って再び正面を向いたその時、止まっている車の姿を確認してしまった。

「やられた」

 勢いよくブレーキを踏みながらサイドブレーキを引き、シフトレバーをニュートラルに置いてドアを開いた。

 固めの灰色のパンツスーツに覆われた足から地面をつかむように降り、身を空気にさらすと共に拳銃を構えて発砲する。二発、三発、すぐさま撃ち込み、暗闇の中で気配だけを晒す悪党どもに軽い一撃を与えて駆ける。

 ライフルを持つ男につかみかかって手首を捻じって無効化すると共に背後から迫る気配へと向かって投げ込んで、もう一つ迫り来る気配に細長い脚を回して蹴りを与える。

「相変わらずかっこいい」

 そんな様子を頬に熱っぽい赤を走らせながら眺め続ける結良乃。彼女だけが知る推しの姿。彼女だけが見蕩れる事を許される赤ぶち眼鏡のボディーガード。車の中が特等席、未公開の推しの戦闘劇。

 しかしそんな幸せも長くは続かなかった。

 車が傾く様を感じ取り、安心は、平和はそれ以上に傾いていく。

 身体に絡みつく太い腕は衣代の細く引き締まった腕の感触とは大きくかけ離れたもので、喉元に込み上げる言葉にならない感情に思わず顔を微かに上へと向けてしまう。

「捕まえた」

 言葉と共に車内に届いたもう一つの重み、重みと呼ぶには軽やかな感覚が安心感を呼んでくれないのはピンチであるからに他ならないだろう。

「来ても遅いぜ」

 彼らの目的は身代金だろう。とすれば殺す事は無いだろう。しかしながら万一もあり動くことが出来ない。結良乃の身体に傷を残す事があってはならない。

「何が目的か、話せ。そしてお嬢様を放せ」

 目的など訊ねるまでもない。どのような流れになろうと金に直結する事は間違いないのだから。

 男は醜悪な笑い声を上げながら衣代をにやけ交じりに睨み付けた。

「身代金だ、あとお前を海外に売るのもいいな」

 赤ぶち眼鏡が主役と言っても差し支えない程に印象を強めて暗闇のエフェクトをかけても隠し切れない凛とした美貌、本来似合わないはずの大きな眼鏡がアンバランスな美しさを引き立ててしまっている事に衣代は気が付いていなかった。

「降参しろ」

 そう言い放つ男の腕の中から細く鋭く高い声が、頼りない音がいつも以上の大きさで響いた。

「私たちの幸せの舞台から降りて」

 男が結良乃を見下ろそうとした途端、強い衝撃が走った。

 衣代はその隙を逃す事などなく、男から素早く結良乃を引き離してドアを開き、男を引きずり降ろしてしまったようだ。

 気が付けば男は寒気に包まれていた。身の震えが危機を喚起していた。あごに走る衝撃の痕跡と結良乃が持っている棒を目にして男は衝撃を与えた武器の正体を知る。持ち手が少し細く幾つかの小さな棘が生えた棒、一般的にこん棒と呼ばれるものだった。何故そのようなものが積まれているのだろうか。理解が現状に追いつけなくて遠くへと逃げてしまう。

 疑問は隙を生み、衣代によって腕を後ろに回されそれからの記憶と意識を失ってしまう。

「身分証明書はありませんね」

 衣代は襲って来た車のナンバープレートを撮影して松時財閥護衛班の本部へと送信する。

「盗難車の可能性が高いものの」

 その様子をひたすら目を輝かせながら見つめている結良乃に目を向け優しく微笑みかける。

「帰りましょうか、お嬢様」

 向けられた仄かな笑顔は作り物。

――これで終わらせるの嫌

 本物を引き出すために結良乃は狭い車内でこん棒を振り回しながら衣代に声を見せつける。

「帰りたくないよ」

「そうおっしゃられても」

 流れは作られた。全てを結良乃の想いのままに進めてみせよう、こん棒を仕舞いながら続けて視線と言葉を向けてみせる。

「ねえねえちょっと近付いて」

 方向がまばらのライトの輝きを集めた様な笑顔が夜闇の中に咲き誇る。光り輝く薄青い瞳は昼間の星空、夜に訪れた明るみが異彩の世界そのもの。

 そんな眩しさを守る長いまつ毛は黄金のヒマワリだろうか。衣代は引っ張られる心を抑えつつ顔を近付けてみせる。明るみに対して影、しかしながらその影は何処までも爽やかであり、眼鏡の彼女は暗みをものの見事に着こなしていた。

「衣代」

「はい」

 手が伸びる。白くて柔らかな見栄えをした指がゆっくりと近付いていく。結良乃の指は瑞々しさに塗れており、衣代の細く少しの水分を感じさせる程度の指とは異なる可愛さが見られた。

「衣代ってかっこよくてかわいくて」

 結良乃の指はやがて微かに衣代の黒い髪にかすり、耳元まで到達した。

「ホントに私の推し」

 それから衣代の視界は揺れる。滲んで行って赤く分厚いフレームの姿が視界に入るのを確認した。

「油断したね、お仕事終わり、推し事始まり」

 眼鏡は外され、心を隠すレンズは去って素顔が現れる。

「見えません」

 車に乗り込み細いフレームの眼鏡を掛けて二人以外の何者も介入できない事を確認した上で静かな咳払いを挟み、目に込めた力を抜く。

「見えなかったよ、近眼なんだからやめて」

「そうでもしなきゃ仕事モード抜けないでしょ」

 突然丁寧語は砕け散り、その目は柔らかな曲線を描き、夜空の中に朝のような優しさの交わりが生まれる。

「仕事モードでなくてもタメ口なんて」

「私が許してるからいいの」

 お嬢の権限、このやり取りを見た関係者であれば誰もが咎めようと動き出す事だろう。特別な関係を築き上げたい結良乃にとっては周囲の人間の全てが邪魔で仕方がなかった。

「すぐに帰るのももったいないからしばらくドライブしようよようよう」

 四月の中旬、季節は桜の開きと散りによって既に示されていた。春の印象を覆してしまう冷気は夜という時間特有のものだろうか。肌寒さに軽く身を震わせながら結良乃は薄桃色のドレスのような飾りがひらひらと揺れるパジャマの上にクリーム色のカーディガンを羽織る。

「ホントは白の洋服と灰色のスカートも欲しかったのに」

「緊急時だったからね」

 改めてシートベルトを締めながら結良乃は衣代の肩に顔を預けるように傾ける。

「衣代もスーツじゃなくて私服着ようよ」

「緊急時だったから」

「スーツ以外着てるところ見た事無いよ」

 衣代はレンズ越しの追憶を思い描く。グラスの表面に描かれたお一人様のシアター。そこに映された衣代の姿は常に制服やスーツと言った社会常識の象徴のような恰好か地味な服だけだった。

「スーツなら目立つ事がありませんから」

「仕事口調」

 指摘を受けて衣代は自身の口を手で覆い、顔を逸らす。

 それからシフトレバーをドライブに入れてハンドブレーキを下ろす。

「オートマなんだね」

「マニアが好むようなマニュアル車は私の仕事の中では操作が煩わしいから」

 テレビの中の世界ではシフトレバーを忙しなく動かす人物の姿が映される事があるものの、確かに今のような事態に対応するには集中力を削がれてしまうだろう。

「衣代がそうやって動かすのもかっこいいと思うの」

「ロマンだけだと破綻するし、それに」

 言葉を切り、ゆっくりと車を動かしながら結良乃に向けて微かな笑みを浮かべた涼しい顔を見せつけ言葉を続ける。

「結良乃と話しやすいから」

 言葉の端を迎える頃には標識の指示に従った速度を出して進んでいた。ぽつぽつと残された明かりを過る度に網膜に焼き付く残像は瞳が残した記憶だろうか。

「惚れさせるような事言って、だからタメ口お願いされるの」

「自制は行なわないようね」

 信号機が色を変える様を見つめて車を静かに止め、辺りを見回しながら結良乃に質問を放り込む。

「欲しい飲み物や食べ物はおありかな」

「分からない」

 結良乃の返事は近頃見た事のない勢いを持っていた。恐らくこれまでテレビで見て来た現実や憧れが実感として染み付いていないのだろう。

「身分コーティングで頭を固めた人にはナイショでお嬢様ならざる常識教えよっかな」

「きゃーステキ」

 指を空で動かしながら不敵な笑みを浮かべた眼鏡の女のすっきりとした顔立ちに結良乃の頬は桜色のきらめきを覚えてしまう。とっくに過ぎ去った季節が今、結良乃の中で蘇る。

 車は再び動き出し、すぐさまウィンカーを出して曲がった先に待っていたコンビニを見つめて目を輝かせる結良乃はすぐさま駆け込みチョコレートドリンクとクリームシフォンケーキを、衣代は緑茶と春巻きを買って再びドライブは幕を開けた。

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