おやすみ、大丈夫。

夜明いふ

第1話

 仄暗い時間が過ぎている。空から落ちる雨粒の合間を縫うように、彼女の声はまっすぐに僕の耳に届く。

 全身全霊で恋をしたい。この時間が、温度が、彼女が、僕の願望の産物なのだとしても。


「今日は三日月だね」


 明衣は小さく呟いた。彼女は二日前にプロジェクターを買って以来、壁に月のライブ映像を映し出していた。

 夕食を済ませた彼女は、寝室と同じような空間を作りたいと家から写真を持ってきた。


 付き合って五年記念日に行った湖の見えるコテージ。そこから見える夜空は今でも鮮明に覚えている。紙吹雪を舞わせたような星空に、思わず息を呑んだ。繋いだ彼女の手を今だけはと、ゆっくりと振りほどいた。

 頬を撫でる風は、真夏なのに冷たく感じる。


「どうしたの?」


 きょとんと瞳を丸くして見つめる彼女に、僕はポケットの中から願いを取り出した。彼女はそれが指輪だと知ると、子供みたいにわんわんと声を上げて泣いた。僕は笑いながら、「しーーーーっ」と彼女の唇に人差し指を押し付けて、周りの客に頭を下げた。

 ぱらぱらと響く、拍手にこそばゆい幸福感を覚えながら彼女の薬指に指輪をはめた。

 これが二年前の事だ。

 

「そうだ! 写真をさ、映像の周りに星みたいに散りばめてさ、あれ付けよう? あの、なんだっけ、昼間に光蓄えて夜に光るやつ。……そうそう、蓄光だ! あれさぁ、子供の頃に布団の中で見るの好きだったんだよね。今も売ってるのかな? 探してみよーっと!」


 彼女の発想力と行動力には、未だに驚かされる。僕はベッドの中で彼女が壁に貼っていたその写真を回収する音に耳を澄ませていた。


 ぺりぺり、「あ」、ぺりぺり、「よし」


 繰り返される生活音。普段なら心地良くて安心するはずなのに途中の「あ」が気になって眠れそうにない。

 もしかして壁紙が剥がれた……?


「終わり良ければ総て良しといいますからね。うんうん。ここはね、さっき注文した星形の蓄光ステッカーを貼ればね、失敗も煌めきに変わりますから。うんうん、あとでちゃんと謝ります……」


 やっぱり剥がれてたか……。彼女は自分と僕を納得させるように「うんうん」と繰り返しながら


 僕がこうなってから彼女のひとり言は確実に増えた。


「ひとり言でかいな」

「俊が反応してくれないからひとり言になるの!」


 わざと小言を云って怒らせていたころが懐かしい。子供みたいに怒ったり泣いたりする彼女が愛おしくて仕方がなかった。

 

「できたーー」


 彼女の楽しそうな声に僕は心の中でだけ微笑む。「上出来上出来」と満足げに喜んでいて、僕は何もしていないけれど嬉しかった。

 ベッドの横のソファに布団を敷く音が聞こえる。彼女は僕の額に優しくキスをして、横になる。


「また明日ね」


 彼女は決して“おやすみ”とは云わなかった。


 窓の外からは蝉の声に加え夜の散歩を楽しむ声が聞こえる。

 歩くには足を動かす。話すには声帯を震わせる。今の僕にはできないそれらの行為をしている人間、蝉ですら妬ましく感じる。

 彼女が好いてくれていた優しい僕は、もうどこにもいない。嫌悪感に押しつぶされそうになる。

 なんだか息が苦しい。そうか、きっともう。その時が来たんだ。


「俊!」


 叫ぶ彼女はすぐにナースコールを押した。何度も名前を呼ぶ彼女に僕は呼び返すこともできない。

 人がぞろぞろと入ってくる気配がした、一瞬で騒がしくなり一瞬にしてしんとする空気の中に彼女の息遣いだけが聞こえる。


「ねえ。知ってる? 有明月って三日月と逆の形なんだって」


 そうなんだ。知らなかった。


「十三夜月の日に好きな人の手を十三回握ると永遠に結ばれるんだって」


 そんなの聞いたことがない。


 彼女は震える手で願うように十三回、僕の手を握る。


「寝待月はね、寝ても覚めても待ってでも会いたい人がいる人が、道に迷わないように照らしてくれる月なんだって」


 次々と紡がれる彼女の嘘。

 すすり泣く声が徐々に曖昧になっていく。

 

 最後にお願いだ。


 僕は心で彼女の心に語りかけた。念じるに近い強い感情で。

 彼女と僕の心の瞳が交わった時、彼女はハッとしたように息を吸った。


「おやすみ」


 君が笑顔でいられるように何回でも月に願うよ。

 だから、おやすみ、大丈夫。

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おやすみ、大丈夫。 夜明いふ @soranoaosa

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