近くて遠い、君までの距離

椎那渉

第1話 触れたい

 不思議な夢を見ている。

 それが夢だという自覚はあった。指先で触れられそうな実体を持ったその夢は、絶えず俺の心を揺さぶっている。目の前に果てしなく広がる水面は風に靡いてさざ波を立て、素足に絡みついてきた。

 初めて見る景色なのにどこかで見たことがあるような気がしてしまう。

 だがそれを思い出せない。


ピピピピ ピピピピ


 けたたましく鳴るアラーム音を手探りで止め、目覚まし時計の時間を確認した。

 ぼんやりと霞む視界を凝らし、読み取ったデジタル数字は午前五時。

「…、なんだったんだ、あの夢は」

 布団の中で身じろぎしながら、なかなか離れてくれない布団を撥ね退けて起き上がる。

 着替えて出勤前の身支度をしながら今日の予定を確認するためにスマートフォンを見ると、待ち受け画面が何も表示されず、暗くなっていた。アプリやアルバムのアイコンが消えていて、唯一視認できるカレンダーを見ても何も記されていないことに気が付く。

 おかしい。確かに昨日の時点では予定が入っていた筈だ。寝る前に操作しているうちに寝ぼけて削除してしまったのだろうか。そもそも待ち受け画像が何も表示されていないのに、カレンダーだけ出ているのは変だ。

「…?」

 仕事が終わったらキャリアショップに確認しようと気を取り直して歯を磨く。顔を洗い、少し頭を出してきた指先に当たる髭を剃ろうとする。しかし、目の前にある鏡が曇っていて何度拭いても俺の顔が映らなかった。

「なんなんだ?一体」

 仕方なしに手探りで剃刀を滑らせる。途中で自分の皮膚を切り裂いた鈍い痛みが奔る。やはり鏡がないと上手くいかなくて、頬を伝う生暖かいものをタオルで拭い取った。

 朝から散々な気分だ。昨晩はこんな目に遭うなど、思いもしなかったのに。

 仕方なく救急箱から絆創膏を引っ張り出して、傷の付いた頬の辺りに貼り付け着替えてズボンのポケットにスマホを突っ込み通勤鞄を持ち上げる。

 満員の高速バスに乗るのが嫌だから、いつも始発から2本遅いバスに乗っていた。だから今日も道路は空いているし、バス停までは昨日メンテしたばかりの愛車である自転車と共に向かう筈だった。

 玄関のドアノブを回すといつもより軋んだ音が聞こえる。蝶番が悲鳴を上げて、パラパラと何かが落ちてくる。肩に着いたその破片を摘み上げてよく見ると、その正体は赤鏥だった。

 それまで「普通」だった筈の景色が急に違う色に見えてくる。

 錆びた扉、真っ黒なスマホ、映らない鏡、色褪せていく部屋。

 徹夜続きで疲れているのだろうか。そうでなければ言い様がない現象が立て続けて起きている。部屋の外なら、何もないと思いたかった。

 意を決して玄関のドアを押す。

「……なんてこった」

 玄関の敷居を超えた先、一面に広がるのはだだっ広い水溜まりだった。

 見慣れた道路や街並みはなく、電信柱さえも消えている。それなのに太陽はきちんと同じ空の同じ軌道上にあって、反対側には沈みかけている欠けた月が浮かんでいる。辺りはシンと静まり返り物音ひとつ聞こえなくて、動けない足を少しずらすとようやく水の跳ねる音が生まれた。潮の匂いが鼻を掠める。

 一歩後ずさりして部屋に入ろうと振り返ると、そこに先程まで居た玄関や部屋が跡形もなく消えていた。

 振り返るまでの間に何があった?

「おい、冗談だろ」

「……冗談だと、言ってくれ」

 変な汗が全身から吹き出してきて、誰ともなしに声を掛ける。

 誰か、誰でもいい、返事が欲しい。声が聞きたい。脳裏を過ぎるのは職場の同僚、それから……。

 スマホで電話を掛けようとして、ポケットの中から取り出すと案の定画面は暗いままだった。先程映っていたカレンダーさえも消えている。カメラを起動する側面ボタンはまだ反応するのに、画面を叩いても電源ボタンを触ってもうんともすんとも反応しない。

 一面に広がる海を目前に、「綺麗だ」と場違いにも思えてしまう。この景色は何処かで見たことがあった。もしかしたら、これが俗に言う「天国」なのかも知れない。

 それでも何時だったか、この景色を写真に撮った記憶が朧気ながらにある。

 何が変わるとも思えないが、あの時と同じようなアングルでスマホを構える。カメラが起動して、自動フォーカスが何もない海と空にピントを合わせた。

 『カシャッ』


「『無機質な機械音が鳴って、画面いっぱいにある筈の無い街並みが映っていた……』か」

「この後の展開、どうしよう?」

 画面に表示されている選択肢は三つ。そのどれもが彼女の頭を悩ませる。

 画面に映るのはスマートフォンを両手に構え、愕然とした主人公。

 グレーのスーツに身を包み、癖のある短い黒髪に深い緋色の瞳といった何処にでも居そうなキャラクターだ。彼の名前は獅堂恭輔しどうきょうすけ

 テストプレイの抽選を一緒にしないかと友人に勧められたスマートフォン向けサウンドノベルゲームだが、選択した主人公の性格やルックスが気に入っていつの間にか朝から没頭している。

 「6人の不思議な住人たちと織り成す非日常の物語」を売り文句にしている通り、どのキャラクターも個性が強く、また魅力的であった。

 まだベータテスト版と言うこともあり、デバッグや改善点などを洗い出す作業も兼ねているので抽選で選ばれた応募者数名しかプレイできていない。勧めてくれた友人は抽選に落ちてしまい、彼女だけ一足先に「非日常」を楽しんでいた。

 モニターに表示されている選択肢は、『スマホに映る街並みのある方向に歩き出す』『スマホの画面に触れてみる』『違う風景を撮る』と言う内容の三択だった。

「うーん…スマホの画面に触れてみる…?」

 その選択肢をタップすると、彼もスマホの画面へ指先を落とす。画面が一瞬撓んだように見えた。

『なんだ、一体……?』

「どうしたんだろう?」

 同時に呟く声が聞こえて、思わず画面を凝視する。彼の持つスマートフォンに、誰かの顔が映っているのが微かに見える。

 ただの偶然にしてはリアルだなと思いきや、画面の向こうにいる獅堂恭輔と目が合った。

「獅堂くん、かっこいいなぁ」

「……お前は、誰だ?」

 確かに、彼は彼女を「見ていた」。

 思わず両手を放してしまって、スマートフォンが宙に浮く。重さを感じる音が机の上に木霊する。

「えっ?なに、何で、獅堂君がしゃべったの…?」

「おい、何を訳分からないことを言っている?お前は誰だ」

 気のせいではなかった。彼は、獅堂恭輔は彼女に向かって語り掛けている。

 もしかして、この会話の内容もゲームの演出なのだろうか。恐らくそうだ、きっとそうだと自分に言い聞かせながら、テーブルの上に突っ伏したスマートフォンを持ち上げる。いつの間にかテキストウィンドウが消えていて、リアルタイムに会話している状況に驚きを隠せない。

「…わたしは…鯨井恵美くじらいえみ。プレイヤー名は…エミだよ」

「プレイヤー名だとか何故お前が俺の名前を知っているのかはよく分からんが…この世界には、俺しか残って居ないのだと思った。良かった、お前と話せて」

「わ、わたしも…!」

 微笑む恭輔の優しい顔に、心臓が早鐘を打つ。部屋の天井を仰ぎ見て、深く息を吸った。

 この感情に名前を付けるのだとしたら、一目惚れと言ってしまってもいい。ゲームのキャラクターに一目惚れしたなんて、友人に言ったら笑われてしまいそうだ。だがこうして会話をしているのだから、今この瞬間彼は間違いなく”生きている”。

 画面に再び視線を戻すと、辺りを見渡している恭輔の背中が見える。現実に彼が居るのなら、その背中に触れてみたいと感じてしまった。果たして彼の身体は、暖かいのだろうか。

「あ、獅堂君……!」

『……くそっ、スマホの充電が切れそうだ』

 恵美の恐れていた事態が起きた。もしかしたらそろそろスマートフォンの電源が切れてしまうのではと思っていたことが、対象は違うが現実となり、先ほどまで生々しく会話していた獅堂恭輔はゲームのキャラクターに戻ってしまった。テキストウィンドウが何事もなかったかのように再び表示されて、次の行動選択を迫られる。

「うぅ、いかんいかん…感情移入しすぎたのかな。えっと、次の行動は…」

『スマホに映っていた街に向かう』『当てもなく歩き始める』『エミを探す』の三択だった。

最後の選択肢、名前の二文字に顔を赤らめてしまう。

「えっ、でも、これって……ただのプレイヤー名にしては…うーん、どうしよう」

 当てもなく歩かせるのは彼に悪い気がしてしまう。街に向かう、とエミを探すは同じ方向性のような気もするが、そこは彼女も恋する乙女(自称)であった。

 決定した選択肢は『エミを探す』。恭輔は水飛沫を飛ばしながら、何かを察知したかのように先ほどカメラを向けた方とは逆を向いて歩き出す。ずぶ濡れになった靴やスラックスの裾が重たそうに見えた。

 恵美のスマートフォンも充電切れを示す赤いLEDが点滅し、延長コードから充電ケーブルを手繰り寄せる。充電の端子にケーブルを差し込んで、少しでも彼の行き先を確認していたかった。


 と、その時。恵美のスマートフォンの画面が強制的に切り替わり、けたたましい着信音を鳴らした。

「んもう、いいところなのに…!!」

 着信を寄こしてきたのは、このゲームを紹介してくれた友人だった。通話表示をタップして、ふくれっ面で電話に出る。

「もしもし…?タクさん?」

『ミエさん!大変っすよ、例のあのゲームの主人公が!』

 甲高い男の声が受話器から溢れ出して、思わず耳を離れさせる。しかし会話の内容に心当たりがありすぎて、落ち着くように諭し続きを促した。

「え?落ち着いてよ、何があったの?」

『あの!獅堂恭輔が外を歩いているんす!』


 非日常の物語は、突然すぐ傍までやって来る。

 果たしてここは天国か、それとも…地獄の始まりに過ぎないのだろうか。

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