第1話 ミートローフ

 季節は冬。

 冷たい風が都内の路地を吹き抜け、ビルの隙間を縫うようにして神楽箭柊真かぐらやとうまの頬を刺すように吹き付けていた。

 仕事の疲れが肩に重くのしかかり、彼は少し俯きがちに歩を進める。焦げ茶色の髪をハーフアップにまとめ、襟足には鮮やかな黄色が覗いているのが特徴的だ。黒いタートルネックの上に黒いコートを羽織り、首元には緑のマフラーをしっかりと巻いて寒さをしのいでいる。足元には茶色のブーツが地面を踏みしめ、静かな足音を響かせていた。

 街は観光地の喧騒から少し離れたエリアに差し掛かり、人の流れもまばらになってきた。

 やがて彼の住む12階建てのマンションが視界に入る。灰色のコンクリートが夕暮れの薄暗い光に染まり、どこか冷たくもありながら落ち着いた佇まいを放つ。


 柊真はマンションのエントランスにたどり着き、コートのポケットに手を突っ込んでカードキーを探り当てる。指先が冷え切っていて、少し動きがぎこちない。それでも慣れた仕草でカードをオートロック式の扉に軽くかざすと、「ピッ」という小さな電子音が響き、重いガラス扉が静かにスライドして開いた。暖かい空気がエントランスから流れ出し、彼の凍えた体をほんの少し和らげる。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押すと、扉が閉まり、静かな上昇音が耳に届く。窓のないエレベーターの中で、彼はマフラーを少し緩め、深呼吸をして仕事の緊張を解きほぐそうとした。

 日常が待つ空間へと近づいていく感覚が、疲れた心に小さな安堵をもたらす。


 エレベーターが3階で止まり、扉が開くと、廊下の淡い照明が柔らかく彼を迎え入れた。カーペット敷きの床を踏みしめながら、自分の部屋へと向かう。ドアの前で立ち止まり、今度はポケットから通常の鍵を取り出して手に持つ。

 鍵穴に差し込み、回すとカチャリと軽い音がしてロックが外れた。ドアを開けると、暖房の効いた室内の空気が一気に彼を包み込む。

 玄関で茶色のブーツを脱ぎ、丁寧に揃えて置いた。

「ただいま」

 と柊真は小さく呟いたが、静寂が返ってくるだけだった。靴を脱ぐ動作で少し乱れた焦げ茶色の髪を軽く手で整え、緑のマフラーを首から外して近くのフックに掛ける。

 黒いコートも脱いでハンガーにかけ、リビングへと足を進めた。

尚都なおとー、帰ったよー」

 と柊真は少し大きめの声で呼びかけたが、返事はない。

 彼には同居人がいる。くすみのない白髪が特徴的で、面差しは柊真と酷似しているその人物は、今この瞬間、自室でパソコンに向き合っていた。後ろにまとめているものの、無秩序に跳ねた白髪が肩に広がり、モニターの青白い光に照らされている。

 部屋のドアは閉まっており、キーボードを叩くかすかな音が微かに漏れ聞こえるだけだ。

 柊真はその音に気づき、ふと悪戯心が湧いてきた。静かに同居人の部屋へと近づき、ドアをそっと開ける。

 パソコンに集中している尚都の背後まで忍び寄り、突然「わっ!」と声を上げて肩を掴んだ。すると、尚都の体が大きく跳ね上がり、椅子がガタッと音を立てて後ろにずれる。恐る恐る振り返った尚都と目が合い、柊真は思わず笑い声を上げた。

「はははっ、びっくりしすぎだよ尚都〜。部屋の電気を付けないと、もっと目が悪くなっちゃうよ〜?」

 尚都はたいそう驚いた顔で柊真に振り返り、黒縁の眼鏡が鼻の上でずれてしまっている。目を丸くしたまま、しばらく柊真を見つめた後、やっと口を開いた。

「急にやめろ……」

 と震えた低い声で小さく呟く。言葉には疲弊と、どこか呆れたような響きもある。

「納期が近いんだ。今日中に終わらせたい」

 と続ける。尚都は片手で眼鏡を直した。

 柊真は尚都の疲れた様子を見て、少し心配そうな表情を浮かべた。

「手伝おうか?」

 髪を解き、それから1つに束ね直して優しく尋ねると、尚都はキーボードから手を離し、首を振って答えた。

「いや、いい。仕事終わりだろう」

 短く断り、視線を再びモニターに戻す。その声には気遣いと頑固さが混じっていて、柊真は小さくため息をついた。

「無理しないでね」

 それだけ言い残し、彼は尚都の肩を軽く叩いてから部屋を出た。居間へと消えていく背中を、尚都はちらりと見送ったが、すぐに仕事へと意識を戻した。居間に戻った柊真は、ソファに腰を下ろし、暖房の暖かさに体を預けた。

 窓の外では冬の冷たい風がビュウビュウと音を立て、ガラスを震わせている。ふと立ち上がり、キッチンへ向かった彼は冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。少し考えた後、振り返って尚都の部屋の方へ声を掛けた。

「尚都、何が食べたい?」

 部屋の中から、少し間を置いて尚都の声が返ってくる。

「カップ麺でいい」

 その言葉に、柊真は思わず笑い声を上げた。

「もっと栄養のあるもの食べないとダメだよ」

 と軽い調子で返すと、冷蔵庫から野菜と肉を取り出し、まな板の上に置いた。尚都の健康を気遣う気持ちが、彼の笑顔に滲み出ている。

「仕事終わったらちゃんと食べなよ」

 と独り言のように呟きながら、包丁を手に持った。フライパンで玉ねぎを炒め、ひき肉、パン粉、卵と混ぜて成形し、オーブンで焼く。約40分後、香ばしい香りが部屋に広がる。じゃがいもとブロッコリーを茹で、尚都に「ご飯できるよ」と声をかけたが、「もう少し」と気乗りしない返事。

 やがてミートローフが焼き上がり、食卓にはこんがり焼けたミートローフ、茹でたじゃがいもとブロッコリー、温かいスープが並んだ。柊真は満足げに微笑み、尚都を待つ。

 食卓が整い、ミートローフの香りが漂う中、柊真が「尚都ー、ご飯だよー」と再度声をかけると、ようやく尚都が部屋から顔を出した。のそのそとゆっくりリビングへ近づく。

「……いい匂いだな」

 疲れた顔に小さな笑みが浮かんだ。柊真は「やっと出てきた。冷める前に食べなよ」と軽く笑いながら席を勧める。

 尚都は椅子に腰を下ろし、ミートローフを一口食べた。

「美味しい……」

 尚都がしみじみと漏らすと、柊真は目を細めて「よかった。ちゃんと噛んで飲み込んでね」と穏やかに返した。尚都は「そうだな……」と疲れを滲ませつつも、スプーンを動かす手が少しずつ軽くなる。柊真は「ふふ」と子供のように微笑み、じゃがいもを頬張り、二人は穏やかな会話で冬の夜を温めた。

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goodbye_hope 槻白かなめ @Tsuk1sh1r0

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