惑星ヴァニティー

上野世介

我らが地球




 あれは2080年の終わり頃だった。年上のエミトリーを学校で見て、変に自信たっぷりな歩き方をしているな、と思ったのが最初だった。


 今考えれば、彼女はあの時期に別の地域から移ってきたのだろう。いくら僕が人の顔を覚えるのが苦手だからといって、あんな風体の人間に見覚えがないとは思えない。初対面に違いなかった。フェンシングの教室に通っていた子供の頃にもナルシストでゲイみたいな男の子がいたが、エミトリーは少しだけあの男の子に似ていた。だから一発で覚えられたのだろう。


 そこから話の進みは早かった。エミトリーは僕の左隣の家に引っ越していた。

 気づいたのは初めて会った日の帰りだったが、次の日に挨拶もあった。僕の住むアパートの6階のフロアにはドアが4つもあるが、彼女は律儀に全ての家を訪ねていた。うち1つは空き部屋で、それを知らないエミトリーは2日連続でチャイムを鳴らしていたから、僕が家を出て教えてあげた。


 また1週間ぐらいして、偶然エミトリーと家を出るタイミングが被った日があった。




 *




 間近でちゃんと見るエミトリーには美しさとも言えない魅力があり、タルコフスキー映画のように静かで、パゾリーニ映画のように危うい。あの黒髪の質感はどんな高級シャンプーを使えば出せるのだろう。

 対する僕は典型的なスラヴ系で、髪色は小便みたいだし、よく不機嫌なのかかれる顔も健在だ。


「1号室の爺さん、大丈夫だったの」


 初めてエミトリーに投げかけた質問はそれだった。現状で唯一にして最大の、共通の話題だ。


「大丈夫って?」


 そう返されて僕は動揺しかけたが、何とか表情を変えずに話を続けた。


「変だろ、あの爺さん。妄言がさ」

「私は何も言われなかったけど」

「そう」

「でも部屋の中は散らかってたかも」

「入ったのか」

「ううん。ドアの隙間から見えただけ。紙だったか板だったか、色々あったよ」


 そうだったのか。意外ではないけど。そういえば外で爺さんがプラカードを持っているのを見たことがある。


「あんま話しかけない方がいいよ。反論するとうるさいから」


 それで会話は終わった。エミトリーが何も言ってこなかったから、僕は「じゃ」とだけ言ってバイトに向かった。


 バイトはピザ屋の配達で、時給は良い。人は時代が変わろうとピザが好きなままだ。自動運転配達もあってか注文は途絶えない。

 どこかの大国は戦争だの最小国家だので盛り上がっているが、ピザを配達するような人間には関係ない。ピザはいつでも求められるものだ。


 平日の昼過ぎは昼食にピザを頼む人が多い。顔ぶれは大体同じだ。でも今日だけ、最後の配達先はウチのアパートだった。住宅街だし別に変なことじゃないが。


「あ」


 Sサイズのピザを片手にミニバンを降りると、幸か不幸か、アパートの前で彼女が待っていた。

 芸術的にスラッとした手足とわずかに傾いた顔がこちらを見ていた。僕は気を取り直して歩を進める。


「ピザはいかが、エミトリー」

「免許持ってたの」

「ドライブでも行く?」

「軽率ね」


 ピザを渡してから決済用の端末を出すと、エミトリーはそこにスマホをかざす。


「あなたの所のロボ、裏で何か燃やしてたけど」


 エミトリーは電子マネーと共にそういう言葉を渡してきた。


「え?」


 ウチのハウスホールド・ロボットのマゼランが?


「こっち来て」


 エミトリーにいざなわれ、アパートの裏の空き地に行ってみる。

 空き地といっても小さな区画で、室外機と汚い地面しかない場所だ。2人でアパートの端の路地を進むと、空き地の真ん中に揺れる光が見える。

 穏やかな炎の前でマゼランが静止していた。マゼランは関節部がむき出しの銀色の古い機体で、僕が5歳の時にプレゼントしたシャツと短パンを着ている。


「何してんの……」


 あいつに焚き火をさせたことなんて人生で一度もない。だからビックリしたし、同時に嫌な予感がしていた。

 マゼランは首を回して、顔のない顔面を僕に向ける。


「ゴミを焼却中です」

「……なんで」

「お母様の申し付けです」


 そんなことだろうとは思っていた。


「でも、お前これ……」


 火を被っているのは僕の飼ってるアリの飼育キットだ。外側はアクリルだから辛うじて形を保っているが、中のアリ達は……。


 ふと顔を高く上げると、案の定、6階のウチのベランダから伯母おばが見下ろしていた。


 何かベランダから喋っているが聞こえない。おそらく「今度アリを脱走させたら許さない」とか、そもそも飼育させないとかだろう。

 声が小さいのに高圧的、伯母はいつもこうだ。保護者として僕を小さい頃から預かってくれているが、殺したくないという気持ちを必死で取りつくろうくらい、好きにはなれない人だ。


 伯母は外見的にも内面的にも特別だった。昔は美術大学で教授をしていたが、生活にはうとい人で、カーテンを買う金で花瓶を買って帰ってきた。

 今の伯母は虚弱で、皮膚病にかかっている。最近は立つ姿でさえ弱々しく、脚の代わりに細い棒でバランスを取っているみたいな酷い有り様だ。

 それでも暮らしは問題ない。両親は13年も昔に死んだけど、両親が生きている時から僕たちはマゼランに頼って生活している。電気代と点検費を払えば家事をやってくれる、一般家庭には御用達の家電だ。


 そのマゼランに恐怖という言葉が一滴だけかかってしまった気がして、僕はあの玩具みたいな銀色の体が西洋甲冑に見えそうだった。


 その後は何故かエミトリーに手を引かれ、逃げるように最寄りの公園のベンチに腰を下ろした。まだバイト中だけど配達は終わったし、10分くらいならサボれる。


「よくロボットと暮らせてるね」


 またエミトリーが変なことを言い出す。


「下手に犯罪者ぶると通報されるでしょ、ロボットに」


 ハウスホールド型に限らず、一般的なロボットには人の顔色を読む機能がある。基本は家事や仕事など、今すべき事を自動で判断するためにある機能だが、それは容易に防犯にも応用できる。


「機能としてはあるだろうけど……マゼランは大丈夫だよ」

「ロボットの方の問題なの?」

「それは…………わからない」


 大した根拠はない。経験的に、そうなったことがないだけの話。


「まあでも、案外そうなのかも。母親を殺したがってるあなたの顔、私にだってわかった。ロボットだってわかってる筈」


 エミトリーはピザを一切れ食べ終えて、突然、


「ね、私がやろうか」


 と顔を近づけながら言った。


「何を……」

「心配しないで、私は捕まっても嫌じゃない」


 何を言っているんだ。


「私って、何も無いから」


 エミトリーはベンチに落ち着き、冷えた勢いをしまい込んだ。冗談だったなら教えてほしい。彼女の目や唇は答えを隠している。


「……君は、空っぽって事?」

「そ」

「自分で言うかね……」


 自分で自分を規定するのはバカな事だ。


「あなたから見れば、私に何かあるの?」


 エミトリーの鋭い視線が突き刺さる。


「そりゃ……可愛いとか? 脚長いとか。独特ではあるよ」


 すぐに出てくるのはそのあたりか。もちろん本心でね。エミトリーは水彩画の中にたたずむペスト医師くらい異質だ。

 まだ知り合って短いから人間性を口にするのは難しい。でも、そうやって腰が引けたせいか、あまり反応は良くなさそうだった。


「1号室の人だ」


 話が変わった。僕はエミトリーに続いて、公園の外に目をやる。

 向こうの歩道にいるのは確かに1号室の爺さんだった。


「あぁ……アルセニエフさんね」


 目を合わせたくなくて僕はしおれた雑草を見ている。

 1号室のアルセニエフさんは老人にしては体が大きく、近寄りがたさは一級品。母よりも力強い足腰で歩ける人だ。


「随分とご機嫌で」

「いつもああだよ。何かしら呟きながら歩いてる」

「ふーん。ちょっと行ってくる」


 エミトリーが行ってしまった。


「はっ?」


 僕は追いかけなかった。あの爺さんと顔を合わせるつもりはないから。

 何の会話をしているのだろう。エミトリーは爺さんにピザを一切れあげている。爺さんはそれを受け取り、意外と小さい一口で食べた。




 *




 無風が長く続いてから風が吹き出すと雨が降る。地元ではそうなのだと。昔、伯母さんが言っていた。


「ちょっと、何これ」


 朝起きた途端、伯母さんが僕を睨んだ。


「テーブルにコップの跡がついてるわ」


 ダイニングにある茶色いテーブルの上にコップを置いたであろう水のシミがある。伯母さんの手には僕のコップが握られている。


「木製のテーブルなんだから、跡が取れなくなるでしょ。だいたいマゼランの休眠時間にわざわざ跡をつけるなんて、何の嫌がらせなの?」


 あの人の目はいつも狂ってる。いつも遠くにいる感じがして、何を言っていいのか。寝起きの僕にはわからない。


 この頃、眠りが浅いせいで夜に起きることがある。昨日は夜中に水を飲みにキッチンに行って、コップを使った。その後に片付けるのを忘れていたのだろう。

 普段はマゼランが伯母さんに見つかる前にテーブルを拭くが、今日はたまたま伯母さんの起床が早かったのだろう。マゼランは省エネのために僕や伯母さんの就寝に合わせてスリープ状態になる設定があるから。


「聞いてるの!!!?」


 気づけば、投げられたコップが迫っていた。

 寝起きには少し厳しい。


「申し訳ありません奥様、私の確認不足でした」


 僕の顔面に当たる寸前でマゼランがコップを受け止めた。間一髪で起動したようだ。

 すかさず僕は玄関へ逃げ、上着を取ってから外へ出た。


「はぁ……」


 まだ朝だから体が冷える。太陽も雲に隠れている。

 アパートの階段を駆け降り、顔を洗うくらいはしたかったなと思った。今すぐに階段の裏で眠りたい。


 近くに留まれる場所はないから、最寄りのバス停に向かう。一つ隣のバス停に行けばバーかカフェがある。そこで時間を潰そう。

 既に停車していたバスに走って乗り、空いた席に座って息を整える。バスの中には重い暖かさがあり、硬い背もたれすら柔らかい。


 なかなかバスが発車しないので、閉じないドアに目をやると、その向こうから人が歩いてきていた。乗るのを待っているのか。

 早くしてほしい。伯母さんは外出できないから追ってこないが、マゼランをけしかけてくる可能性はある。

 ドアが閉まり、バスが加速を始める。最後に乗ってきた人の顔をチラッと見た瞬間、僕は目をそむけた。あろうことか、アルセニエフの爺さんだった。しかも後ろの席に座ってきた。


「学校、こっちじゃないだろ」


 何か話しかけてきた。


「……」


 寝たフリをしよう。今は気分が最悪なんだ。話しかけないでほしい。気持ちの悪い老害め。


 爺さんは次のバス停ですぐに降りたけど、僕はバスが動き出すまで目を開けなかった。

 相変わらず窓の外は白黒映画みたいに曇ってる。この町に精神病院が多いのも納得できるほどに。

 だいたい、100年前にやってたソビエトとかいう国家規模の社会実験のおかげで、この国には今もどこか鬱屈な雰囲気が漂っている。南のほうに行けば多少は変わるが、僕のいる地域は年中こんなザマだ。


 3つ目のバス停でバスを降りて、最寄りのカフェに入ると、アルメニア人の店主と目が合う。


「今日はどっちだ?」


 僕の注文は2パターンしかない。


「ホット」


 それもコーヒーの温度の差だけ。ミルクも砂糖も入れない、化学薬品みたいな苦い液体だ。匂い以外で何が良いのかわからないが、飲み続ければわかると思って2年が経った。


 少し奥にある壁際の席につき、テーブルの上にある壁に接続された黒い箱に手を伸ばす。

 名前はカルヴァリオ式感動音響機。型式は70年のバージョン。

 上着のポケットから出した硬貨を投入して、両耳にコントローラーを装着する。


 さて、今日は何を聴こう。少し前の曲がいいな。9歳ぐらいの時に見ていたコメディドラマのオープニング曲がいい。

 あとは機器本体のボタンを押せば、現状を置き、別の場所へと入っていける。視覚的な要素は一切ない。音と感情を教えてくれる。爽やかで、壮大で、ノイズのない、音の作り出す世界が脳で味わえる。

 この感覚は一目惚れに似ているとよく言われる。それは無意識が織り成す、頭から離れない淡い幸福のこと。明らかな好意が頭の中に浮かび続ける夢のこと。


 この5分はとても短い。そんな気がする。


 カルヴァリオ式感動機の機能は少ない。この国では音楽だけが許可されている。というか大体の国は音楽のみ、もしくは全面的に禁止だ。登場したばかりの頃は絵画とかアニメとかホームビデオとか、可能性のあるがままにシステムが提供されていたが、すぐに耳を疑うほどの量の問題が露呈したため、大方の予想通りに規制され、音楽規制も目前となってきた。


 そろそろ5分が経とうって時、何らかの違和感が走る。わかった、いつしか別の曲に変わっている。と思ったら大音量で頭に響いてきた。

 スマホの着信音だ。不意に聞こえると困惑する程度には地味な選曲をしているが、戻し方がわからないのでこのままにしている。


「はい」


 感動機を終わらせて電話に出ると、知っている声がする。


「ねぇ、隣人トラブルって、誰に言うべきだと思う?」


 エミトリーが言っているのは、伯母さんが朝から暴れていた件についてだろう。

 声色からはエミトリーの意図はわからないが、下手したらアパートから追い出されるかも。


「……今いるの? そこに」

「私は外に出たから。今は一人」


 それを聞いた僕の体から力が抜けた。テーブルに運ばれていたコーヒーを一口飲む。


「たまにああなるけど、本当にたまにだから。伯母さんはさ、普段は平気で生活できてるんだよ」


 物は言いようだ。感情的になることすら難しい虚弱さを平気と言っている。


「別に気にしてないわよ。ただ心配しただけ」

「僕の心配を?」

「あなたも含めて」

「あぁ、そう……」


 含まれてるだけマシか。


「そうだ、今ポーリィにいるんだけど、一緒にランチでもどう?」


 どうせ今日は暇なので誘ってみる。童貞みたいな気負い方はしない。


「私これから病院」


 しかし断られ……


「ディナーならお受けいたしますけど」


 なかった。


 結果、夜の8時に合うことになった。カフェではなく別のレストランで。


 そしてエミトリーは9時過ぎに来た。


 半分だけ眠っていた僕は、ある衝撃によって起こされた。うたた寝の敏感な体に触れた何かに対し、僕の腕はビクリと動き、手のひらで柔らかなそれを掴んだ。

 とっさに顔を上げると、エミトリーの腕に指が食い込んでいた。


「あ……」


 いつもの癖で反応してしまったようだ。慌てて手を離すと、エミトリーは改めて僕の肩をトントンと叩く。


「ごめん、待たせちゃったみたい」


 エミトリーの顔はいつもの綺麗顔で、僕のほうをじっと見つめていた。

 もう30分も前に僕はレストランを出ていて、店の向かい側にある教会跡地の正門前に座っていた。尻は感覚が無いし、関節もびているように鈍い。


「…………なんかあった?」


 声はちゃんと出たのだろうか。寝起きだから小さかったかも。


「アルセニエフさん。1号室の人と会ってた」


 彼女はまた……。


「なんで」


 寝起きなら率直に聞ける。


「大事な話があったから」


 年の離れた近所の爺さんとする大事な話なんてあるかね。遺産相続でもするのか? エミトリーの表情や声や話し方ならたぶらかせそうだ。

 まあつまり、僕には関係のない話ということ。ため息をこらえよう。


「……僕は帰るよ」


 錆びた体を立ち上げて、通りのほうを向く。


「どうして? 朝まで一緒にいようよ」


 エミトリーが袖を握ってくる。


「でも…………僕が帰らないと、マゼランが眠れないから……」


 僕は疲れていた。冷えた体が痛んでいた。そして僕自身、エミトリーに何を感じていたのかは未解明だが、期待するような何かに近づけない予感がした。

 セックスはしたいが、それが一番の期待とは思えない。好きだし、美しい人だとは思うが、結婚したいわけではない。コーヒーすら飲めない僕を好いてくれるかという問題は置いといて、愛し合うことにそこまでの欲望はなかった。


「あなたって……ポーカーフェイスなのね」


 エミトリーが僕の顔を覗き込んできた。黙っていたのが良くなかったか。

 ポーカーフェイス……そう言われたのは初めてかもしれない。


「いいよ、帰ろ」


 エミトリーは背筋を伸ばして軽く言った。


「一緒に?」

「同じ場所でしょ?」

「まあ……」


 何が彼女の原動力なのか、それを知らないままに帰路につく。でもその前に僕の視界が急ハンドルを切った。


「あっ」


 こけた。単純に。

 力を込めることを拒んだ脚が体勢を崩し、地面に向かって一直線だった。


「どうりで」


 エミトリーの柔らかな体に僕の体重がかかる。


「お酒の匂いがすると」


 こけた上に受け止められた。


「いや、これは……ずっと座ってたからで……」

「ずっと待っててくれたものね」

「君のせいにしたわけじゃ……」


 エミトリーは得意気な表情を僕に寄せてくる。


「私がいなきゃ歩けないみたい」

「え?」

「これなら、行きたい場所に行ける」

「ちょっと……おい……」


 エミトリーに弱めの力で引っ張られた。そしてされるがままに、僕は帰路の逆へと歩いていく。この時点で僕は家のことなど諦めていた。

 ここまでかまってくれるエミトリーの意思をないがしろにするのも悪い気がしたから。もしかしたら彼女なりの償いかもしれないし。


 どっちにせよ、夜道を一人で歩かせるのは危ないから、2人でいるのは当然の判断だったろう。

 そのうち一人で歩けるようにもなり、エミトリーと共に進む。


 点々とある街灯の光を頭上で捉え、バス停すら無視して、夜の故郷をエミトリーに案内される。目的地は聞いても教えてくれない。この方向には浄水場か森くらいしかないが。

 家具屋を横切り、廃墟となったスーパーでショートカットをする。夜風に打たれるうちにすっかり酒も抜けた。今は脚の疲れが問題だ。


 町外れの森近く、舗装道路が活気を失ってきた辺りで、エミトリーは道から外れた。

 その先にあるのは一度も動いたことのない風力発電機の並立する丘。新しい形状の発電機ということだったが、運営会社の事業縮小に伴い、今は止まり木になっている。


「……なあ、僕は誘拐されるのか?」


 丘の頂上へ向かう短い道中、上のほうにいるエミトリーに僕は尋ねた。


「まるで笛吹きみたいですって?」


 そう言いつつエミトリーは構わず進んでいく。僕が「ああ」と返すと、一つの言葉だけがあった。


「子供のフリをやめればいい。あなたにはそれが出来る」


 彼女の後ろ姿が見ている。僕に逃げろと言うのだろうか。


 僕らは丘の頂上、並木道のような巨大な発電機たちに沿って歩いていく。街灯はない。あるのは薄められた月明かりと、間を通り抜ける風だけ。

 エミトリーが止まって、発電機の隣に立った。細やかに髪がなびいている。


「行こ」


 エミトリーが見ていたのは、コンクリート造りの奇妙な構造物。

 モダニズム建築っぽいが、上層部のほうが下層部より大きい、少しおかしな形の灰色の建物。

 異文明の墓碑と言われたら信じてしまいそうな冷たくおごそかな雰囲気がある。普通に生きていたら中に入りたいとは思わない。


 建物までの道のりは意外と綺麗だった。夜なのが良かったのだろう。舗装されていない草原という広い空間を2人で、風の音を聴きながら歩くのは、何となく懐かしい気がした。


 建物の正面に入口はなかった。石の十字架だけがある。それを横目に僕たちは左側の入口に足を踏み入れる。

 床は灰色の砂で埋まっていて、色を失ったように寂しい。何のための建物なのか、廊下や柱などの無機質な構造は寡黙そのものだが、そこに漂う空気にはかれるものがある。


 エミトリーはそれらに目もくれず、ズカズカと砂を踏みしめ、風によってならされた砂に足跡をつけていく。

 メインホールだろうか、ここは更に奇妙だった。一番広いわりに何もなく、砂の量が多い。足が沈みそうだ。天井には半分だけ屋根がかかり、もう半分の穴の下には崩れた足場がある。壊れたというよりは、作りかけ。


「ここは?」


 どこを見てもコンクリート、もしくは砂か空。看板や文字は見つからない。機構や用途も見当たらない。


「……名前は知らない。慰霊堂ということだけ」

「慰霊堂?」

「30年前にあったはずの戦争の死者の魂、表向きには生死不明の人々のための……穴だらけの空き家」


 エミトリーはホール正面の壁際に置かれた台座の前で立ち止まった。


「完成してないのはそういう……」


 例の出来事に関する詳細な情報は入ってこないが、この建物の中途半端な金のかかりようから想像はできる。

 富裕層や一般層の誰かが出資して、上流階級の誰かに止められた。そういうストーリーを持って、この建物はこんなところに没している。


「それで、何があるんだ? 今のところ全く理由が掴めないんだが……何故ここへ?」


 とにもかくにも、そろそろ答え合わせしてもらおう。ここまで来て、単なる観光案内では終われない。

 するとその時、どこからか、湿布や香水に似た匂いが温度を伴って鼻に入ってくる。


「吸う?」


 エミトリーがタバコを吸っていた。あれは多分、タバコで合っていると思う。しかも紙巻きのやつだ。


「タバコって…………体に良くないだろ。それに、犯罪はゴメンだ」


 もう20年も昔にタバコは法で規制されている。実物を見るのは久々だ。煙が出てないから規制直前の年代物だろう。


「バレなきゃいいの。私はこれで3年やってる」

「……今どき犯罪なんてバレないほうが稀なのに」


 何でも調べりゃ足がつくこの時代に犯罪なんてナンセンスだ。ロボットには嗅覚が標準搭載されてないから匂いくらいじゃバレないのだろうが。


「一度くらい吸ってみれば? 世界を広げると思って」


 そう言って吸いかけのタバコを向けてきた。


「僕にはまだ早いよ」

「お酒は飲むくせに」

「酒は飲まなきゃ。やってられないから…………あ」


 左手首が震えをとらえる。腕時計端末から通知が来たようだが、エミトリーの表情を確認して僕は腕を引っ込める。


「……ダメか」


 キリッとした視線が的確に僕を狙っていて、エミトリーにしては珍しく大事そうな空気をしていた。別に覚悟を決めるつもりはないが、一応はこっちも大事そうにしておこう。


「明日の朝まで、ここで待ってて」


 一人で待てと。そんな指令が鋭く聞こえた。でも続きが無さそうだったから、僕は口を開く。


「だから何で――


 いきなり腕を触られて反射的に身をすくめる。でもすぐにエミトリーの手だとわかると、今度はむず痒い感じがして、僕のほうが無力になっていく。

 それから僕はエミトリーに押されて、空気と共に後ろへ流れていった。どちらも、あまりに弱い。透き通った絹が必死に力を込めているようだ。ここで抵抗してしまえる事実のせいで、僕はエミトリーの顔を見れなくなった。


 壁に背中がついて、エミトリーのやや見上げた目線が間近で突き刺さる。


「孤独になって。そうすれば自分をかえりみることができる」

「一人でどうにかしろって……投げやりじゃないか」

「そう思うの?」

「だろうね」


 僕は目だけを反らす。


「……人はそう易々と変われないよ。それが自我を持つということだ」


 エミトリーの感触を会話で上書きしようと試みた。でも見透かされているように、彼女の白い肌から伝わる情報は更に増えていく。

 華奢な吐息、艶やかな熱、酔わせる声色。頭を巡らせるほどに、かえって意識を持っていかれる。


「他人を変えようだなんて思ってないわ。あなただって、誰かに屈するつもりがあって?」


 耳元で喋られると困る。今まさに君に負けそうだというのは、お得意のポーカーフェイスでこらえないといけない。


「自分を知れないほど、あなたは愚かじゃない」


 エミトリーはひたすらに甘く、頭に居座ったまま、ゆっくりと離れ始めた。


「とても賢い人だから」


 そして遺言のように言い残して夜のほうへ消えた。


 ずいぶんと長い時間、神経を優しく愛でられた気分だった。疲れているのは歩いたせいかコミュニケーションのせいか。僕の体は重力に負け、その場にへたり込んでいた。


「何が良いんだか……」


 かすかなタバコの香りがする。また一人になってしまった。

 どうにかなる前に終わって良かったと思うと同時に、自然な言動だけであそこまで人をたぶらかせるエミトリーの魔力を、やっと僕は認識できた。だってYESの一言も無しに、僕は一人で待っている。

 でも不快感や恐怖感はない。別にいいかな、というシンプルな感想だけがある。


 いつもは待ち時間など退屈の権化だが、今回は不思議と心地よい。砂に当たる光の動きや白と黒で彩られた世界。それらを標題とした交響曲を聴いているようだ。

 足元で小さい何かが動いている。靴の甲を一匹のアリが登ってきていた。そのまま脚へ来たアリの前に僕は指先を差し出し、穏やかに誘う。

 この赤黒い体と鈍い光沢は僕が飼育していたのと同じ種類だ。アカヤマアリ。生き残りかもな。


 手の上で歩き回るアリを見ていると、腕時計の点滅表示に目がいく。

 不在着信の通知だ。時刻は11時か。

 指先にアリが登っている。しかし暇なやつだ。こんな廃墟に食い物なんてあるわけない。

 僕は腕を上げて、指先と天井の穴を重ねる。ふとコイツには生きていて欲しいなと思い、手を振るってアリを落とした。

 ポトリと、砂の上に着地したアリは動き出し、どこかへ去っていった。


 遊び相手もいなくなって、僕は再び空間にふける。そしてやがて目蓋まぶたは落ちた。




 日が昇ったら、もう朝と言っていいだろうか。

 寝起きなのに眠気がない、今すぐフルマラソンができそうなめた朝だ。コンクリの壁に痛められた腰を抱えて、光を浴びに外へ行く。そこに人はいない。別の世界にワープしたみたいな気分だ。


 伸びた草を踏み分けた先では、風力発電機は神殿のように立っていた。足取りは軽く、青白い街並みに僕のアパートは沈んで見えたけど、到着までは一瞬だった。

 だけど今すぐ帰るつもりはない。朝早く帰ったら睡眠を邪魔されたと怒られるだけだ。


 どこへ行こうか。こんな時間にやってる店は24時間営業のロボットしかいないドラッグストアだけだ。時間が潰せる場所ではない。


 まあ、今は歩こう。

 そして僕がアパートの前の歩道を何の気なしに通り過ぎようとした時、ピピピピピ!と、けたたましい音が降ってきた。でもそれはすぐに止んで、どこからの音かと思って上を見ると、そこにピッタリ僕のアパートの部屋があった。

 今のは火災報知機の音だと思う。でもマゼランがいて火事になることはありえない。きっと伯母さんが変なことをしでかしたんだ。


 関わる価値は無い。だからその場を離れかけた時、突然、追い風を浴びる感覚に襲われた。

 ハッキリとしたイメージはただ一つ。エミトリーの顔が思い浮かぶ。彼女は今、どこにいる?

 連絡しても返事はなかったし、なぜ僕が朝まで待たされたのかというのを考えると、危険な予感がしないでもない。もしかしたら伯母さんに対して何か画策しているのではないか。


 そんなことを考えているうちに、僕の足はアパートの階段を上っていた。

 6階が近づくほどに僕の神経は研ぎ澄まされていくけど、それと同時に体も重くなってくる。ビビビ!と、もう一度、階段の上から聞こえて、一歩一歩を確かめるように部屋に向かう。


 6階では耳鳴り。廊下を進むと鼓動が早まる。1号室と2号室の扉が少し開いているが見ることなどできない。

 伯母さんが扉の向こうで怒鳴っている。か細い声を無理に張り上げてるもんだから何を言っているかわからない。


 やがて何か割れる音がして、落ちる音もして、その度に足が止まる。ドアノブに手を掛ける動作でさえ苦しく、刺さったナイフを抜くように、閾値を超えることに時間がかかりすぎる。

 重く、のろい。扉の隙間からは焦げた匂いとカモミールの香り、それと曇った日の光。扉を開けると冷たい風がやって来て、キッチンのほうからマゼランの声がする。


「危険です!! 中止してください!!」


 叫んでいるマゼランは初めて見た。理由はすぐわかった。

 伯母さんがベランダの外へと身を投げ出そうとしていた。脅しではない、躊躇ちゅうちょのない背中だ。


「はっ……!」


 その瞬間、僕は駆け出していた。


 0.1秒前の記憶を覚えていないほどに、人生最大の力と勇気を持って伯母さんのもとへ走っていた。ベランダへと続く道に障害はない。窓は全開だ。

 マゼランを横から追い抜いて僕は一息で跳び上がる。ベランダの柵に足を乗せ、筋肉を破裂させるつもりで力を込める。空に上がる感覚は無限。それでも重力は無慈悲だった。隣には伯母さんがいて、その目は丸くなっていた。


 そのまま見ていろ。助けてなんてやるもんか。このままなら2人して転落死さ。つまり、だ。


 ―――― さあ、選べマゼラン。どっちだ!


「ははは!」


 笑える。我ながらバカをしたもんだ。だけど楽しくて仕方ない。この世の全てが僕をくすぐる。


 危なかった。僕の命が、ではない。このチャンスを逃すところだったから。


 僕の足首は銀色の手に掴まれている。静音モーターは金切り声で歌い、アラームは街中に響く。

 ここから見える逆さまの空の鉛色には地平線から青みが混ざり始めている。高さがあるから見えるのだろう。初めて見る景色だった。


 潰れた足首に風がしみても、色のついた街から目が離せない。頭に落ちてくる血液が僕を奮わせる。


 これが僕の、2083年最良の日だった。



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惑星ヴァニティー 上野世介 @S2021KHT

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