ずっとあなたに酔いしれる

ロックグラスに入った氷が,溶けて液体の色を薄めていく。ストレートで頼んだはずのウイスキーはもはや水割りとさして変わらないほどになっていた。何を頼んだのかはもう覚えていないし,もう度数が変わろうが味が変わろうが分からないほどには飲んだから,そんなことはどうでもいいのだが。

数時間前いた華やかな場所とは対象的な,ぼんやりとほの暗い空気の中。何杯目かも分からない度数の高いウイスキーを煽り入れて,もうどのくらい時が経ったろうか。最初こそ急ピッチで飲んでいたものの,アルコールが回るにつれて飲むスピードが遅くなって行ったから,もうだいぶ時間が経ったような気がする。思考が正常に働いていない今の状況では,そんなことを考えようがなんの意味もなさなかったけれども。

今日は友人の結婚式だった。世間一般的に考えれば大変おめでたい行事。ましてそれが親友のものなら尚更だ。

にも関わらず私は,そんな親友の結婚式の二次会的な物をバックれて,こんな人目の付きにくいバーでヤケ酒をしている。今頃親友である夏奈は首を傾げているだろうが,そんなことは関係なかった。

元は参加する気でいた。締め付けるような想いを全て押さえ込んで,おめでとう,と盛大に祝う気でいた。良き親友でいるために,そうする気でいた。

ただ,あのまま二次会に行くと,私の精神が崩れてしまうような気がしたのだ。

計画が狂ったのは,結婚式の前,ウエディングドレスを見に纏った夏奈に会いに行った後だった。

新郎,もう名前さえ忘れた彼が,わざわざ私の元に会いに来たのだ。

「結婚式,邪魔だけはしないでくださいね」

とだけ言いに。

もう,荒れ散らしてやろうかと思った。

彼と話したのは,あの時が恐らく初めてだった。一方的に見た目は知っていたし,夏奈も何度も会わせようと画策していたけれど,私が予定が合わないからと言って避け続けていた。

そして,初会話がこれだ。なんなら会話ですらない。彼が一方的に私への嫌悪を吐き捨てて行っただけだ。私の彼への好感度はただでさえマイナス値だったものがもっとマイナスの方に振り切ってしまった。彼もきっと,私への好感度はマイナス値にあったのかもしれない。でないと,嫁の親友にそんなことを吐きかけてはこないだろうから。きっと分かったのだろう。夏奈のウエディングドレス姿を見る私が,夏奈にどんな想いを寄せているのかを。

傷つく,とかの話ですらなかった。言葉にならない感情が胸の奥を突き刺して,溶ける様子もなくなる様子も見せなかった。今にも彼をビンタしてしまいそうな感覚に支配されそうになった。

しかしその瞬間,私は喉まで出てきそうになった叫び声を全て胃の中に胃酸ごと押し込んだ。ここで私が彼と揉め事を起こせば,間違いなく夏奈は悲しむことになるだろうと,判断しての事だった。

「ええ,もちろん。親友の式をぶち壊すなんてこと,するわけないでしょう?」

だから私は笑顔で言ってやったのだ。彼の睨むような視線を全て,跳ね返すようにして。

結婚式はといえば,それはもう,素晴らしかったと思う。高校時代からの友人の冬美なんかはもう目にいっぱいの涙を貯めて祝福をしていた。もう一生分の涙を使い果たしてもうたわ,なんて言いながら。私は気が気じゃなかったけど,私の感想なんて何ひとつとして当てにはならないだろう。式場には幸福のオーラが漂っていた。それが,全てだ。そもそも私の感情は数ヶ月前,夏奈から結婚の報告を受けた時から,何ひとつとして変わっていないのだ。



「そう,」

なんや,の声は喉につっかえて出てこなかった。

目の前が真っ暗になる。こうして私の人生最初で最後の初恋は,完全に失恋という形で幕を閉じることが確定した。

「私な,結婚すんねん」

高校時代からの友人である夏菜は,幸せそうにはにかんでそういった。結婚。その単語を聞いた途端に胸がざわつく。

「おめで,とう」

声を何とか絞り出して,明るく振る舞う。少々ぎこちなくはなったが,夏菜はそんなことを気にも留めていないようだった。ありがとぉ,なんてはんなりと返して,すぐにプロポーズについて話し始める。高級レストランで,プチサプライズ。いかにも,夏菜が喜びそうなプロポーズ。

「ちょっとグダったとか,そんなんどうでもええんよ。もう,はるくんが頑張って準備してくれたんが嬉しい,みたいな。分かるやろ?」

「うん」

普段なら,一字一句聞き逃さないように集中して夏菜の話を聞いているというのに,今は夏菜の吸う息一つ聞くのが辛い。ろくに話が脳を経由しなくて,生返事しかできない。

苦しい。

なにも感じないわけがなかった。幸せを噛み締めるように「はるくん」のことを話す夏菜に,なんの感情も抱かないわけがなかった。祝福なんて,そんな明るいものじゃない。もっとドロドロとした,醜い感情。

「ほんでな,はるくんが」

夏菜から惚気話を聞くことなんて,もう慣れたはずだった。

私の失恋はとっくの昔,夏菜が高校時代に「はるくんとな,付き合うことになってん」と,御手洗に行った時に小声で私に報告をしてきた時にはもう,決まっていた。

初デートの話だって,ファーストキスの話だって聞いたし,同棲を始めるという話だって聞いた。どれもこれも,聞いてもないのに夏菜が話し始めたことだった。その度に虚しさに襲われて,何度夏菜に黙って姿を消そうと悩んだか分からない。

それでも,慣れたつもりだった。夏菜の惚気に良かったね,なんて思ってもいない嘘を言うことだって,もう手馴れたものだった。夏菜の相談に乗ってあげることだって,何回もした。「別れればええやん」なんて,いえなかった。万一それを言ってしまって,私が嫌われる,なんて始末にはなりたくなかった。また随分と勝手な話だ。

「あきちゃん,結婚式,来てな?」

僅かに,頬が引きつった気がした。誤魔化すように口角を上げて,目を細めておく。

「うん。もちろん」

「ほんま?嬉しい」

夏菜が綻ぶように笑うだけで,ほんの少し,私の負の感情が和らいだ気がした。

ただ,もちろん,行きたくない。

ウェディングドレスを身に纏った夏菜はそれこそ世界で一番綺麗なんだろうけど,それでも私はその世界一綺麗な愛する人を,写真越しでさえ見たくなかった。夏菜を幸せにするのが私ではないという現実を目前にするのが,怖かった。

それでも,私が行かないという選択をして,夏菜が萎れた表情をするのも嫌だから。私じゃない,誰かに幸せにしてもらっている夏菜を見るより,私のせいで夏菜に暗い表情をさせてしまうことの方が嫌だから。もし悲しまなかったとしても,それはそれで私が悲しいから。

「できれば,スピーチもお願いしたいなぁ,なんて思っとるんやけど,どない?」

「……私,そういうん苦手やから。他の人に頼んだ方が,ええと思うよ」

「下手でもええんよ。親友のあきちゃんに,頼みたいねん」

「……じゃあ,頑張ろうかな」

「ありがとう」

馬鹿だ。何が悲しくて,好きな人の幸福を祝うスピーチをしなければならないんだろう。拷問だ。考えることも,話すことも。

それでも,私は夏菜の「親友」でなければいけないから。この想いを悟られてしまってはいけないから。

「幸せに,なんなね」

「なによ,急に。なるに決まっとるやん」

私のこの一言に,どれだけの意味が込められているのかを,夏菜は知らないんだろう。劣情,なんて言葉では,表しきれない負の感情。ごめん,夏菜。こんな「親友」で。

「あきちゃんこそ,ええ人おらんのん?あんまそういう話,聞いたことないかも」

ええ人。そんなこと,考えたこともなかった。私の意識はいつだって夏菜に向いていて,他の男も女も,眼中にすらなかった。一度ヤケになって付き合ってみた彼のことも,好きになれずに結局別れてしまった。二ヶ月,だったかな。そんなに長くなかったような気もする。まあ,今となってはどうでもいい話だ。

「興味無かったからなあ。そろそろ,考えんと」

口ではそう言いながら,考える気は毛頭なかった。いい加減諦めなければ,ということは分かっているのに,もう何年したかも分からない片思いをさっぱり捨てられずにいる。いや,捨てる気さえないのかもしれない。

とどのつまり,私は夏菜を手放したくないのだ。私だけ見てほしい。私だけの夏菜であってほしい。そんな泥まみれの感情を夏菜の知らない宝箱の中に閉じ込めておく。もういっそ,このまま墓場まで持ち込んでしまおうかとさえ思える。ダミーの宝箱の方には,夏菜を親友として一番大事に思っている,という情報を入れておくことを忘れずに。

「なんやったらええ人,紹介するで?」

「あぁ,ほんま?気向いたら頼もかな」

「それ一生こんやつやん」

呆れ顔でツッコミを入れる夏菜に薄ら笑いを返す。頼む気なんかもちろん,ない。私はきっとその人を好きになれないし,夏菜に申し訳なさそうな顔をして欲しくない。悩みの種は,潰せるうちに潰しておかないと。

ふと時計を見た。集まったのは十四時だったというのに,もう十五時だ。いや,まだ,と言うべきだろうか。いつもはもっと,時間が過ぎるのが早い気がする。

「わ,もう三時?はやいなぁ。まだ十分しか経ってへんと思ってたわ」

「ね」

「あきちゃんと話すん,やっぱ楽しいなぁ」

無邪気に笑う夏菜に,思わず笑みがこぼれた。わたしも,なんて当たり障りのない返答をする。

「あ,そうや。ねえ,あきちゃん」

夏菜が思い出した,と言わんばかりに手を叩いて,目を輝かせて私を見た。

「うん?」

「あきちゃんが良かったらやねんけど,私が籍入れる前にさ,二人で旅行せん?」

「旅行?」

「うん。社会人になってからは,都合がよう合わんくて行けんかったやん?やから,行きたいなあって。あかんかな?」

眉尻を垂れて,小動物のような顔をする夏菜。私がこの顔をされたら滅多に断らないと知っているんだ,この子は。

ええよ,行こうや,なんて返す私に,夏奈は心底嬉しそうにはにかんで。じゃあ,空いてる日分かったら教えてな,と私の冷えた手を取って。その時は少しだけ,くすんだ心がすっきりとした気がした。

そこからは話が早くて,あっという間に日付も行く場所も決まった。遠くに行くのもいいけど,お互い忙しいから,近場で楽しめるところにしようか,という話になった。まぁただそれは建前で,「はるくんがね,万が一何かがあった時にすぐに駆けつけられるように近場にして欲しいんだって」と夏奈が話していたのが全てだと思う。

場所は電車で二時間もないようなところだった。いかにも都会です,というような所から割と外れた,少し田舎っぽい所に住んでいる私たちにとっては,特に代わり映えのしない景色だ。観光名所として有名な訳では無いが,通である人なら誰でも知っている,というような場所だった。

旅行はといえば,まぁ楽しかった。大学生時代なんかはよく二人で行ったよね,なんて話をしながら,年甲斐もなくはしゃいだりした。この日ばかりは夏奈も「はるくん」の話は一度もしなくて,高校時代や大学時代の話にただ花を咲かせていた。

「文化祭とかさぁ,たっきーがステージ上で突然告白した記憶しかないねんけど」

「あったなあそんなん」

「一ヶ月も経たずに別れたんやなかった?」

「やめえや夏奈。結婚前に縁起でもない」

「ははっ!たしかに」

寝る前に話す内容は,もう学生時代とは全く違うものになってしまったのに,声のトーンやらなんやらはなんら変わりなくて,少し安心する。離れて行ってしまうような嫌な予感も,もうすっかりなくなっていた。独占欲,とはまた違うけれど。

時間が経つのは本当に早くて,あれやこれやと話をしていたらもう,帰りの電車に乗っていた。電車には疎らに人が座っていて,ぽつ,ぽつ,と続かない会話を交わす。それはそれで心地良かった。長年隣にいるからこそ,沈黙も辛くない。

「楽しかったね」

「うん,楽しかったわぁ。また行きたいなぁ」

「もう,厳しいやろ」

自分で言っていて,なんだか少し悲しくなる。聞く限り,はるくんとやらはどうにも人より独占欲の強い性格のようで,今回の旅行だって恐らく,大分渋ったのだ。夏奈もなかなかに強引な性格をしているから,押し切ったんだろうとは思うけど。

夏奈は幾度か瞬きをして,少し目線を外にやった。

「いくよ,私は」

「旦那さん優先せんでええのん」

「はるくんも大事やけど,あきちゃんだって大事やもん。どっちかだけを優先とか,そんなんせんよ」

「……そっか」

口をついて出てしまいそうな好きを,必死に封じ込める。私も夏奈の特別の位置にいるんだと,自覚すればするほど苦しい。特別なのに,特別じゃない。

分かっている。愛の形が違うだけで,大きさは同じなんだということは。

それでも、私は。

あなたの、何においても「唯一」でありたかった。

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