多和田葉子『ペルソナ』について

大和あき

『ペルソナ』作品論


 多和田葉子の小説『ペルソナ』は、文化、アイデンティティ、そして無意識の差別に焦点を当てたきわめて多層的な物語だ。本作では、日本人女性・道子のドイツでの生活を中心に、彼女と周囲の人物たちとの間にあるさまざまな感情や葛藤が描かれている。


物語は、在独韓国人のセオンリョン・キムの話題から始まる。


キムは作中でほとんど姿を見せないが、彼の存在は物語全体にわたって重要な役割を果たしている。


彼の登場により、読者は日本人と韓国人との間に存在する複雑な関係性やアジア人としてのアイデンティティに関するテーマに向き合わされる。


このセオンリョン・キムに関する会議のシーン。


カタリーナの「弁護」には無意識の偏見や差別が見受けられる。


彼女がセオンリョンについて述べたことは、アジア人に対するステレオタイプを反映している。


アジア文化において表情が控えめであることは確かにあるかもしれないが、それは文化や歴史的背景に由来し、表情の乏しさが劣等的であることを意味するわけではない。


むしろ、カタリーナの無意識な偏見がこの発言に表れており、「セオンリョンはアジア人なのだから、表情がないのは生まれつきで、これは仕方がないのではないか」というこの無意識の差別が善意で発言していることで浮き彫りになる。


p22では道子がセオンリョンについての会議を、和男に興奮した様子で話している。


和男が日本人と韓国人の違いにこだわる姿勢からは、彼のアイデンティティ意識の強さがうかがえる。


彼が儒教やアジアに対して抱く見解は、彼のアジア人特有の伝統的な価値観に基づいており、これは彼自身の行動や態度に大きな影響を与えている。


具体的には、和男は「日本人が勤勉なのは儒教のおかげ」「それに比べて韓国はキリスト教を有難がっているからヨーロッパと同じで遅れている」といった考えで、同じ東アジア人としてくくられるのを嫌っている。


『ペルソナ』では、道子の視点だけでなく和男やカタリーナの視点からも物語が進行する。


この多面的な叙述スタイルは、異文化の交わりや無意識の差別を描き出すのにきわめて効果的である。


さまざまなキャラクターの視点を取り入れることで、各キャラクターの自我や偏見が浮き彫りになり、物語全体がより多層的に描かれる。


道子の視点を通じて描かれる登場人物たちの思考や行動は、それぞれの背景にある文化や価値観を反映している。


道子が変圧器を買いに行くエピソードでは、佐田さんの無意識の傲慢さや富裕層の特徴が反映されている。


彼女が自分の文化や生活スタイルをドイツのそれに合わせるつもりがないこと、自分の価値観を持ち込んでドイツを自分仕様に変えようとする姿勢が示されている。


この行動は、佐田さんの心の中にある「日本人としてのアイデンティティ」が非常に強固であることを物語っている。


この心を道子は知っているからこそ、買いに行く際に気まずくなるのである。


このように、在独日本人(佐田さんたち)は強いアイデンティティ意識を持っており、自分たちの文化や価値観をドイツ社会に持ち込んでいる。


彼らの多くは経済的に裕福であるため、日本の文化をドイツに導入しつつ、現地の移民労働者とは異なる立場にある。


経済的な地位や生活スタイルの違いが、彼らの行動や考え方に大きな影響を及ぼしている。


道子は、生徒のあゆみに「ベトナム人みたい」と言われていた。


その後佐田さんが謝る、というシーンがある。


この発言から、ベトナム人に対する無意識の差別や偏見が社会に根深く存在していることが浮かび上がる。


もともと日本人が東南アジアにルーツを持っているので、道子の見た目にその血が現れていてもおかしくはない。


道子がこの発言を受けて化粧をするのは、自身の「日本人らしくしないといけない」という葛藤を表しているのだ。


しかし、p38では、移民労働者たちが道子に興味を持ち、彼女の民族的同一性を話題にしはじめる。


「トヨタか」と換喩的表現で発言する様子は、日本人に対する無意識の偏見を如実に示している。


彼らは道子の民族的な特徴をクイズのように扱い、その違いを認識できる者が少ないことが明らかになる。


カタリーナが日本軍が精神病患者を殺害した可能性について言及する場面でも、無意識の差別や情報の乏しさを物語っている。


彼女の発言には明確な悪意がないが、ナチス・ドイツと同盟を組んでいる日本は同等であるという無知の考えの下、彼女の感覚ではそのドイツに暮らしているユダヤ人を差別するべきドイツ人がカタリーナであって、日本に暮らしていた朝鮮人を差別するべき日本人が道子であるため、カタリーナは勝手に道子と自分は同じ状況に置かれている人間だと思ったのである。


佐田さん宅で、道子が韓国食料品店の豆腐を美味しいと発言する場面では、彼女がその状況の中で何らかの違和感を感じ取っていることが描かれている。


このような会話によって、「豆腐は日本の食べ物である」という偏見や無意識の差別が露呈しているのがわかる。


また、このシーンでは、留学生である道子に対して、お金が無くて日本の豆腐が買えないのだと同情される様子が描かれている。


これもまた、一種の差別である。


道子の表情や行動にも、その場の緊張感や居心地の悪さが反映されている。


終盤に登場する能面は、日本のアイデンティティを象徴するものである。


能面は日本語の意味的にとらえると無表情に見えるが、実際には中間表情を持ち、これが東洋人のアイデンティティに関する深層的なテーマを示している。


道子が能面を付けたまま街を歩くラストシーンは、自身の顔や表情に対するプレッシャーから解放され、新たなアイデンティティの探求を示しているのだと言えよう。


このように、多和田葉子の『ペルソナ』は、文化的な相互作用や無意識の差別、個々のアイデンティティを深く考察する作品であり、読者に非常に多くの示唆を与える。


各キャラクターの視点を通じて描かれる多層的な物語は、読者に多くの問いかけと理解を促すことであろう。

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