跡【改稿】
こんなことがあった。
もう数年前のことだ。二泊三日の旅行から自宅アパートに帰宅すると、二階にある自室のドアの前の床に、黒い染みがあった。
何か液体が染みたような跡だった。留守にしていた間に雨でも降ったのだろうかと思ったが、旅行先から帰る前に天気予報も散々チェックしている。直近で特に雨は降っていないはずだ。帰宅した日も、とても良い天気だったので、不思議なこともあるものだと思ったが、翌日には綺麗さっぱり消えていたので、その時はすぐに忘れてしまった。
だがそれから、この黒い跡をよく見かけるようになった。決まって晴れた日の夜。それも、二階にある自分の部屋の前だけ。廊下を見渡しても、水で濡れたような痕跡はまったくない。見かけるたびに、だんだんと大きくなっている…そんな気がする。
いたずらだろうか。他の住民と顔を合わせた際にそれとなく話を聞いてみたが、掃除をしていただとか、どこかで水が漏れているだとか、誰も覚えがない様子だった。
さすがに不審に思えてくる。少し悩んだが、防犯カメラを設置することにした。一万円程度の安物だが、薄給の自分からすれば非常に痛い出費だ。それでも、録画を確認すれば原因がわかるかもしれないし、誰かのいたずらであれば、犯人を捕まえてやろうと思っていた。
だが、カメラを設置してからの二ヶ月間、本当に何も起こらなかった。外出時と帰宅時、なんなら晴れの日以外も何か変わったことがないか、注意深くドアの前をチェックしていた。しかし、あの黒い染みは欠片も見当たらなかった。
最初の頃は、原因を、犯人を暴いてやろうと意気込んでいたが、一ヶ月も過ぎる頃にはすっかり熱も冷めてしまった。雨が吹き込んできて濡れた廊下で、何か他と違うところがないか、変わった様子がないかと、床をじっと睨んでいる自分の姿を録画映像で見た時は、滑稽を通り越して薄寒い気持ちになった。金欠なのに防犯カメラを買ってしまったことを、若干、後悔していた。
やはり、いたずらだったのだろう。ただでさえ狭い廊下の、これまた低い天井に、これ見よがしに設置された防犯カメラがあるのだから、犯人もやりにくくなったのだろうか。他の部屋の住民にも、ごみ出しの際にそれとなく聞き込んだりしていた。それが良かったのかは分からないが、こうして何も起こらなくなった。意図の読めない行為や原因のわからない現象が、よりにもよって自分の部屋の前で頻繁に起きていたら、例え、特に害がないとしても、気持ちが落ち着かないものだ。これで解決したんだとすれば拍子抜けだが、正直、ほっとした部分もある。わざわざ取り外すのも面倒だし、単純に防犯のことも考えて、カメラはそのままにした。
それから数日経った。久しぶりに会う地元の友人たちと、近くの居酒屋に飲みに行った帰り。楽しい飲み会だったが、いつのまにか終電も過ぎていたので、帰る手段を失った友人に泊めてくれと言われる前に、そそくさと一人で抜けてきた。幸い、自宅近くの店だったので徒歩で帰ってこれたのだが、歩いているうちに酔いも覚めてしまった。もう少し飲みたい気分になって、道中、コンビニでビールとつまみを買い込んだ。深夜のひんやりとした空気の中、缶の重みで伸びたビニール袋をぶら下げながら、一人だらだらと歩く。ほどなくして、アパートにたどり着く。階段を登ろうとした時、自分で思ったよりも足元がふらふらして、転けそうになって少し焦った。こんなところで滑り落ちて死にたくはない。手すりをつかんで、そのまま慎重に階段を登っていく。見慣れた二階の廊下が視界に入った。。
ドアの前に、大きくて黒い、何かがいた。
最後の段に足をかけたままの体勢で、思わず立ち止まった。誰か、他の住民だろうか。人間にしては非常に大きい。大人二人分くらいの横幅があり、何より天井に頭がぶつかっていた。そのまま黒い影の足元のの方へ目をやると、奥の方の壁が見えた。床から浮いている、と頭に浮かんだが、すぐに違うことに気づく。あれは、天井からぶら下がっているのだ。
薄暗い灯りに共用部の廊下が照らされている中、そこだけが、ぽっかりと暗い穴が空いたように際立って見える。まるで、黒い影の部分だけ、光が吸い込まれて消えてしまっているような。空間にできた大きな染みのようだ、と思った。
ポケットの中に手を入れた。指先にスマホが当たる。あれが何かはわからないが、誰か助けを呼ぶべきだ。だが、誰に? 思いつかない。とにかく離れよう、頭ではそう考えているのに、視線を外すことも、足を動かすこともできない。
その時。ぽたり、と。黒い影から雫が一粒落ちた。そこから、精を切ったように、ぼたり、ぼたりと、いくつもいくつも黒い雫が床へと降り注ぎ始めた。それは、床に当たると、音もなく、吸い込まれるように消えていく。ほんの数秒のことだ。見ているうちに、だんだんと、ぶら下がっている黒い影が小さく、薄くなっていくことに気づいた。そして、雫が染み込んでいく床には、反比例するように黒い跡が少しずつで現れていく。
「あ…」
思わず声が漏れた。あれが、黒い跡の正体か。
その瞬間。落下していた無数の雫が、まるで時間が停まったように、空中でピタリ、と停止した。
背中に寒気が走った。見られている。顔があるのか、目があるのかなんてわからない。けれど確かに、その影がこちらを見ている感覚があった。気づかれた、そんな言葉が頭の中に浮かび、ざわざわと肌が粟立つのを感じる。
黒い影は動かない。こちらも動くことができない。振り返って走ればいいと思うのに、身動ぎ一つでもすれば、途端に襲いかかって来るのではないか。そんな気がして視線を外すことすらできない
手足の先が、冷たく、痺れてくるような感覚になる。足を動かさなくては。そう思った瞬間、影が、ぶるぶるっと小刻みに揺れた。そして、ゆっくりと動き始め、下に垂れ下がっていた先端が、こちらに向かって持ち上がっていく。動かなくては。だが、足が言うことを聞いてくれない。影はゆっくりと動いている。あれがこちらを向いたらどうなるのだろうか。
その時、ガチャリと、隣の部屋のドアが開いた。その音が聞こえた途端、黒い影の先端は再び下を向き、そのまま一気に液体が流れるように床へと吸い込まれていって、何もなかったかのように、あっというまに消えてしまった。
呆気に取られたまま、立ち尽くす。出てきた二つ隣の部屋の住人が、こちらを見て、怪訝そうな顔をしている。軽く会釈されたので、こちらもぎこちなく返す。隣人は、そのまま横を通り過ぎて階段を降りていった。
しばらくその場で呆然としていたが、風が吹いて、ぐっしょりと濡れたシャツの背中の冷たさで我に返った。温かい風呂に浸かりたい。そうして、ドアの前へとゆっくりと近づいて、影が消えていった床を見た。
薄っすらと黒い染みがあるようにも思えたが、瞬きひとつする間に、なんの変哲もない、アパートの薄汚れた床にしか見えなくなった。天井を見上げても、あの黒い染みは、まったく見当たらない。
安心したのか、溜息が出た。急いで部屋の中に入る。すぐに熱い風呂を沸かして、ゆっくりと浸かると、気持ちも落ち着いてきた。髪も乾かしてベッドに横になる。このまま寝てしまおうかと思ったが、スマホのアプリで、防犯カメラの録画を確認した。だが、何も映っていない。何度巻き戻しても、あの黒い影は映っていなかった。最後に、恐る恐るドアの前で床と天井を確かめる自分の姿を見て、画面を閉じる。酒の飲み過ぎだったのだろうか。幻覚か。取り留めなくそんなことを考えたが、目を閉じると、強烈な睡魔がやってきて、思考は消散していった。そうして、そのまま、深い眠りに落ちた。
その後、黒い染みを見かけることはなかったが、言いようのない気持ち悪さと、また会ってしまったら…といった恐怖はあったので、早々に引っ越すことにした。
退去当日。友人に手伝ってもらって、荷物を車に積み終えると、一応は他の住人に挨拶しに回る。平日の日中でほとんど誰もいなかったので、一階はすぐに終わった。階段を登って二階へと上がった時、見えてしまった。自分の部屋のドア全体に拡がるように、黒い染みがついていた。それは、微かに動いていて、こちらを見た、気がした。
慌てて階段を駆け降りて、車に乗り込む。運転席に乗っていた友人がびっくりしていたが、とにかく急いで出してくれと頼み込み、すぐに出発した。
あの影に見つかってはいけない気がした。何故かはわからない、あのドアについた黒い染みを見た瞬間、途方もない悪意のようなものを感じた。ただの勘だ。外れているかもしれない。だが、それが当たっているのかどうかを確かめたいとも思わない。
その後、そのアパートには近づいていない。黒い跡を見かけることもなかった。あれが一体なんだったのかは、わからないままだ。
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