第11話「押し倒さないでよ……」
「適当なところ座って」
「ありがとう」
クッションに腰を下ろすと、ゆっくりと沈み込み、じわりと柔らかな圧が返ってくる。
そこに染みついた和泉のぬくもりが、肌越しに伝わり、まるで彼女がすぐ隣に寄り添っているかのような錯覚を覚える。
和泉のオーバーサイズの服に身を包むと、ふわりと濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
いつもの柔軟剤の甘く柔らかな香りに、彼女の体温が溶け込んだ微かな生々しさが混じる。
それはまるで、彼女の気配が衣服に宿っているかのようで、安堵を誘う一方で、心の奥にざわめきを広げていく。
お風呂場を貸してくれたのはありがたい。
着替えを貸してくれるのも。
なのに、和泉の匂いに包まれていると、まるで彼女の気配に浸食されていくような気がして落ち着かない。
心臓が鼓膜の内側で跳ね、胸の奥がきつく締めつけられる。
深く息を吸うたびに、和泉の香りが喉の奥を満たし、じわりと体の内側に染み込んでいく。
落ち着くどころか、まるで彼女の存在そのものに浸食されるような感覚が広がり、息が詰まる。
「サイズ大丈夫そうだね」
「大丈夫だけど……」
服がぶかぶかで、袖を動かすたびに空気が入り込み、和泉の香りが鼻孔をくすぐる。
まるで彼女に包み込まれているような錯覚を覚え、思わず裾をぎゅっと握る。
ただ貸してもらった以上文句を言うのも失礼だし、何も言うことができない。
和泉はじっと私を見つめると言った。
「似合ってるよ」
「ティーシャツ一枚で似合うも何もなくない?」
「そんなことないよ。
「……そっか」
それって結局、似合うかどうかは関係ないってことじゃん。
和泉の理屈なら、私が何を着ても似合うことになるんだけど……。
でも、そんな言葉を向けられても、不思議と悪い気はしない。
私も和泉に何か着せてみようかと思ったけど、さすがに小さすぎると思う。
「それに、ティーシャツだけだと、もっと近づけるよね?」
言葉と同時に和泉が踏み出し、私の腕を包むように抱き寄せた。
彼女の体温がダイレクトに伝わり、制服越しとは比べ物にならない密着感に息が詰まる。
肌に近い分、体温の緩やかな上昇まで感じ取れる。
ただやっぱりお風呂と比べると、布一枚挟んだだけで安心感が段違いだ。
このくらいの感触ならまだ私の心臓も驚かない。
「まあいいけど……」
彼女が抱き着いたまま離れないので、私も同じ力で抱き着き返す。
和泉に体重を預けていると、さっきまで存在しなかった彼女の体温が伝わってくる。
いつの間にかハグぐらいなら抵抗なく行えるようになってしまった自分が怖い。
こうやって、どんどんスキンシップのハードルが下がっていくんだろうか……。
「大好きだよ。莉那」
「んっ。ありがとう」
何度も聞いたはずなのにこの言葉だけはどうにも慣れなくて、
「私ともやっぱり遊び?」
抱きしめたままだから、和泉の表情は見えない。
けど逆によかったかもしれない。
和泉も私の顔を見ることができないし、お互い酷い顔になっていても相手にバレることがない。
さっきよりさらに強く抱き着いてくる彼女を抱きしめ返す。
千鶴と話している時、聴かれているなとは思っていたけど、私の想像以上に聴かれていたみたいだ。
遊びと訊かれると答えに迷う。
今の私の中に本気だと断言できる材料はない。
だからと言って遊びだと言い切ってしまえるほど不誠実な気持ちで付き合っているわけでもない。
「……遊びじゃないよ」
「やっぱ本気とは言ってくれないんだね」
「いや、ごめ――」
私がそう言いかけたところで、彼女は私の言葉を制すように口元を手で覆うと言った。
「いい、言いなおさなくて。言わせたとか思いたくないし、それに言ってくれない時点で答えはわかってる」
「違う」
「もういいって。それより――」
彼女がそう言うと、服の下に彼女の手が回された。
ひんやりとした手が背中に触れると、無意識に冷たさから逃げようとして、和泉に密着してしまう。
付き合いたての頃なら、こんな距離感に戸惑って、反射的に身を引いていただろう。
でも今は――和泉の腕の中が、心地よく感じてしまう。
薄い布一枚を隔てているだけのはずなのに、肌が触れた瞬間、じわじわと熱が広がっていく。
特にお腹の奥が火照るように熱くて、自分の身体が思い通りにならない感覚に陥る。
彼女は私の反応を見ると続けて言った。
「遊びなら……ちゃんと私で遊んで。そうでしょ?」
彼女の声は、どこか震えていた。
「だからっ――」
「莉那」
私がそう言いかけたところで、和泉は私の名前を呼ぶと口をふさぐようにキスをしてきた。
湿った熱がじわりと広がり、舌が触れ合う刹那、背筋に鋭い戦慄が走る。
次の瞬間、和泉の舌が迷うことなく押し入ってきて、息を奪われる。
味も香りも体温までも溶け合って、今口の中に入っているのがどっちの舌かわからなくなる頃、彼女は急にキスをやめて押し倒してきた。
和泉は私を床に押し付けながら顔を近づけると言った。
「大好き、大好き、大好き――莉那、大好き」
和泉の声が途切れなく降り注ぐ。
まるで波のように、私の意識をじわじわと侵食していく。
気が付くとまた舌が絡み合う。
部屋に来たときは適温だと感じていたのに、何度も彼女と唇を交わすと、どんどんと身体が熱くなっていくのを感じた。
彼女の「好き」が途切れる前に、次の「好き」が押し寄せて、思考を奪う。
まるで波のように連続する言葉が、思考を侵食し、私の意識を
さっきまで心地よかった室温が、じわじわと体を熱で満たしていく。
ティーシャツの内側にこもる熱が鬱陶しくて、無意識に裾を引っ張る。
それでも、麻央の体温が近くて、余計に息苦しい。
一通り好きと言って満足したのか、麻央は焦点の定まらない目で、私のことを見下ろしてきた。
「キスマークつけていい?」
私の返事なんて興味がないのか、麻央は自分から訊いてきたくせに私が返事をした時には、すでに私の鎖骨の近くに吸い付いていた。
そこだと絶対バレるじゃんと思ったけど、すでに痕はついてしまっていると思う。
けど、もういいや。
遊んでるって噂を受け入れたのは私だし、キスマークの一つや二つ、どうとでも言い訳できる。
麻央の好きなようにさせていると、何回か吸ったあとようやく離れたので私は訊いた。
「満足した?」
「まだ。抱きしめていい?」
「いいけど……」
麻央は私の服を脱がせると抱き着いてきた。
そのまま相変わらずとろけたような目でキスまでしてくる。
ここまでされると、この後どうなるのか大体予想はつく。
ただ思った以上に不快感は無く、それどころか麻央ならいいかなと思ってしまっている自分がいる。
初めの頃はこんな事思わなかったと思うけど、クリスマスまでだったとしても付き合っている間に大分ほだされてしまったのかもしれない。
恋人のいる良さを教えるはずだったのに、こんなんじゃ成績落とすの私の方じゃん。
なんで欠片でも麻央が相手でよかったと思ってしまっているんだろう。
とどめを刺すように落とされたキスを受け入れると、麻央は私を見てピタッと止まった。
何て言われるんだろうか。
心臓が今まで感じたことがないくらい早く脈打つのを感じていると、一つ大きく息を吐いた麻央が言った。
「じゃあ、勉強でもしよっか」
「……え?」
熱がこもった空気が、一瞬にして霧散する。
ただ麻央にも何か考えがあるのか、さっき脱いだティーシャツを渡す彼女の口元には、不気味な微笑みがあった。
「今日返ってきた小テストの見直し」
麻央がバッグから九十七点と書かれたテスト用紙を出すのを見ると、一気に体の力が抜けるのがわかった。
「莉那はしない?」
「あ、いや、するけど……。これで終わり?」
って私何言ってるんだ。
口に出した後で正気を取り戻したが、今更後悔したところで、一度口にした言葉は取り消せない。
これで終わり?
ってこれじゃあまるで私が麻央に期待してたみたいじゃん。
雰囲気に流されただけ……期待なんて。
彼女は不気味な微笑みを湛えたまま、私の顎の下に人差し指で触れ、私の顔を上げさせた。
「まだ満足できない?」
「いや、そんなこと、ないし」
「じゃあやりましょうか」
彼女はノートを取り出すと、催促の代わりとでも言うように私にもペンを渡してきた。
「してほしいことあるなら、自分から言ってね」
「……いや、ないから大丈夫。やろう」
麻央に隣に座るように促されて座ったのはいいけど、全く集中できない。
さっき心拍数を私の許可なく上げた心臓は下げる気配を見せないし、下手に距離を詰めてしまったせいで、たまに彼女と肩が触れ合うのが気になってしょうがない。
中途半端にやめられたせいか、身体がムズムズして、読んだ問題文が端から抜けていく。
「あの、麻央」
「んーなに?」
「ちょっとだけ。本当にちょっとだけでいいから抱きしめて好きって言ってほしい」
「好きだよ。莉那」
麻央は雑に私を抱きしめて言い捨てると、またノートの方を向いてしまった。
嫌だ、意地悪しないでよ。
彼女の裾を引っ張って、彼女の気を引くが彼女が私の望んだ反応を返してくれることはない。
「ねえ麻央」
「んー」
麻央はそう言いながらも、笑いを押し殺しているようだった。
私の頭を何度か撫でると、まるで聞き分けの悪い小学生に諭すかのように「勉強しようね」と言ってくる。
ただそんなので満足できるわけがない。
「わかってるでしょ」
「だからちゃんと言って」
「抱きしめて、さっきみたいにいっぱい好きって言って」
私がそう要求すると、彼女はようやくちゃんと抱きしめてくれた。
「大好きだよ、莉那」
和泉に全体重を預けると、突然スマホが鳴った。
この通知音は私じゃない。
「麻央?」
「ごめん」
和泉は「ごめん」と私に断りを入れ、スマホを手に取った。
画面に映った名前を見た瞬間、和泉の顔が固まった。
一拍の沈黙。
やがて、浅く息を吐くと、無言で着信を切る。
画面が暗くなるのと同時に、彼女の顔には作り物めいた笑みが戻っていた。
「ねえ今のだれ?」
「大丈夫。莉那には関係ないし、スパムみたいなもの」
「誰って聞いてるんだけど」
「莉那は関係ない人だって」
私に対しては散々聞いてきたくせに、自分は関係ないって。
ムカつく。
彼女に手を触れられると急に体温が下がっていくのがわかった。
名前くらい、教えてくれてもいいのに。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。
――そんなに、私には隠さなきゃいけない相手なの?
「ごめん、今日は帰るね」
「えっ……?」
和泉が何か言いたげに口を開きかける。でも、ここで話を続けたら、もう後戻りできなくなる気がした。
だから私は彼女の言葉を振り切るように、荷物をまとめ、背を向ける。
私はさっきから何か呼びかけてくる和泉を無視して家を出た。
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