第10話「洗われるなんて聞いてない」

 扉を開けた瞬間、湿った湯気が肌に絡みつく。

 シャンプーと石鹸せっけんの甘い香りが、ふわりと鼻孔をくすぐった。

 それは幼い頃、和泉いずみと並んでいた記憶を呼び覚ます匂いだった。


 昔は余裕があったのに、今は肩が触れそうなほど狭い。

 成長のせいか、それとも和泉の距離が変わったせいか。

 意識するたび、空間が息苦しくなる。


 私はどこにいたほうがいいのか、ちょっとずつ場所を移しながら探していると、和泉が急に髪に触れてきた。


「髪どうする? まとめちゃう?」

「あ、うん、お願い」


 和泉は器用に私の髪をまとめ終わると、事前に約束していたかのように「じゃあ座って」と言って椅子を指さした。


「え、私から?」

「うん洗ってあげる。いつもそうしてたじゃん」


 忘れたはずの記憶が、不意に扉をたたく。

 幼い頃の私たち。泡立つ和泉の指が髪を撫でる感触まで、鮮明に蘇った。

 きっかけは忘れてしまったけど、一緒に入るといつも和泉が洗ってくれて、終わった後は和泉が洗うのを湯船の中から眺めていた記憶がある。


「もう、一人で洗えるし」

「前も、そう言ってたよね」


 和泉は私の話を聞いていないのか、ボディーソープを掌に取り、泡立て始めた。


「ねえ麻央まお、聞いてる?」

「聞いてるよ。けど莉那りなだって勝手にいなくなったんだし、私だって勝手にしていいよね?」


 そう言われてしまうと、もう強くは言えない。

 和泉の文句に反論できるカードを私は持ち合わせてはいない。

 借りてきた猫のように黙って椅子に座っていると、泡立つ指がそっと肌をなぞる。

 

 くすぐったさに身をすくめるが、次第にじんわりと温もりが染み込み、思わず息を詰める。

 彼女の指が皮膚の上を滑るたび、泡がパチパチと弾けて、温かな感触が広がる。

 最初はくすぐったかったのに、次第にその温もりがじんわりと肌に染み込んでいく。


 ボディーソープの香りが、いつの間にか和泉自身の匂いへと変わっていた。

 それは、どこか甘くて、落ち着く匂い。

 彼女の匂いを嗅ぎながら私の身体の上を滑る彼女の体温を感じると、頭がぼーっとしてきて、彼女に全てをゆだねてしまう。

 ただ、私が無抵抗なのをいいことに胸まで伸びた彼女の手をつかむと言った。


「そこは……自分で洗うから」

「そう? じゃあどうぞ」


 彼女の手をそっと払いのけ、自分の手でなぞる。

 けれど、彼女の温もりの残滓ざんしが拭えなくて、妙に意識してしまう。

 鏡越しに映る和泉の姿を見ながら、友達だった頃は触らせなかった部分を、意識しないように急いで洗う。

 視線をそらすように湯船に身を沈めると、水面が揺れ、波紋が広がる。


 小学校の頃は気にならなかったはずなのに、流しても落ち切らなかった彼女の香りが彼女に抱きしめられてるんじゃないかと錯覚させる。

 いつも和泉の洗う姿を見ていたはずなのに、勝手に気まずくなってお風呂場の隅を眺めていると、いつの間にか洗い終えた和泉が「どいて」と言って入ってきた。


 お風呂場と同じようにやっぱり湯船も高校生二人が入るには狭すぎて、逃げようとしても、背中越しに和泉の柔らかな温もりが押し寄せる。

 彼女も意図しているのか、私が位置を変えようとしても、私を抱きしめて離さなかった。

 肌が触れた瞬間、今までどれだけ織物に守られていたかを実感する。

 腕とか頬とか身体の一部を直接触られるのは何とも思わなかったけど、背中前面で感じる彼女の体温と柔らかさはとても暴力的で私の脳裏にこびりついた。


 服越しなら気にしなかった温もりが、直に触れると違った。

 熱が肌に絡みつき、じわじわと広がる。

 逃げ場がない。

 そのことを意識すると、体温がさらに上がる気がした。


 少しでも離れようと身体を小さく丸めていると、さっきまでただ離れないように周されていた和泉の腕がゆっくりと動き出した。

 まるで私のボディーラインを探るかのように身体をなぞってくる和泉をなにもできずに受け入れていると、彼女は言った。


「やっぱり綺麗だよね」


 首筋に触れる彼女の吐息のせいで既に活動を停止した思考を再始動させると、私は言った。


「麻央のが綺麗だよ」


 口にした後で何か違和感を覚えたけど、ギリギリの私に違和感の詳細を探す余地は残っていない。

 わき腹から来る刺激に小さく身体を震わせていると、和泉は耳元でささやいた。


「まだわき腹弱いの?」

「弱くなんかっ――」


 私が言いかけたところで、和泉は指先を私のわき腹の上で滑らせた。

 びくっと肩が跳ね、お湯が細かく飛び散る。

 それを見て、和泉は小さく口元をゆがめた。

 懐かしそうな、でも少し意地悪な笑みだった。


「変わってないね」

「前より強くなったし」

「へーそう」


 和泉はそう言って背中の真ん中に指を滑らせた。

 背中をなぞる指先に、甘いしびれが走る。

 その感覚が、脊髄を伝って脳まで突き抜けた。


「ねえ、麻央……」


 私が彼女の手を掴んでも空いている手で私の背中の上を滑らせ続ける。


「弱いままだね」

「弱くなんてない……」


 今は私に強気で出られるかもしれないけど、和泉だって昔私にされた時はすごく反応してたじゃん。

 まあ今はやり返せないけど……。


「へー、じゃあここは?」


 和泉がそう言うと、耳に柔らかいものが触れた。

 彼女の指先が耳殻をそっとなぞる。

 触れられるたびに、じんわりと熱が広がり、背筋がこわばる。


 指だけでなく、和泉は体温を纏った吐息も吹きかけてきた。

 何もできずにただ手をぎゅっと握り締めていると、彼女は言った。


「別に我慢しなくていいのに。耳弱い莉那も可愛いよ」

「別に我慢なんか、してないっ……」

「じゃあ続けていい?」


 和泉はそう言うと、ダメ押しと言うかのように私の耳に息を吹きかけた。


「やめて……、今すぐ……」


 これ以上耳を触られたらおかしくなってしまいそうで、怖い。

 何か支えが欲しくて和泉の腕を掴むと、彼女はもう一方の手で私の首元に触れた。


「ここに痕を残していいなら、やめてあげる」

「痕って?」

「教えない」


 彼女は小悪魔のような笑みを浮かべる。

 説明されなくてもその顔を見せられると、ろくなことにならないのがわかる。

 

「やだ」

「ならまだ続ける」


 彼女は余裕一杯に私が掴んだ腕を解いて指を絡めると、私の耳元で大きく息を吸った。

 ここでいいって言わないとまた息を吹きかけられるのはわかってる。

 合図代わりだろうか、和泉が絡めていた指に力を込めたところで私は言った。


「つけていい。つけていいから」

「ありがとう。大好きだよ」


 彼女は私の首筋をそっと撫で、残る水滴を払う。

 そして次の瞬間、唇が吸い寄せられるように触れた。

 じんわりとした熱が、そこに刻まれていく。

 皮膚が吸いあげられてるのを感じていると、和泉は言った。


「うん。綺麗についたかな」

「満足した?」

「そうだね。とりあえずは」


 私はさっき吸われていたところを触ってみたけど、なにもない。

 まあ当たり前か。

 本当につけられたのか、半信半疑のまま鏡を見るが、場所がいいのか私からはどう頑張っても見えなかった。

 これなら隠さなくてもいいし、いいかな。


「じゃあそろそろ出よう」


 私は脱衣所からバスタオルを取ると、和泉に差し出す。

 これ以上和泉と密着していると何されるかわからないし、少しでも早く服を着て防御力を高めたかった。


「ん、わかった」


 和泉より先に身体を拭き終わり、脱衣所に出ると、彼女に呼ばれた。


「なに?」


 私が振り返るとすぐに、彼女は私のことを抱きしめてきた。

 まだ和泉の身体に水滴が残っているせいか、彼女の肌は少しだけ冷たい。

 お風呂場の方が少し低くなっているのか、普段抱き着かれるよりも和泉の顔の位置が近くて心臓が跳ね上がる。


「ねえ、もう満足した?」

「んー……まだ」


 素肌のぬくもりが、服越しでは決して伝わらない熱を帯び、じわりと脳を痺れさせる。

 どうしたらいいのかわからず、私も軽い力で抱き返していると、和泉は急にキスしてきた。

 和泉の唇が触れるたびに、じわりと熱が広がる。

 抵抗する隙もなく、ふわりと何度も触れて、離れて、また重なる。


「大好きだよ」

「ありが、とう」

「部屋戻ろう」

「わかった」


 和泉が用意してくれたと思われる、私には少し大きめの服に袖を通す。

 家の中にいるのだからこんなことする必要はないはずなのに、エスコートされているかのように、ほんのり湿った彼女の指が私の手を包み込む。

 強くもなく、けれど離れることも許さない、そんな温度だ。


 この後何か変なことをされるわけじゃない。

 ただ和泉の姿を見ることが出来ず、私はうつむきながら手を引かれて部屋に戻った。

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