異界沼地サバイバル~孤独な俺は発火石と生き抜く~

みなと劉

第1話

 泥の感触がじっとりと足に絡みつく。

 ひざ下まで沈むような沼地に立ち尽くし、男は深く息をついた。

空はどんよりとした灰色で、重たい湿気が全身を包み込む。見渡す限り、鬱蒼とした森と水たまりばかり。

 「……まいったな」

 服はすでに泥まみれ。靴はとっくに役目を果たさず、裸足で踏みしめる地面は不安定だ。

だが、文句を言っている余裕はない。生きるために動かねばならない。

 男はまず、周囲の環境を確認することにした。木々の間には太いツタが絡み、折れた枝があちこちに散らばっている。

大きめの石も転がっていた。木の幹には苔がびっしりと生え、湿った土の匂いが鼻をつく。水辺には細長い草が密集しており、手を伸ばせば簡単に引き抜ける。

 「道具がいるな」

 素手では限界がある。

まずは使えそうなものを集め、最低限の装備を整えなければならない。

 男はツタを集め、数本の長い枝を拾い上げる。適当な石を見つけると、それを叩き割り、鋭利な欠片を作り出した。

さらに、割った石を枝に押し当てて削り、槍のような形に整える。ツタでしっかりと固定すると、簡易的な槍が完成した。

 「よし、これで少しはマシか」

 持ちやすさを確認し、何度か軽く振ってみる。悪くない。とりあえず、小型の獲物なら仕留められるだろう。

 次に、食料の確保だ。このままでは餓死する。男は泥の感触に慣れながら、ゆっくりと歩を進めた。

 やがて、ぬかるんだ地面の向こう、草むらの隙間に黒い影が動くのが見えた。

 ――豚だ。

 丸々と太った野生の豚が、地面を掘り返して何かを探している。

 男は息をひそめ、慎重に距離を詰める。槍を構え、狙いを定める。

 この一撃に、生死がかかっている。


 男はじりじりと足を進めた。

湿った草が足首に絡みつくが、気を逸らされるわけにはいかない。

豚はまだこちらに気づいていない。土を鼻先で掘り返し、根や虫を探しているようだった。

 男は槍を構え、深く息を吸う。

勢いよく飛び出せば、驚いた豚が逃げるかもしれない。

慎重に、だが確実に仕留めるための位置を取らねばならない。

 あと数歩。

 豚の背中が目の前に迫った瞬間、男は腕を振りかぶり、槍を突き出した。


 ザシュッ。


 鋭利な石の先端が豚の肩に突き刺さる。

驚いた豚が大きく鳴き声を上げ、激しく暴れた。

男は両手で槍をしっかりと握り、必死に押さえ込む。

 「くっ……!」

 豚の力は予想以上だった。

足元のぬかるみに体が取られ、何度もバランスを崩しそうになる。

それでも、ここで逃がすわけにはいかない。

 豚は抵抗しながらも、やがて動きが鈍くなり、その場に崩れ落ちた。荒い息を吐く男の体には、汗と泥がまとわりついている。

 「……やった、か」

 槍を握る手に力が入らない。それほど全身に力を込めていたのだ。

 男はしばらくその場で息を整え、ようやく腰を下ろした。

 次にやるべきことは決まっている。この貴重な食料を、無駄なく処理することだ。


 男は深く息をつき、槍を脇に置いた。目の前には仕留めたばかりの豚。

次にやるべきことは、これを食料に変えることだ。

 「まずは……刃物がいるな」

 槍に使った割れた石では細かい作業が難しい。より扱いやすい形状のものが必要だった。

 男はあたりを見回し、使えそうな石を探し始めた。適度な大きさで、鋭利な断面を持つ石を見つけるのに時間がかかる。何度も泥を払い、地面に転がる石を拾い上げては選別する。

 「これなら……」

 ようやく手頃なものを見つけると、さらに改良するため、別の石で打ち欠いて形を整えた。

思うように割れず、何度も失敗する。石が砕けすぎたり、狙った形にならなかったりと、苛立ちが募る。

 「……こんなところで投げ出せるか」

 根気よく作業を続け、ようやく握りやすい形の石刃を手にする。

片手に収まるサイズで、片側は鋭利、反対側は少し丸みがある。

これなら、ナイフ代わりに使えるかもしれない。

 「……試すしかないか」

 男は豚のそばに腰を下ろし、慎重に石刃を当てる。しかし、想像以上に難しかった。

獲物の皮は厚く、石刃を押し当ててもなかなか切れない。

力を込めれば滑り、手元が狂う。何度もやり直し、少しずつ削るようにして進める。

 「時間がかかるな……」

 腕が痛くなり、指先には泥と汗が滲む。

それでも、少しずつ皮が裂け、中の肉が見え始める。

 根気のいる作業だった。

何度も手を止めて息を整え、また作業に戻る。その繰り返し。

空は次第に赤みを帯び、周囲が薄暗くなっていく。

 ようやく、一部の肉を切り取ることができた。

 「……なんとか、食えそうだな」

 まだまだ作業は続くが、ひとまず最初の一歩は踏み出せた。

男はくたくたになった体を引きずりながら、次の準備に取り掛かるのだった。


 男は荒い息をつきながら、石刃を握る手をゆっくりと開いた。

指には泥と汗がこびりつき、腕はじんじんと痛む。

 「時間はかかったが……ひとまず肉は確保できた」

 解体した肉の一部を並べ、周囲を見渡す。

次に必要なのは、火だ。生肉をそのまま食べるわけにはいかない。

 しかし、問題は火をどう起こすかだった。

 湿気の多い沼地では、木々も草も水分を多く含んでいる。普通に木を擦ったところで、簡単に火がつくとは思えなかった。

 男は周囲を慎重に見回しながら、使えそうなものを探す。

すると、泥の中に紛れるようにして、赤みがかった奇妙な石を見つけた。

 「……これは?」

 手に取ると、ほんのりとした暖かさを感じるような気がする。

表面はざらついており、鉄分を含んでいそうな色合いをしていた。

 「火のような赤……まさか、発火する石か?」

 試しに、近くにあった乾いた草を集め、その上で石を別の石に擦りつけてみる。


 ゴリッ、ゴリッ——。


 最初は何の変化もなかった。

しかし、何度か力を込めてこすり続けると——


 ボッ——


 突然、乾いた草の一部が赤く光り、小さな炎が生まれた。

 「……火がついた!」

 驚きながらも、男は急いで息を吹きかけ、炎を育てる。

乾いた草が燃え広がり、小さな火種ができた。

 これで、肉を焼くことができる。

 「こいつは使えるな……よし、『発火石』と名付けるか」

 思わぬ発見に、男は少しだけ安堵の息をついた。

火を得られたことで、生存の可能性がぐっと高まったのを実感する。

 次は、肉を焼くための準備を進めなければならない。


 男はじっと、手にした発火石を見つめた。

 草に火をつけたというのに、石そのものは何の変化もない。

ひび割れもせず、熱を帯びた様子もなかった。

普通なら、火打ち石は何度も使えば欠けて小さくなっていくものだ。しかし、この石はまるで消耗しない。

 「……これは、ただの石じゃないな」

 この世界には、特殊な性質を持つ鉱石が存在するのだろうか。

あるいは、この石だけが特別なのかもしれない。

 考えても答えは出なかったが、ひとまず使えるものは使う。

それが生き延びるための基本だ。

 男は火をさらに大きくし、持っていた槍の先に豚の肉を突き刺す。即席の串焼きだ。

 火にかざし、じっくりと熱を通していく。脂がじわじわと浮き上がり、滴るたびに炎が少し跳ねた。鼻をくすぐる香ばしい香りがたまらない。

 「……もういいか」

 ほどよく焼きあがった肉を慎重に口へ運ぶ。

 熱い……が、旨い。

 噛めば噛むほど、肉汁があふれ出し、塩も調味料もないはずなのに、しっかりとした旨みを感じる。獣臭さも思ったほどではない。

 空腹だった体が、熱い肉を受け入れていくのがわかる。

胃が強く収縮し、栄養が染み渡るような感覚。

 「……っ、うまいな」

 久しぶりにまともな食事を取れた満足感が、じんわりと胸に広がる。

 だが、同時に込み上げてきたのは、言いようのない虚しさだった。

 見知らぬ沼地で、ひとり。

自分が今どこにいるのかもわからず、帰る方法もない。

そんな状況で、こうして一人で肉を食っている。

 美味いのに、心のどこかがぽっかりと穴が開いたようだった。

 男は小さく息をつき、焚き火の火を見つめる。

 「……考えても仕方がないか」

 今は、生きることが最優先だ。

余計な感傷に浸っている暇はない。

 もう一口、肉をかじりながら、男は明日のことを考え始めた。


 男は焚き火の火を見つめながら、ゆっくりと最後の肉を口に運んだ。

空腹が満たされるにつれ、体の力が抜けていく。

 ふと視線を落とすと、足元に咲く小さな花が目に留まった。

 「……こんなところに花が?」

 沼地のような環境でも、こうして植物が育つのか。気になって、その花の茎を指でつまみ、軽く引っ張る。

すると、意外にも丈夫で、簡単にはちぎれなかった。

 「強いな……」

 試しに爪で茎を裂いてみると、中から細くしなやかな繊維が現れた。

触ってみると、丈夫で、少し湿り気があるが、乾かせば糸のように使えそうだった。

 「……繊維草、ってとこか」

 この草を集めれば、何かしらの紐を作れるかもしれない。

武器や道具を作る際にも役立ちそうだ。

 さらに、花の部分を指でつまんでみると、小さな種がこぼれ落ちた。

 「やっぱり、種も取れるのか」

 この種を植えれば、同じ草を育てられるのだろうか。

もちろん、今の状況では栽培する余裕はないが、こういう資源があることを知っておくのは大事だ。

 男は繊維草のいくつかを集めながら、改めてこの環境をじっくりと観察した。生きるために、使えるものは何でも利用する。

 「少しずつでも、生活を安定させないとな」

 火、食料、道具の素材——少しずつだが、この世界で生きる術を見つけ始めていた。


 男は手のひらに乗せた繊維草の種をじっと見つめた。

小さく、軽い。

これがあれば、もしかすると後々役に立つかもしれない。

 「……一応、持っておくか」

 種を慎重に集め、即席の小袋代わりに使えそうな大きな葉に包んでおいた。

今は植える余裕などないが、いずれ安全な場所を確保できれば試してみてもいいだろう。

 次に、集めた繊維草の茎を裂いて、細い繊維をより合わせてみる。思った以上に強度があり、乾燥させればもっと丈夫になるかもしれない。

 「紐くらいにはなるな……」

 長さを揃えて何本も撚り合わせれば、さらに太くて強い縄も作れそうだ。

狩猟や罠、道具の補強——使い道はいくらでも考えられる。

 男はしばらくの間、手を動かしながら繊維を撚り続けた。

単純作業だが、こういうことを積み重ねるのが生存には欠かせない。

 ふと手を止め、辺りを見渡す。夜の気配が濃くなり、沼地の奥から聞こえてくる虫や動物の気配が増してきた。

 「そろそろ、寝る場所も考えないとな……」

 焚き火のそばに座ったまま、男は暗がりを睨むように見つめた。

 火があるとはいえ、こんな開けた場所で寝るのは危険だ。今は疲れているが、適当な場所を探さなければならない。

 生き延びるために、できることはすべてやる。

 男は静かに立ち上がり、次の行動を考え始めた。


 男は焚き火の明かりを頼りに、繊維草の茎を軽く編み合わせていった。

 「意外としなやかだな……」

 適当に組み合わせるだけでも、それなりに強度が出る。

何本かを撚って束にし、それをさらに編み込むことで、ある程度の広さと丈夫さを持つ編み物ができてきた。

 作業を進めるうちに、ふと考える。

 「この調子で編み続ければ……」

 いくつも束を編み合わせ、大きな網状にしてみる。

途中、何度か強度を確認しながら調整を重ねると、やがて簡易的なハンモックのようなものが出来上がった。

 「これなら……地面に直接寝るよりはマシか」

 沼地の湿気や冷えを避けるためにも、少しでも地面から離れた場所で休むのは重要だ。

男は丈夫そうな木の間にロープ代わりの繊維を結びつけ、ハンモックを固定する。

 試しに体を預けてみると、多少のたわみはあるものの、問題なく体を支えてくれた。

 「これなら、なんとか休めそうだな……」


 ハンモックに横になり、周囲を見渡す。

火の灯りが揺れ、かすかに虫の音が聞こえてくる。ここが安全とは言えないが、地面よりは少しだけ安心感があった。

 寝る前に、周りの草を手で探ってみる。すると、一部の草に触れたとき、ほんのりとした温かみを感じた。

 「……? なんだ、この草……?」

 他の草とは違い、まるで体温があるかのような感触。これは何か特別な性質を持つ植物かもしれない。

 男は慎重にその草を摘み取り、じっくりと観察することにした。


 男は手のひらに乗せた温かみのある草をじっと観察した。

 夜の冷気の中でも、この草だけはほんのりと温もりを持っている。

まるで微弱な熱を発しているようだ。

 「……やっぱり暖かいな」

 手のひらで揉んでみても、その温かさは変わらない。

何か特別な性質があるのだろうか?

あるいは、内部に空気を溜め込むような構造になっているのかもしれない。

 しばらく考えた後、男はふとひとつのアイデアを思いついた。

 「……この草を集めて、繊維草の茎と一緒に編み込めば、簡易的な布団になるんじゃないか?」

 地面の湿気や冷気を防ぐだけでなく、寝具としての保温性も期待できる。

 さっそく周囲を見回し、同じ草が生えている場所を探す。

よく見ると、ポツポツと点在しているのがわかった。

数は多くないが、少しずつ集めていけば十分な量になるかもしれない。

 男は慎重に温かみのある草を摘み取り、それを繊維草の茎と混ぜながら、さらに編み込んでいく。

 作業を続けるうちに、次第にふかふかとした簡易布団のようなものが形になってきた。

 「……よし、これならいける」

 男は編み上げた布団をハンモックの上に敷き、試しに横になってみた。

 温かい。

 直接冷たい風が当たらない上に、温もりがじんわりと体に伝わってくる。

これなら、夜の冷え込みも多少は耐えられそうだ。

 「少しは快適に眠れそうだな……」

 男は焚き火の揺れる光を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。

 こうして、この世界での初めての夜が静かに更けていく。


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