ラフレシア

御角

ラフレシア

 同窓会なんて行くんじゃなかった。

 充満する甘く腐ったような臭い。どこか懐かしいその香りに思わず頭がクラクラする。

「大丈夫? 少し飲みすぎちゃったかな?」

 多目的トイレで膝を着く僕を心配そうに見下ろして、彼女は後ろ手に扉の鍵を閉めた。


 僕の通っていた高校は、お世辞にも治安がいいとは言えなかった。いじめなんて日常茶飯事で、彼女も——花も、その被害者の一人だった。

「ほぅら、ラフレシアちゃん。お水あげるよー! 嬉しいでしょ!」

 女子トイレから漏れ聞こえる甲高いそれは、まるでエサに群がる蝿の羽音のようだった。

 背が高く、大きく、わずかに生ゴミのような臭いがする彼女は、いつも一人で泣いていた。

「……これ、使って。返さなくてもいいから」

 その惨めな泣き顔に、こっそりハンカチを差し出すことが、いつしか僕の役目となっていた。

「あ、りが、と」

 淀んだ屍肉色の花弁に、汚いものしか寄せ付けない腐臭。ラフレシアは、なんて可哀想な花なんだろう。

 彼女の涙と鼻汁と下水にまみれた笑顔は、歪で醜く、この世の何よりも愛らしい、僕だけの宝物だった。


 結局、彼女はいじめに耐えかねて途中で退学した。消息は誰も知らないと思っていた。

 まさか、同窓会の場で再会するなんて夢にも思っていなかった。

「ど……どうして」

 トイレという密室で、かろうじて口から出たのは、純粋な疑問だった。

「私が同窓会に参加しちゃいけない?」

 違う、そうじゃない。

「凄いんだよ。みんな私のこと、綺麗だね、可愛いねって。昔のことが嘘みたいに」

 そうだ。当時のクラスメイト達と楽しくお酒を飲んでいるところで、周囲がなんだかざわつき始めて、遠くに背の高いモデルみたいな女の姿が見えたんだ。

 その変容ぶりに、誰も彼女が花であると気づかない。僕以外の誰も、漂う腐臭を気に留めない。

「きっと忘れているんだね。覚えていたのは、物好きな君くらい」

 頭が痛い。また吐き気が込み上げる。

 気持ち悪い。何食わぬ顔のクラスメイトも、それを受け入れる彼女も、何もかもが。

 思わず便器に駆け寄って、僕は先ほど飲んだばかりのワインを吐いた。

「……なんで、トイレにいるんだ。さっきまで花は、会場にいたはずなのに」

「だって……逃げたから」

 えずく僕の背中を優しくさすりながら、花は耳元でぬるくささやく。

「逃げたから、追いかけてきたの。それだけ」

 背筋を這う手の冷たさに、もう彼女が人間ではないことを悟った。

「私ね、知ってたよ。君が私に手を差し伸べる度に、淡い優越感に浸っていたこと」

 吐き気が止まらない。口からは次々と吐瀉物が溢れて、発言すら許してくれない。

「正義の味方ごっこは楽しかった? それとも苦しかったかな? そうだよね。だって君はそんなつもりなかったんだもんね。勝手に罪悪感を感じて罪滅ぼししてたんだもんね」

 甘酸っぱく、不快な香りが鼻腔に満ちている。彼女の匂いの正体が今、ようやくわかった気がする。

「私、知ってるよ。最初にラフレシアって呼んだのが君だって」


 寒気がした。違う。悪気はなかった。ちょっとふざけて例えただけだ。内輪だけのノリだった。それがどんどん、手がつけられないほど大きくなって、ついには得体の知れないものに変わってしまった。もう自分一人じゃどうしようもなかった。

 花に優しくしている間だけは、自分はいい人間なんだと思えた。僕は悪くない。彼女はほんの小さなきっかけでいじめられた可哀想な人間で、僕はそれを見て見ぬふりなんかしない救世主だと。

 彼女が僕を頼れば頼るほど。彼女が醜く惨めな姿であるほどに、自分が慈悲深い存在であると錯覚し、その行いに酔いしれていた。

 ほんの小さなきっかけを作ったのが、他でもない自分であることも忘れて。

「ああ、可哀想な私。でも、君はもっと可哀想。こんな些細な罪一つで、もう償うことも許されず、ずっと苦しんで、苦しみ続けて、きっと一生囚われる。あいつらはもうとっくの昔に忘れているのに。君だけが、私にさいなまれ続けるんだ」

 生ぬるい吐息が、耳を伝って脳味噌を柔らかく締め付ける。僕は胃酸に喉を焼かれながら、掠れた声で笑っていた。

「ねえ? それは、きっと」

 わかっていた。僕はとうの昔から、ラフレシアのとりこだった。

 ——それはきっと、素晴らしく哀れで、美しい感情に違いない。




 目を覚ますと、そこは多目的トイレの中だった。外からはドンドンと扉を叩く音と共に、「大丈夫か」と声が聞こえてくる。

 いつの間に眠ってしまったのか。夢を、見ていた気がする。

 時計を見ると、トイレに駆け込んでから一時間も経っていた。

「すみません、今出ます」

 タイルの床から起き上がり、ふらつく頭を必死に手で押さえる。視界は未だ白昼夢のようで、足元もおぼつかない。汗ばむ体に張り付いたワイシャツがうっとうしい。

「げ、汚れてんじゃん……」

 懐かしい臭いがした。

 洗っても、洗っても、面影が鼻の奥にこびりついて消えない。

 ……どんな夢を見たのか、もう思い出せない。

 それでも僕は多分、永遠に彼女から離れられない。

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ラフレシア 御角 @3kad0

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