序章【こうして女になった】

0-1 はじまりの日


 暗くシンと静まり返った厨房、ずっと動いていない冷たくなったかまど、埃を被ったステンレス台には長く使っていない調理器具が寂しくあの頃のまま放置されていた。


「……っと」


 ここに立つのもずいぶん久しぶりだなと思いつつ、こぼさないように電気ケトルに入ったお湯をマグカップに注いでいく。


 これでレシピ通りのはずだ。鼻を近づけると白い湯気とともに甘い香りが鼻孔を通り抜ける。


 こげ茶色の深い色がカップの中で踊り揺れ、暖かなチョコレート色の液体が春の日差しを受けて優しく輝いていた。匂いはそっくりだ、及第点だろう……


 お盆に乗せるとそれを持ってふらりと厨房から出る。ホールに出るとカーテン閉め切り、片付け終わった店内はガラガラであの頃の賑やかな雰囲気は何一つなかった。


 こんなにこのお店広かったのか……ショーケースや座席などといった物は撤去されて壁紙も所々剥げている。そんな寂れた店の中心にあるカウンター席へ腰掛ける。


 孤独と無音が襲ってくる……


 その静けさがあの日々はもう戻ってこないという喪失感と母さんの店を守れなかった自分の無力さを思い出させてきた。



「……さてと」


 今はこんなこと考えていても仕方ないなと思いコップに口をつける。甘くて温かな味が口に広がる。


 母さん作ってくれたモノとは少し味が違うなと感じつつ、それを静かに口に含む。甘い……暖かい、それがじんわりと全身に染み渡っていき、後に苦く辛い味が舌の上に広がる。


 ――……とりあえずここを出て学生寮に入ってからはどうしようか。もう、調理科も辞めるし……


 唯一の肉親の母親を亡くして天涯孤独の身としてはいろいろと考えることが多い……でも、とりあえずは母さんの最後をこなしたあとに実家があるこの地から離れることにしよう。


 空になったマグカップを見つめながら、そうぼんやりと考える。そんな物思いにふけっていたためか、スマホが鳴っていたことに気付いていなかったようだ。


「うわぁ!」


 ブーブー!! と突然鳴り響いたバイブレーション音に驚いて肩が跳ね上がりそうになったがなんとか耐え忍びつつポケットからスマホを取り出す。着信相手は『弥々浦こなこ』と書かれている。


 慌てて緑色のアイコンをタップして電話にでた。


「はい! もしもしです」

「あーもしもし! シズくん、久しぶり〜! 元気してた!?」


 声の主は幼馴染の女の子、通称こなこちゃんだ。少し高めの明るい声で元気いっぱいに話しかけてきている。彼女の声を聞くだけでなんだかちょっとだけ元気をもらった気がした。でも。ちょっと音量下げるけど。


「あ、久しぶりだね。急にどうしたの?」

「シズくん、近々、街の方に越して来るんでしょ? 」


「うん、そのつもり。とりあえずは学生寮の方に」

「良かったぁ〜、学校このままやめるかと思っちゃったよ〜」


 本当に安心したかのような口調から彼女らしい人懐っこい明るさを感じる。


「流石に退校はダメだと思ってね。調理科は辞めて普通科に転向する形になるけど……」

「ええ! 調理科やめちゃうの!?」


「うん、まぁね……やっぱり自分には無理だったなぁって」

「むー」


「……どうしたの?」

「アタシ反対だよ! パティシエ頑張ってたのに諦めるなんてさ! それに今時イケイケスイーツ王子とか流行ってるじゃん!? 諦めちゃダメだよっ!」


「スイーツ王子て……」

「知らないの? 今バズってるやつ! ――と、とにかく辞めちゃだめ!」


 彼女の言っていることは何も間違ってない……それはわかってるのだが、どうしてもやるせない気持ちが胸の中に広がっていく。


「ごめん、どうしてもお菓子作りしてると母さんのこと思い出すんだ……それで、上手くいかなくてね」

「天国の雪ママだって辞めて欲しく思ってないよ!  きっと、絶対そうだよ!!」


「…………………………」


 その言葉を聞き少しだけ考える。確かにそうだなとも思えた。それに普段はおちゃらけてるこなこちゃんにが真剣に気遣うような言葉をかけてくれるのは本当にありがたいと思った。でも……


「ごめん。もう決めたことなんだ」

「シズくんの分からず屋! もう、失望がっかりです!」


「別にお菓子作り辞めるわけじゃないからたまには作るからさ」

「むうー! そういう問題じゃないのぉ!」


 彼女の抗議の声を聞きながら苦笑してしまう。


「まぁまぁ落ち着いてよ。調理科のことはいったんもう一度考えてみるから」

「本当?」


「本当だよ」


 …… 本当は考え直すつもりなんてないけどね。こなこちゃんには悪いけどこれは仕方がないことなのだ。自分を守るためにも一度、離れる必要があると思うから……


「うむー、怪しいなぁ。シズくん、無理してない?」

「してないよー」


「ほんとかなぁ、してないならそれでいいけど……」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それよりもばーちゃるめいど……? そっちはどうなのさ?」


「露骨な話題そらし! まぁいいけどねー!  こっちは順調そのものですよ!」

「そういえば、配信とかもしてるんだっけ? そういうネットとかよくわからないけど……」


 ネットをあまりしない僕でもよく聞くバーチャルメイド喫茶。既存のメイド喫茶の要素にプラスして、配信やVtuber要素など、新時代のメイド喫茶の形を提案し大繁盛させている界隈。今ではテレビなどにも取り上げられるほどに人気が出ていると聞いた事がある。


「まあねー! 期待の新人メイドとして人気上昇中なのだよ! 可愛いだけでなく愛嬌のある接客と振る舞う料理でご主人様をメロメロにするのだ!」


 得意げな声が受話越しに聞こえてくる。僕に触発されて怪しい喫茶店でバイトするとか聞いた時はびっくりしたものだが、どうやらうまくやっているらしい。そんな彼女を見て少しホッとした気持ちになると同時に少し羨ましい気持ちもあった。


 自分も過去はこうして夢に向かって突き進んでいた時期があったからだ。あの時は何も考えずにただ楽しく過ごしていただけだった気がする。今は何もかもを失って空っぽになってしまった気分だ。だからだろうか……彼女はとても眩しく輝いて見えた。


「……そっか」

「シズくんもぜひ私の動画見てね! チャンネル登録よろしくぅ! お店に来た時にサービスしちゃうぞ☆」


「わかったよ。今度見てみる」

「頼んだぞい!」


 そんな会話を交わした後、通話を切った。静かになった部屋で一息つく。そして改めて見回すと薄暗い店の内装が目に入った。


 ――バーチャルメイド喫茶か……


 適当に検索して見ると『リラ・ディラ』と呼ばれる人気のメイド喫茶がヒットした。そこには美味しそうな料理とともにきらびやかなお店の中の様子や働くメイド達の写真がたくさん掲載されていた。


 すごいなあ……これが今のトレンドなのかと感心しつつ自分には永遠に縁がない世界だと感じていた。


 WEBページを閉じるとホーム画面にデカデカと表示されている時間を見て立ち上がる。


「さてと……」


 ――最後の母の言葉、その真意を確かめるために僕は近くの小さな山上にある神社――桜華神社に向かった……

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