フィールドワーク
アイリスはマルセルに随伴して密林へフィールドワークをしに来ていた。
フェリク村から半日と経たずして足を運べる密林は魔導植物の宝庫だった。
以前使ったマンドレイクはもちろん、シレナに寄生している交配種の原種を初めとした、治療に用いる数多の魔導植物が生息している。
治癒術師にとっては実に都合の良い立地、というよりはマルセルが密林の実態を把握したうえで最も近いフェリク村に居を構えたらしい。
苦い思い出のあるアイリスにとって少なからず忌避感を覚える土地だが、マルセルがいれば怖くない。
それに文字や図鑑でしか魔導植物を知らないアイリスにはまたと無い機会でもある。
そう、マルセルさえ側にいれば何も問題はないのだ。
「……あれ、マルセルさん?」
アイリスは密林へ来て小一時間と経たずにマルセルを見失っていた。
なぜ、と問われたら好奇心ゆえと答えるだろう。
以前訪れた密林はフェリク村へ向かうための通り道でしかなかった。
むしろ生臭いほどの生物の蠢きに怯え、湿気た空気を疎ましいと思うだけ。そこらに生える貴重な植物ではなく、その先にいるかも定かではない生物ばかりにに気を配っていた。
そうせざるを得ない状況ではあった。生きてマルセルを連れ帰ることが使命であったから。
けれど使命から解き放たれ、密林という未知と恐怖の一部でしかなかった植物たちの正体を知ってしまえば、アイリスには密林が宝の山にしか見えなくなっていた。
ゆえに好奇心が先走り、あれはなんだろう、これはなんだっけと視線が遊んだ。
気づけば最も注視せねばならないマルセルの背中を見失い、アイリスはひとり密林で立ち尽くしていた。
――まぁずい。
早くも頬を冷や汗が伝う。
以前と異なるのは植物への知識だけではない。魔物避けの香がないのだ。
装備としても上下麻生地の服にローブを羽織っただけ。腰には採取用のポーチとダガーを一振りしまってはあるけれど、単身動くには頼りない。
そうか。こうした事態も踏まえてマルセルに魔物避けの香の作り方を教わり、持参するべきだった。
ひとまず窮地を糧にできたと己を慰めてはみたものの。
ガサリ。
と茂みが揺れれば周りが聞こえなくなるほど心臓が大きく鼓動を始める。
悲鳴をあげないだけ成長したと言えるだろう。まあ、出なかっただけかもしれないけれど。
「とりあえず密林を出よう」
優先すべきは安全の確保。とはいえ魔物へ対抗する術を持たないアイリスに取れる最良の手段は、襲われる前に脱出することだ。
――よし。
意気込んで辺りを見回す。
木。樹。草。花。葉。
――どこから来たっけ。
人の背を見失うほど注意散漫であったアイリスが、来た道を戻れるはずもなかった。
いよいよどうしようと頭を抱えるアイリスは妙案を思いついた。
そう、密林の植物に目移りしながら来たのなら、記憶を辿って見た順とは逆に進めば帰れるのではないか。
最後に見たのは、ええと。
「月見草だ」
昼間は蕾のままで、夜になると白い花を咲かせる魔導植物だ。
魔力の素である魔素を蓄える習性があり、魔素を地表へ落とす月へ常に花を向けることからその名がついた。
そのまま食めば魔素を効率良く吸収できるので、魔術を頻繁に使用する魔術師や治癒術師が旅には必ず携帯する代物だ。
アイリスは空を仰ぐ。
月見草は珍しい花ではない。なにせアイリスの村にも生えていたくらい繁殖力が高く、月明かりが届くならどこでも自生する。
裏を返せば月光差し込まぬ土地には生えないので、空を木々が覆う密林においては植生場所は限られる。
そうして薄暗い木々の天井を見上げていると、風に揺られて僅かに木漏れ日が差し込んだ。
「あのあたりかな」
目星をつけてアイリスは歩き出す。
見込み通り木漏れ日に照らされて月見草は生えていた。
――よし。次だ。
月見草の前に見たのはネンチャク蔦。これは魔導植物ではなく一般の、食肉植物の一種だ。
本体は樹木へ絡み、蔦を地面へ伸ばして小動物や小型の魔物が自身を踏むのを待つ。踏んだ瞬間吸着性の高い粘液が分泌されて獲物を捉える。そして抵抗しようと暴れた獲物がのたうち回ると、あたりに巡らされた他の蔦に絡まり、完全に動けなくなったところをあとは朽ちるまで養分にされてしまう。
ネンチャク蔦に関してはその習性の面白さと危険性で記憶していた。
とはいえ吸着性が高いと言っても一本なら小動物でも引き剥がせるし、人間なら子供でも二、三本までは剥がせる。
危険なのはあくまで多数に絡められてしまった場合だ。特に力が入らない体勢で拘束されると大の男でも助からないとされている。
探すなら視線は樹木へ纏わりつくネンチャク蔦の本体。気をつけるべきは足元と言ったところか。
月見草を軸に円を描くようにしてアイリスは周囲を見て回る。
そう時間はかからずに、アイリスはネンチャク蔦を見つけた。
樹木へ纏わりつく蔦とコブ。
アイリスは足元の蔦を踏まないよう気をつけながら接近する。
その背を影が急襲した。
大地を蹴る軽い足音。気づいた時にはすでに敵の領域だった。
ネンチャク蔦を探すのに注意を割き過ぎた。そして相手が狡猾でもあった。
「っ!」
襲撃に気付いたアイリスは頭を抱えてしゃがんだ。訪れる痛みに覚悟して目を瞑る、が。
中々その時は訪れず、代わりにガサガサと妙な音がこだましていた。
顔を上げて見やるとネンチャク蔦に絡まる小人のような獣がいた。
「ネンチャク蔦を踏んだんだ」
おかげで助かった。幸運に助けられたのだ。
事態を飲み込み、心臓がギュッと縮み上がる。
幸運がなければ魔物に殺されていた。
そして獣の側には鉈が転がっていた。
その錆び付いた刃には見覚えがある。
「これって、盗賊が持っていた……」
餌が転がっていれば密林の魔物が見逃さない――マルセルの言葉を思い出す。
盗賊は殺されたのだ。毛むくじゃらの魔物によって。そして武器を奪われた。
弱肉強食の世界。アイリスが太刀打ちできなかった盗賊ですら狩られてしまったという現実が、身体を震わせる。
少しばかり平和な毎日だったからと、すっかり気が抜けていた。
村の外に出れば自分は捕食される立場なのだ。喰われないためには逃げて、隠れて、それでもダメなら戦うしかない。
――できるの? 私に。
自問してアイリスは覚悟を決める。やるしかないのだ。手段は問わずに頭を回して。そのために、
「まずはトドメを」
アイリスは腰のポーチからダガーを抜いて魔物へ歩み寄る。
父の遺品をこのような形で使うことになるとは。けれどダガーとはそもそも武器であり、命を狩るための道具だ。腰に提げて飾るものではない。
――でも本当に殺すべきなの? 動けないなら放っておいても別に良いのでは。
「迷っちゃだめだ」
蔦から逃れれば魔物はきっと匂いを追ってアイリスに牙を向くだろう。
今だって蔦から逃れようと必死だ。危険の芽は摘むべきなのだ。
アイリスはダガーを固く握り締め、もがく魔物の胸部へ振り下ろした。
「gyi!」
魔物が悲鳴を上げる。
ダガーは刺さった。けれど絶命させるには浅い。
――思っていたよりもずっと硬い。もっと深く……!
体重をかけ、刃を動かしながら奥へと深く刺し込む。
赤黒い血がアイリスの頬まで飛び散り、刃が沈むにつれて魔物の絶叫が鼓膜を
やがて抵抗が弱まり、悲鳴が薄れる。ドクドクと流れる血も減ってきて、己が手の内で命が萎れゆくのがわかる。
――早く。早く。
アイリスの心境を占めるのは嫌悪からくる焦燥だった。
血と臓腑の臭いを嗅ぎながら手を血に染める。必要な行いだと言い聞かせ、理解してなお耐え難い。
そしていよいよ魔物が事切れる。
アイリスはダガーを抜き取ると、赤黒い血で染まった手を呆然と眺める。
正当防衛だ。襲われたからやり返した。自分の命を守るために殺しただけだ。
言い聞かせても手の震えが止まらない。
ふと魔物を見やる。
助けを求めて泣いたのか。憎悪を呪詛に変えて吐いたのか。だらしなく開いた口からはダラリと舌が溢れていた。
「何が違うんだろう」
憎しみも怒りも抱かず、淡々と生きるために殺す。生きたいという欲望のために殺した。
自分を襲った盗賊と果たして何が違うのだろうか。
魔物だから良いのか? 自ら襲っていないから良いのか? 襲われたから殺して良いのか? 自分を守るためなら、殺して良いのか?
生きていれば少なからず命を奪う。食卓に並ぶ肉も薬に調合する植物も元は命だ。誰かが代わりを務めているだけなのだ。
命を奪って生きている。当たり前のことだ。当たり前なのに戸惑っている。割り切れないでいた。
「おや、もしやと思ったが来て正解だったようだな」
不意に声がして振り返る。
紺色の上等なローブに身を包む、変わらぬ姿のマルセルがそこにいた。
「あ、と」
呂律が回らない。
勝手に涙が溢れて止まらない。
アイリスは両手を広げてマルセルの方へ駆け出し、
「汚い手で触るな汚れる」
頭を掴まれ遠ざけられるのだった。
「怖かったんだから少しくらい許してよぉ!」
叫ぶアイリスへマルセルは文字通りに汚物を見るような眼差しで返す。
「その血塗れの手で触れてみろ。密林へ一生暮らせと命じるぞ」
ぴゃい、とアイリスは飛び退く。
密林に暮らせなど死も同然。命令に反すれば黒翼の紋で死ぬ羽目になる。
効果絶大な牽制にアイリスは唇を噛み、唸ることしかできなくなった。
「まったく。まあ僕も今回は思い違いをしていたからな。きみをひとりにするべきではなかった」
「そうですよ! 置いていくなんて酷いと思います」
「何を言っているんだ? 僕が言いたいのはあくまで債権であるきみが死ねば回収予定の金が減るから損を被るという話だ。今後過度な自由は与えず、そうだな。いっそフィールドワークの際には首輪でもつけるか?」
金。金。金。
二言目にはそればかり。少しばかり心配してくれたって良いではないか。
だいたい首輪とはなんだ。ペットではないのだぞ。
憤慨したくなる気持ちを抑え、アイリスは吐息した。
「なんだそのため息は」
「なんでもないです。ないですよ」
「きみには今後密林で暮らすことを命じ「わー!」うるさいやつだな」
「すみませんでした。密林暮らしは許してください」
アイリスはら叫び散らして強引に命令を止めた。
密林を出たいと考えても心臓は傷まない。強引な手法で誤魔化せるとは驚きだ。元よりマルセルにその気がなかっただけかもしれないけれど。
「まあいい。で、殺したコボルトから魔石は取ったのか」
「コボルト? 魔石?」
「きみが殺したのはコボルトという魔物だ。その口ぶりだと魔石が何なのかも知らないようだな」
「魔物から魔石が取れるのですか?」
「不勉強だな。魔石は生物からしか取れない。吸収した魔素を魔力へ変換して貯蓄しておく臓器――魔臓が死後結晶化したものを魔石と呼ぶんだ」
「……知りませんでした」
本当に知らないだけ、見ていないだけで日常には生物の死が溢れている。
数多の命を奪って生活が成り立っているのだと再認識させられる。
マルセルはコボルトへ向けて顎をしゃくる。
「知るためにも取っておけ。低純度で用立てられる物ではないが殺した意味にはなる」
意味。
その二文字をアイリスは頭の中で反芻する。
食わねば生きられないから殺して肉を取る。寒さを凌ぐために毛皮を剥ぐ。薬に必要だから植物を摘む。魔石を取るために魔物を殺す。
意味のある殺し。方便かもしれないけれど、言い訳を並べるよりはまだ納得できた。
コボルトへ歩み寄り、アイリスは膝をつく。
「魔臓はどの辺りにありますか」
「大概は左胸。心臓の隣だ。大きさはコボルトならそうだな、指の第一関節程度くらいだろう」
傷は心臓を狙って刺したので、改めて刺し開く必要はない。
しかし思ったよりもずっと小さい。
意を決してアイリスはコボルトの傷口に手を突っ込んだ。
すでに体温が抜け始めているが死後硬直はまだのようだ。
肉を掻き分け魔臓を探す。不意にチクリと指先に固いものが触れた。
――きっとこれだ。
指先で摘み、そのまま引き抜いた。
赤黒い血に塗れながらも鋭く光る魔石。毛むくじゃらの魔物から取れたとは思えぬ輝きに、アイリスは言葉を失う。
「やはり魔石として使えないな。その程度の大きさでは人間が込める魔力には耐えられないだろう」
マルセルの言葉にアイリスは首を振る。
「使いますよ。必ず」
「好きにしろ。どのみちそれは、きみのものだ」
魔石として使えなければ売ったとしても値段は付かないだろう。
しかしアイリスにとっては初めてのフィールドワークで初めて手にした貴重な収集物だ。
経験と戒め。金を積んでも買えない価値の証。
――ネックレスかブレスレットにするって言ったら、どんな顔をするかな。
たぶん苦笑して、いや苦笑するだけだろう。
アイリスは魔石を握り締め、少しだけ口元を綻ばせた。
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