雑記、それを綴る
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
ざっき、それをつづる
雨の中を歩くのが好き。
それも音を遮断するほど、足元の靴が靴下と一緒にグショグショとなり、衣服さえもじっとりと濡れてしまうほど。
そして体の芯までじっとりと濡れてしまうほど。
短い髪を濡らし、化粧のない素顔を濡らし、道路の上の水たまりをあえて踏む。
上からも下からも中からも濡れて、重力には逆らえないから滴り落ちる。
私の熱を帯びながら。
歩んで、歩んで、跳ねて、跳ねて、濡れて、濡れて、滴って、滴って、堕ちる。
表通りの人々は汚れを纏う美しさ。
裏通りの人々は穢れを纏う美しさ。
歩いている狭路は、雨に濡れた狭路は、その境界線なのだろう。
大規模都市ではなく、小規模都市でもなく、中規模都市でもない。そんな街の駅の地下にその店はある。地上は令和であるのに、地下は昭和が屋敷を構えて、そのひと部屋を平成が借りている。
そんな店。
ヤニで変色した天井と壁紙、使い込まれた木製のテーブルセット、カウンターは磨かれて光っている癖に、レジと厨房を隔てる小さな木戸は四方をボロボロにして時代を鳴らす。
そんな店内。
間借りしている平成がタトゥーを入れた腕を見せながら、珈琲を淹れて、酒を注ぎ、煙草を吹かして歩き回り、最近まで切り盛りしていた昭和は、2人揃って写真の中に収まって、傾いたフォトフレームでエアコンの風に揺れる。
そんな店員。
この店を見つけたのは手元にある令和で、デジタルの世界に「飲食店」と打ち込むと、表示された飲食店を片っ端から調べ上げて、現代から程遠い場所を見つけ出したのだ。
そんな人達が足繁く通うのが、「雑記」という所だ。
『煙草?フリー、飲酒?フリー、ドラック?サヨナラ』
壁に錆びた画鋲で打ち付けられた、端々が繊細なほど傷み、醜い裂け目にセロファンテープが貼られた標語。
この三原則さえ守っていれば、何をしても良い、店内にいる訳の分からない人種、いや、生き物は、雑記の檻の中で、動物のように思い思いに過ごしていた。
電子煙草は禁止されている。
火を使わない煙草は煙草でないと、平成の店主がモノと一緒に投げ捨てながら吐き捨てていた。機械は足元の汚い床で壊れて廃になった。
「ニシキ ベサン、珈琲いる?」
「いる、まずいの頂戴」
「いつも飲んでるでしょ?」
「逆を言ったら出てくるかと思って」
「これなら万民に受けるけど、どう?」
「缶珈琲は勘弁、不味いのでいい」
「とびっきりのを入れるわ」
店の奥まったところにあるテーブルに座った私は、先程まで書いていた詩を保存した。ディスプレイと機械が一緒くたになったこのタブレットは、世界と、電子の世界とを繋いでくれる。
そして声をかけてきたマスターの平成女と言葉を交わして机の上に現れた、とびっきりのうまい珈琲を口にする。
良薬は口に苦し。
冴え渡る不味さで、思考回路は正しく戻った。
錦部というのが私の姓だけれど、平成女は「ニシキ ベ」+「サン」と呼ぶ。
初めて店を訪れて、昭和女に薦められ、この席に腰を下ろし、昭和男の先代から店の成り立ちと今までの苦労話を小1時間ほど諭された。
私は真剣に聞くふりをして、いい加減な1時間を過ごし、入店テストに見事合格した。そういえば、許される基準は何か尋ねた事がある。
「いい加減に聞くこと、いいかげん、ではなく、いい加減にね」
冗談かと思ったが昭和連中の目は真剣だったから事実なのだろう。ふだんから万事のいつもどおりなのが幸いしたことは確かだ。
ポケットから祖父の遺品であるシガーケースを取り出してピースライトを口に咥えると、カウンターの平成女が駆け寄ってきて、口に咥えているショートホープの赤く燃える先を差し出してきた。
「ん」
「ん」
シガーキス。
ピースライトの先に火が燃え移るまで、肌艶のよく濁りのない美しい瞳があった。
見慣れた瞳、数多くの表情を持つ瞳、その中に映る私の瞳。
出会いはとても陳腐で書いたって面白くもない。
泥だらけで打ち捨てられた子猫を、高架下の側溝から拾い上げて飼い猫にした。そんなものだ。何もしならなかった子猫に、餌の食べ方と、下の始末と、女の抱き方を教え込んで、大人にした。
いや、抱き方ではなく、癒し方を教え込んだ。
子猫は乱暴な世界に産み落とされて、目を背けたくなるような現実と、喉から手が出るほどの虚構に苛まれ、堕ちていた。
人間にしろ、物にしろ、簡単に堕ちる。負の重力と呪力には人間は太刀打ちできない。
天から生まれて地に眠るとはよく言ったものだと思う。
その不条理は恨み辛みとなってこの世界に満ちてゆく。誰かが堕ちて、その次の奴がもっと堕ちて、不幸の差がどんどん開いていくことが我慢できなくなると仕事が来る。
地に眠らせる仕事、それが私の仕事。
人を撃ってなんぼの職業、さよならの番人。
タブレットが告げる、お仕事の時間だよと、お仕事が始まるよと。
「いってらっしゃい」
レジで会計を済ませると平成女がそう言って素敵な笑顔で見送ってくれた。木製の歪み激しい木扉を開き後手を振って店を出る。
そして過去から抜け出して、現在を歩き回り、誰かの未来を奪って、再び過去に帰り着く。平成女の「おかえり」が、狂った思考回路を、正しい思考回路に戻してゆく。私の膨らみよりも大きくて、とっても柔らかな乳房を味わって、優しい身体に抱かれ癒されて、私は汚れを忘れ、穢れを忘れ、ただ安らかな眠りにつく。
この店はずいぶん前に忘れてしまった「ふるさと」で、平成女はずいぶん前に忘れてしまった家族なのだろう。
足枷ができてしまった気がした。
この仕事も潮時なのだろう。
さて、最後の仕事を終えたなら、いつものように帰りつき、くだらない雑記を書き留めて、ゆっくり過ごすことにしよう。
雑記、それを綴る 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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