2.初めての打ち合わせ

 彼女との待ち合わせ時間の少し前に、祖父からメールの返信が届いた。


のぼりさんと再会し、の記憶が戻って本当に良かった。あの別荘は真理乃にあげたようなものだし、気にせずいつでも好きに使うといい。例の一件以来、鍵は交換して私がしっかりと保管しているからまた今度、会う時に渡します。他に私が協力できる事があれば、遠慮なんかせずに何でも言いなさい。私は二人の幸せを心から願っているよ』


 最後の一文を読んだ瞬間、視界が滲んだ。アタシは慌てて目元をティッシュで拭ってから、メールの返事を打ち始める。


『おじいちゃん、ありがとう。いつも迷惑かけてごめんなさい。鍵の受け取りの件、アタシはいつでも大丈夫なので、おじいちゃんのスケジュールが空いている時にまた連絡してください。よろしくお願いします。追伸。今度おじいちゃんが出演する映画、とうちゃんと一緒に観に行くね』

 そのメールを送信した瞬間、インターフォンが鳴る。画面を見ると、彼女が映っていた。


 アタシは彼女を部屋に招き入れた後、「ここに座って」と丸座布団を指さす。


「藤佳ちゃん、記録用に打ち合わせの様子も撮影していい?」

 アタシは小さな白いテーブルを挟んで、彼女の正面に座りながら問いかける。

「えぇ、構わないわ」

「ありがとう。少しだけ待ってね」

 彼女から許可を得るとアタシは早速、撮影準備を始めた。テーブルに置いていた撮影用スマホスタンドにスマホを固定し、カメラを起動して画面を覗き込む。


「あら、スマホで撮影するのね?」

 細い黒縁の丸眼鏡を取り出してかけた彼女が、艶っぽい笑みを浮かべる。画面越しでも彼女と目が合うと、アタシはドギマギしてしまう。

「うん。卒業制作もスマホで撮影する予定だから……。卒業制作の内容的に、その方がいいかなと思って」

「そうなのね」


 アタシはドキドキしたまま彼女の言葉に頷きつつ、スマホスタンドの高さを微調整する。その間、彼女はずっとこっちを見つめたまま、にこやかにヒラヒラと手を振り続ける。アタシはそんな彼女につい見惚れてしまうが、直ぐにハッとしてビデオモードに切り替え、録画ボタンを押す。


「これでよし。藤佳ちゃん、お待たせしました。それじゃあ、今から打ち合わせを始めるね」

「その前に一つ良いかしら?」

「うん。どうしたの?」

「記録用の撮影なら最初に二人共、名前と学科、学年を言っておくのはどうかしら? もしかしたら後々、何かの役に立つかもしれないし」

「確かに……それいいかもね。じゃあ、藤佳ちゃんからお願いしてもいい?」

「えぇ。分かったわ」

 彼女は座り直して姿勢を正すと、ペコリと軽く一礼してから口を開く。


「私は昇藤佳。あざみ芸術大学の美術学科に所属。今はまだ三年生だけど、もうすぐ四年生になるわ」

「撮影しているのは真理乃です。藤佳ちゃんと同じ大学の映像学科に所属しています。学年も歳も藤佳ちゃんと同じです」


 自己紹介の後、アタシは一拍置いてから「それじゃあ、今度こそ打ち合わせを始めるね」と言って会釈する。


「藤佳ちゃん、まずは改めてお礼と謝罪をさせてください。アタシの卒業制作に協力すると言ってくれてありがとう。それから、昨日は無断で撮影して本当にごめんなさい」

 アタシはそう言った後、深々と頭を下げた。それから昨日の事を思い出し、ますます申し訳ない気持ちになる。


 履修していた授業の学年末試験が終わり、もうすぐ春休みが始まると言うのに、アタシはまだ卒業制作の案すら浮かんでいなかった。数日間は家でじっくり考えていたけど、何も思いつかない。そこで歩き回っていた方が何か浮かぶかもしれないと考え、昨日は家を飛び出し、大学内を撮影していた。


 そしたらアートホールで本を読んでいる彼女を見つけて目を奪われ、無断で撮影してしまう。そして目が合った瞬間、失っていた記憶を全て取り戻すと同時に、彼女を主役にした物語を撮りたくなった。


「ふふっ……卒業制作の誘いは嬉しいし、真理乃にならどれだけ無断で撮影されても私は構わないわ。だから顔を上げて?」

「うん……ありがとう」

 言われた通り顔を上げると、彼女はあの頃の……昨日、取り戻した記憶のままの優しい表情で笑っていて少し安心した。けれどもその次の瞬間、アタシは罪悪感に襲われ、俯いてしまう。


「真理乃? どうかした?」

「藤佳ちゃん、ごめんね。ずっと思い出せなくて……本当にごめんなさい」

 アタシは真っすぐ彼女の瞳を見つめたまま、ただ謝る事しかできない。

「真理乃は何も悪くないのだから謝らないで?」

 彼女は少し困ったような顔で身を乗り出し、アタシの頬をそっと撫でた。


「でも……アタシは、大好きな藤佳ちゃんの存在を忘れたまま、淡々と過ごしていた自分自身を許せない。その上、再会してすぐに、こんなアタシのワガママにまで付き合わせてしまって……」

「それは違うわ。だって私にも関係がある事だもの。それに真理乃の為なら、私はどんな事だって協力したいと思ってる。独学で勉強していたとは言え、演技に関してはほぼ素人で頼りないかもしれないけど……」


 彼女は僅かに眉毛を八の字にして、アタシの頬に優しく触れたまま、真っすぐ瞳を見つめてくる。アタシはその手に自分のを重ねて、ぎゅっと握り締める。


「本当にありがとう。演技の事なら全然、心配していないよ。藤佳ちゃんなら大丈夫って信じてるし、現段階ではそもそもあまり演技はしなさそうだから」

「あら、そうなの?」

「うん。昨日の今日だから完全には固まっていないけど……これを読んでみてくれるかな?」

 そう言いながらアタシは彼女の手を離した。すると彼女も、アタシの頬から手を離して、ゆっくりと座った。


 アタシはクリアファイルから一枚の紙を取り出し、彼女に渡した。彼女は紙を手に取ると、真剣な表情で文字を目で追い始める。その美しい顔を、アタシは緊張気味に見つめる。


「ふふっ……とても良いと思うわ。それにしても、随分と思い切った事をするのね。真理乃がこんな……まるで告発みたいな案を考えるなんて思わなかったわ」

「やっぱり……こんなのダメ、かな……?」

「あら、私は『とても良い』と言ったじゃない」

「でも、藤佳ちゃんにも迷惑かけるかもしれないし、また傷つけてしまうかもしれない。だから……」

「ねぇ、真理乃」


 覚悟を決めた筈なのに。いや……本当は、彼女を巻き込む事に関してはまだ、覚悟できていなかったようだ。だからこうやって、冷静に彼女と向き合うと、迷いが生じてしまう。


 アタシはそんな事を考えながら言葉を発し、やっぱり彼女を巻き込まない方向で話を進めようとした。けれど、そんな考えを見抜いたのか、彼女は言葉を遮るようにアタシの名前を呼んだ。


 漆黒の瞳が、アタシを真っすぐ見つめる。彼女はゆっくりと手を伸ばし、机の上に置いていたアタシの右手にそっと触れる。その後、指を絡めて軽く力を入れ、アタシの手を優しく握ってくれた。


「そんなに罪悪感があるなら……私のお願いも聞いてくれる?」

 彼女はふわりと微笑み、小首を傾げる。まるで幼い子どものような表情と仕草に、アタシは愛おしさを感じながらはっきりと頷く。


「何でも言って。藤佳ちゃんのお願いなら、アタシも何だってするよ」

「ふふっ……ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて一つだけお願い。できれば私のアイデアも組み込んでほしいの。真理乃の卒業制作に」

「え……そんな事で良いの……?」

「『そんな事』じゃないわ。その道のプロの意見なら兎も角、素人が自分のアイデアを作品に組み込んでほしいと口にするなんて……。本来なら、烏滸がましい事だもの」


 そう言った彼女の、真剣且つ少し妖艶な表情にアタシは見惚れてしまうが、すぐにハッと我に返る。

「そう、だよね……。でも、藤佳ちゃんだから良いの。それにこれはアタシ達の物語だから……聞かせて? 藤佳ちゃんのアイデアを」


 アタシも真剣に自分の想いを伝えると、彼女は少しホッとしたような顔をした。その後、悪戯っぽい笑みを浮かべると、ナイショ話をするみたいに「あのね」と囁いた。

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