篠原くんと囲碁部部長の棚橋くん①ー2
耳馴染のない入室の挨拶に、一瞬思考がつまりを起こす。
堀の深く、それでいてキリっとした顔つきの好青年が現れた。部室内を見渡し、大きく見開かれてた眼をぼくに合わせた途端、闊歩するように数歩で距離を詰めてくる。
「囲碁部の部長とお見受けします」
「は、はぁ。そうですけど」
こちらがどうぞと言う暇もなく、あらかじめ入部希望者のためにおいておいた椅子に腰を下ろし机を隔ててふたり向かい合う形となった。こうして真正面から向き合うと、彼の非常に整った顔立ちに思わず視線は胸元に下がり、校章の色が緑色なことから一年生だと判明する。まさかの年下だった。
「えっと、一年生だよね。囲碁部を見学しにきてくれたのかな」
「見学……。たしかに見学も兼ねていますが、本題は別にあります」
彼はブレザーのポケットから四つ折りになった紙を机に広げた。綺麗な十文字のしわが刻まれた紙には『入部届』の文字が見て取れ、なんだ新入部員か、とりあえず廃部は免れたと安心しかけたのも束の間、その下に記入された『部活名』に目を奪われる。
いくら囲碁に深い思い入れがなくとも、そこにある文字が『囲碁』ではなく『将棋』と書かれていることはすぐにわかった。
「えっと、これ間違えてないかな? ここは囲碁部の部室だよ。それに名前の欄が未記入だけど」
「いいえ、合っています。これは将棋部への入部届で、氏名の欄に名前を記入するのはおれではなく、先輩です」
嫌な予感がした。
それも久しぶりに感じる、居留守を使って家に立て籠ろうとしたときと同じ、その後の結末が絵に描いたように現実化する、あの感じに。
「悪いけど、ぼくは将棋に興味なんてないから」
別に囲碁に興味があるかといわれれば、小さじひとすくい分ぐらいの差しかないけれど。
「そもそもなんで二年生のぼくを勧誘するの? クラスメイトは?」
「全員断られました」
一応、誘ってはみたのか。
「まあ囲碁や将棋なんてお年寄りが余生でやるものだし、断られるのも無理ないか。じゃあきみは」
「篠原です」
「篠原くんがぼくを誘ったのは、囲碁やっているなら将棋もできるだろうって踏んだからなのかな?」
「いいえ、違います。打てるのならそれに越したことはありませんが、おれが求めているのは『将棋部』という名の看板と部室です」
彼はポケットからスマホを取り出すと、小学二年生くらいの男の子と黒と白の八割れ猫が写っている画像を開いて見せてきた。
「これは最近縁があって知り合ったご家族の息子さんです。たしか今年で十歳になると言っていました」
この男の子と将棋部のことに一体どんな繋がりがあるのか理解できず、「へぇ」と気の抜けた返事が漏れ出てしまう。ぼくが画像を確認したのを見て、篠原はスマホの画面を右にスワイプした。そこにはコンビニで売っているような卓上将棋盤に対局後と思われる駒が配置されている。圧勝か辛勝かは判断できないが、僕から見て手前の玉将が逃げ場なく今にも制圧されかかっている。
「これはつい最近打った一局です。五十六手で終局でした」
彼のいう手数が早いのか遅いのかよくわからず、また「へぇ」と返す。
「今の小学生は頭がいいんだね。ぱっと見でもちゃんと意図があって駒を動かしているのが解るし、結構競ってる感じがする」
「はい。あと一歩のところでおれが読み間違え、そこから突き崩されるように最後はあっけなく投了です」
「そっかそっか、そこは囲碁も将棋も同じかもね。一手の読み間違いが取り返しのつかない失態に繋がって、そのまま呆気なく……」
あれ、ちょっと待て。いま、おれが、って言わなかったか?
「もしかしてこっちの玉将が、篠原くん?」
「はい」と言った彼の眉間は、クシャっと丸めた紙くずみたく皺が寄っており、敗戦の悔しさがありありと滲み出ている。
まさか敗北しているとは思わなかった。扇子を持てば若手棋士の有段者といっても差し支えない風貌なのに、見かけ倒しもいいところだ。
「え、じゃあもしかして将棋部を創りたい理由って」
「武者修行のためです。ここに将棋部の看板を掲げておけば学校中の猛者が募ってやってくるでしょう。もしかしたら顧問になってくれる先生のなかに有段者の方がいらっしゃるかもしれない。そこで指導を受けながら対局し、いつか健斗くんにリベンジを果たす。それがおれの目論見です」
目論みという言葉がなんとも似合わない真剣な顔つきで、筋は通した、とどこか清々した顔をしている。嘘がつけなさそうというか、潔癖そうな彼にはかりごとを企てる素質はないように感じた。そこは見掛け通りだった。
「そんな小学生相手に本気にならなくても」と言うと、篠原は堀の深い顔に皺を寄せて目尻をわずかに吊り上げた。
「一対一の真剣勝負に小学生かどうかは関係ありません。相手が年下だろうと年上だろうと、勝負を挑む側でも受ける側でも、それが勝負事であるならば真剣に挑まねば相手に失礼です」
強く、揺るぎない意思をそのまま表出させるように、彼は胸の奥から言葉を発するように言った。その言葉に嘘がないことは彼の眼を見ればすぐにわかった。菅にいと同じ目をしていた。
「ということで最初のたのもうに戻ります」と、彼は机の上の入部届に手をやり、書いてくれと催促するように押し出してきた。ぼくは、いや、と言って紙を押し戻す。
「理由はわかったし、個人的には健斗くんへのリベンジ頑張ってって思うけど、それで部を明け渡すのは無理があるよ」
「勿論、先輩にもメリットはあります。先輩の所属する囲碁部は三年生が卒業したことで部員が減り、今は先輩だけで活動していますよね」、そう言って彼は不敵に笑みを漏らす。その口調から察するに、あらかじめうちの部の現状はリサーチ済みのようだった。
「なるほどね。つまり篠原くんという部員を確保する代わりに、ぼくの部室と囲碁部という肩書を下ろせというわけか」
「先輩は今まで通り囲碁を打っていてもらって構いません。ただここを将棋部という看板を掲げて欲しいんです。なんなら『囲碁・将棋部』という名称にしても構いません」
お願いします、と頭を下げられた。真剣だと訴える彼の誠意を軽くあしらってしまうのもかわいそうと、少しだけ情が移ってしまう。
彼の条件は確かに魅力的だ。こちらが損をするわけでもない。ぼくだけじゃ残せなかったであろう囲碁部を、形は変われど残していくことができる。会社がM&Aして名前が変わっても、その実作業にさほど変化がないようなものなのかもしれない。
ぼくは入部届を手にしていた。
囲碁・将棋部、それならいいのかもと思い、返事のかわりに氏名欄を書こうとして手が止まる。
『後輩とは仲良くやれよ』の言葉が、机上名札の文字と共に菅にいの声でリピートする。
悪い菅にい。後輩は、やっぱりできそうにないや。
「悪いね篠原くん。ぼくは『囲碁部 部長 棚橋和仁』だから」と、机上名札を掲げて見せて宣言した。我ながら柄にもなくくさいセリフだなと、自分でも気づかないうちに菅にいの影響を受けてしまっているのだと自覚する。
「……そうですか、やはりこういう結果になりましたか。ならば仕方ありません」と入部届をしまったので、自分あっさりと引き下がるなと思いきや、彼は鞄の中から画像でみたものと同じ卓上将棋盤を取り出した。
「勝負といきましょう。おれが勝ったらここを将棋部にして先輩にも入部してもらいます。先輩が勝ったらおれが囲碁部に入部して、こっそり将棋部の部員勧誘の場に使わせてもらいます」
「まってまって、そもそも勝負方法が将棋なのはアンフェアだし、いまちゃっかり囲碁部を誘致所に使うっていったよね」
「わかっています。将棋だけでは先輩が不利ですから、将棋のあとは囲碁でも勝負をします」
「え、篠原くん囲碁できるの?」
「漫画で読んだことがあります。要は陣取りゲーム、やったことはありませんが知識はあります」
ぼくは手許にあった勧誘ポスターを掲げて見せ「もしかしてこれ?」と訊くと、彼は大きく二回頷いた。
……菅にいの作った部活を受け継ぐべき人間は、本当は彼なのかもしれないとぼくは薄っすら思い始めていた。
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