それでも人間は、言葉で簡単に救われる。
帳 華乃
それでも人間は、言葉で簡単に救われる。
フィクションはあくまでフィクションで、これがノンフィクションならば、この世界でどう生きればいい。私が嫌いな人、それ以外すべての生き物が幸福であってほしい。そうなれば、この上ない絶望を、憎悪を抱いてしまった相手に味わわせられるのだろうか。
生きる意味とはなんだ、死ぬ意味とはなんだ、生も死も一体なんなのだ。私は何者なのだ。私は絶望しているのか? それとも憎悪に身を焦がしているだけなのだろうか。憎悪が何も生まないことを知っているから、本当は何もかもを憎悪などしていないのだろうか。
優しさとはなんだ、嫌悪や現実や非現実とはなんだ。優しいねとそればかりが他者からの評価で、しかし私は優しくなどない。性善説を信じられなくなった浅ましい人間だ。
誰を信じればいい、何を信じればいい、誰を疑い何を疑えばいい。これが胡蝶の夢だと信じることができたなら、世界五分前仮説を信じられたなら、私の見てきた、抱いてきた苦しみのすべては報われるのか?
私がスワンプマンで、本当は何も経験しておらず、ただの記憶の残骸でしかないとしたら。憎悪を、怒りを、嫌悪を、直視したくないからと思考実験について思いを馳せる。それは優しい人間とは程遠い、ただ醜悪な責任転嫁の生き物ではないのか。自分を信じられずにいる、それは善なのだろうか。
善が信じることならば、私は悪だろう。かつて己は必要悪だと宥めて死を選ぼうとしたことを、数年越しに思い出す。善も悪もわからない、己が何かわからない。現実を見つめられない人間は善か、悪か?
優しさとは善か。疑うことは悪か。私は善か。それとも悪か。現実は善と悪のどちらもを内包していて、マーブル模様になっている。しかしながら、憎しみを知ってしまった私は善ではないかと、どこかで思う。憎しみが善を生んだことはないと知っている。と、同時に憎しみが、酷く人間的な感情だと感じる。人とは、なんだ。
私は命を軽視しているのか。己の命を軽視したことは幾度もあるが、他者の命を軽視したことはないと信じていたが、それは真実だろうか。己の命を軽視する人間が、他者を愛するなどありえるのだろうか。
あまりにも私は未熟で、知っていることなどとても少ないだろう。その未熟さを盾に生きているのだろうか。成熟も未熟も最早わからない。
すべてを知り、すべてを理解するには短い半生だ。生涯を賭してもきっと理解はできないだろう。それでもそれに祈りをかけるのは、浅はかだろうか。疑念ばかりを抱くには、浅はかだろうか。
他者の命を軽視したことなどないと、言い切りたいほどには慈愛を抱いているつもりだった。それを疑いたくなる。憎悪が全てをぶち壊していく。憎悪が破壊的だと知ってしまったのだ。
それでも人間は、言葉で簡単に救われる。
それでも人間は、言葉で簡単に救われる。 帳 華乃 @hana-memo
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