私を生きる
瞬遥
プロローグ
天鏡湖は、どこまでも広く、どこまでも静かだった。
風が吹くと水面にさざ波が立ち、それが岸辺の石をやさしく撫でる。
波の音は、ずっと昔から変わらない。
この湖がある限り、これからもずっと変わることはないのだろう。
僕――三島陽太(みしまひなた)は、そんな湖のほとりにある小さな町で生まれた。
湖畔町は、祥山県の片隅にある小さな町だ。
天鏡湖に面したこの町には、古くからの家々が並び、細い路地を進めば、昔ながらの商店や食堂がひっそりと店を構えている。
町の真ん中には湖畔小学校があって、全校生徒はたったの40人。
僕の学年には6人しかいないけれど、僕たちはみんな幼馴染みで、家族みたいに仲が良かった。
朝、学校へ向かう道すがら、湖の向こうに浮かぶ朝焼けを見上げるのが、僕は好きだった。
光を受けてきらきらと輝く水面は、まるで大きな鏡みたいだった。
「お母さんは、どんな声をしていたんだろう」
湖に映る自分の顔を眺めながら、そんなことを思うことがある。
僕の母は、僕が生まれてすぐに亡くなった。
だから、母のことを覚えていない。
写真の中のお母さんは、優しそうに微笑んでいて、父も姉の真緒も「お母さんは優しい人だった」と教えてくれた。
けれど、それはあくまで誰かが語る「お母さん」であって、僕の記憶の中にはいない。
父の貴弘は、無口であまり感情を表に出さない人だった。
朝早くから隣町にある工場へ行き、夕方になれば帰ってくる。
休みの日も家で新聞を読んだり、テレビを見たりするくらいで、僕たちと何かをすることはほとんどなかった。
でも、決して冷たいわけではなくて、夕飯の席では必ず「ちゃんと食べろ」と言うし、風邪をひけば黙って薬を用意してくれる。
姉の真緒は、母親代わりみたいなものだった。
僕より五つ年上で、いつも頼りになる存在だ。勉強も運動もできるし、近所の大人たちからの評判もいい。
でも、家ではけっこう大雑把で、「陽太、宿題やった?」「早くお風呂入りなよ」とうるさいこともある。
だけど、僕が困ったときは必ず助けてくれるから、姉がいてくれてよかったと何度も思った。
そんな町で、そんな家族と一緒に、僕は普通に暮らしていた。
普通――そう、普通のはずだった。
だけど、僕は時々「何かが違う」と思うことがあった。
その「何か」が何なのか、幼い僕にはわからなかった。
言葉にすることもできなかった。ただ、ふとした瞬間に胸がざわつくのだ。
例えば、クラスの女の子たちが可愛い髪飾りをつけているのを見たとき。
例えば、体育の時間に男の子のユニフォームを着るとき。
例えば、街で見かける女の人の仕草に、何とも言えない憧れを抱いたとき。
「なんで僕は、こんな気持ちになるんだろう」
その疑問を誰にも打ち明けることはなかった。
たとえ姉の真緒でも、友達の翔平や美月でも、何て言えばいいのかわからなかった。
ただ、湖の水面に映る自分の顔を見つめるたびに、心の奥で小さな違和感が波のように揺れていた。
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