1-2 早朝、巨大柴犬の暴走

――なぁシズ。

夢だ。夢だと分かっている。目の前に兄が――美春よしはるが居る訳が無い。なのに、夢の中の静歌しずかは小さくて、兄と再会したことを素直に喜んでいる。

『にいちゃん!』

『ハハハ、お前これ届かないだろ』

静歌が取れるか取れないかの所で、飴をゆらゆらさせる美春。意地悪で、でも暫くしたら、静歌が取れる位置まで手を下ろしてくれることを知っていたから。


 静歌は、兄がそうしてくれるのを、いつまでも待っていた――


***


 6月1日、早朝。


 「うっ……」

月路つきじ 静歌しずかは寝返りを打った。ベッドの上で、先程まで見ていた夢を反芻する。

「なんで、兄さんの夢なんか……」

もぞもぞと時計を見る。普段の起床時間より1時間半も早かった。


 二度寝を試みる。

 しかし、頭の中にはずっと、夢の中でみた兄の姿、そして記憶の中で耳に残る――兄からの最後の電話の言葉が頭から離れなかった。

 7年前の、あの「ヒネズミ事件」の夜。兄が家を抜け出した事を、いつもの夜遊びとしか思っていなかった両親は。特に母親は、兄からの電話が切れた瞬間、糸が切れたようにその場で膝をついた。

 それからの日々は――思い出したくない。静歌は枕に顔をグリグリ押し付けた。


 だめだ、二度寝なんて無理そうだ。


 窓の外を見る。白い光が差し込んでいる。

「……散歩、行くか」

 静歌は洗面所に行き、顔を洗った。タオルで顔を拭きながら、ふと鏡を見る。

 ふわふわした髪質、とろんとしたタレ目、少し肩の骨の形が目立つ体格、18歳の平均身長より少し背が高い。

 兄に似てきた、のかもしれない。自分ではよく分からないけれど。

 静歌はタオルを掛けると、両頬をパンパンと軽くはたいた。

「あんな夢、見たくなかったな」

 そして、適当な私服に着替えて外に出た。早朝とあって、寮から校舎への道も、また校舎そのものも、人の気配すら感じないほど静かだった。


 「ん?」

ふと、中庭の方から妙な音が聞こえた。角を曲がると。


 白い校舎に囲まれた中庭は、大きな広場になっている。そこで、

「うわ、わぁあっ」

巨大な柴犬が、人を乗せて走り回っていた。いや、乗っているのではない。かろうじて、首輪に捕まっている状態だ。


「え、えぇっ!? 水之崎!?」

柴犬の背中に乗っているのは、同じクラスの水之崎みずのさき 由良ゆらだった。いつもどこか自信なさげで、おどおどとした少年である。


――借物使かりものつかい。

 この世ではない別の空間に住まう生き物に呼びかけ、契りを交わし、こちら側に呼び込む力を持つ者。

 契りを交わす際の絶対必要条件は勿論、「」の筈。


 だが。

「せ、先生呼んでぇっ!」

 由良の小柄な身体は今、かろうじて巨大な柴犬の首輪にしがみついたまま、右に左にと大きく振り回されている。

 由良の飼い犬——イヌ型初級神獣のシシノスケは、背中に乗せた主の事など一切気にも留めず、コの字型の建物に囲われた中庭を楽しそうに走り回っていた。どう見ても、制御は効いていない。

 シシノスケ自身が由良に危害を加えようとしている様子は無さそう――ではあるが、もしもあの高さから振り落とされれば、由良は到底無事では済まないだろう。


――契ったはずの借物の


 状況を悟った静歌は、急いで近くの建物——食堂に飛び込み、そして入り口から叫んだ。

「あのっ! 中庭で借物が暴走してます! すぐに先生を呼んでください!」

「えぇ!?」

朝食づくりの為の作業に没頭していたのだろう、食堂のスタッフが驚きと困惑の声をあげた。スタッフの一人が作業場から出てきて外の様子を確認する。

「うわ、ホントだ! ちょっと、誰かアレ抑えられる人居ないの!?」

「無理だよあんなの! えー職員室この時間誰か居るかなぁ!」

「いいから早く行くよ!」

ダダダ、と何人かのスタッフが職員室の方へと向かう。


 静歌は中庭の方を振り返った。

 先程まではなんとか両手で首輪に捕まっていた由良だが、もう殆ど片手でしがみついている状態だった。

「間に合わない」

静歌は周りを見回した。そして、作業場の調理台の上に置いてあったブロックベーコンとリンゴを、巨大なボウルごと掴む。

「すいませんこれ貰います!」


 急ぎ、中庭に戻り、辺りを見回す。

 コの字型の建物の一角、中庭に向かってせり出した2階のベランダに目を止める。

「あれだ」

静歌は手に持ったブロックベーコンとリンゴを、ベランダの近くの地面に放り投げた。そして、最後に残ったベーコンを大きく振り上げ、すぅ、と大きく息を吸い込む。

「おーいシシノスケぇ! ほーら、ベーコンあるよ!」

そしてシシノスケの注目がこちらに向いた瞬間、静歌は大きな動作でベーコンを放った。


 シシノスケは踵を返すと、猛スピードでこちらへ走ってきた。そして背中に乗せた由良の身体がバウンドするほどの勢いで急停止し、背中を丸め、中庭の地面にばらまかれた林檎やベーコンを、美味しそうにはぐはぐと食べ始める。

「水之崎! 今の内にベランダに!」

静歌は、せり出したベランダを指さした。

「う、うんっ!」

思い切って首輪から手を放し、シシノスケの背から2階のベランダの上に飛び降りる由良。着地に失敗したのかゴロゴロとベランダの上を転がるが、すぐに飛び起きた。

「あ、ありがとうっ! あ、あぁッ! 月路くん逃げてぇ!」

由良の悲愴な声をを聞くよりも先に、シシノスケが既に静歌に狙いを定めていた。赤い目が爛々と、静歌へ標準を合わせる。


「いやいやいやもう無い、ベーコンは無いって!」


 神獣に背を向け、慌てて逃げ出そうとしたのが悪かったかもしれない。獣の本能を刺激されたシシノスケが、一瞬の跳躍で静歌の背後に迫る。

 食堂の入り口まであと数メートル。だが、巨大なシシノスケの影が自分の頭上を覆うのを、そしてハッハッという巨大な獣の吐息を、静歌は感じ取った。


――骨折、骨2本とかで済んだらいいな。


 ゆっくり流れる一瞬の中で、静歌は乾いた笑いを浮かべると、襲い来るであろう衝撃と痛みに備えギュッと目をつぶった。


 「……あれ?」

覚悟を決めた一瞬、があまりにも長すぎた。体感、既に数秒経っている。静歌はゆっくり目を開け、振り返った。


 目に入ったのは、中庭に突如現れた、巨大な白い――マシュマロだった。シシノスケの巨体が、それよりもさらに大きな4つのマシュマロに阻まれている。

 四方をヘンなモノに囲われ、シシノスケの「くぅん」という悲しそうな鳴き声が聞こえた。爪で引っ掻いたり体当たりをしようとしているようだが、巨大マシュマロはぼよんぼよんと震えるだけで、シシノスケの抵抗は意味をなさないようである。


 「なに、これ……」

 静歌が呟くのと同時に、

「ま、まにあったー!」

少年の甲高い声が聞こえた。


 静歌は声のした方——食堂の出入り口の方を見た。


 見た事のない少年だった。金色にほど近い茶髪を、高い位置でポニーテールにしている。くりくりとした吊り目が、まっすぐにシシノスケを捉えていた。

 活発そうな少年、しかも静歌と同い年ぐらいである。だが、静歌のクラスメイトにも、先輩にも後輩にも、彼のような少年は見たことがなかった。


 とはいえ。


「あ、あの、ありがとう助かった」

静歌が微笑みかける。だが、少年はギリッと静歌を睨んだ。

「お前、無謀すぎんか!?」

「え、えっ……と」

「命大事にしろよ! あんな暴走した借物相手に、生身で立ち向かおうとすんなよ! 能力者ならなんかあるだろ!? 肉体強化するとか、自分の借物ぶつけるとか、封印術使うとかさぁ! なんで生身でエサ投げるだけなんだよ! 大けがするぞ!? 命! 大事に! しろ!」

「そ、それはまあ出来たらやってるけど」

「じゃあ使えよ能力! こういう時に出せないようじゃ、実戦で使えないんだぞ!」

激昂する少年。一方静歌は、飲み込めなかった状況が少しずつ飲みこめてきていた。

「あ、あー……ごめん、ハハ……えっとね、一つ聞きたいんだけど」

「なんだよ!」

「キミ、もしかして転校生?」

「え、何? そうだけど」

「そっかぁ、だよなぁ。いや、この学校で今更俺の事知らない人珍しいから……」

「んぁ? どういう事だよ」


 4月にこの「異能者育成学校」に入学してから、2か月。静歌は、もう言い慣れてしまったセリフを口にした。


「俺ね、んだよ。だから――うん、ホントにね、ただの生身の人間なんだ」


 少年がポカンと口を開ける。

「能力……無い!?」

「ハハハ、無いんだよねぇこれが」

静歌はあっけらかんと応じた。


 その時。ふと、安堵感と疲れからだろうか。静歌の脳内に、過去に言われた兄の声がよぎった。


――大丈夫だよ。お前もいつかはスゲー能力が開花するって。な。ははは。



<続>

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