【全39話】ウタマトイは、君を見守る

二八 鯉市(にはち りいち)

1章 異例の新入生と転校生、そして巨大柴犬の暴走

1-1 7年前

 あ、もしもし?

 母さん。うん。……あのさ、父さんも居る? よかった、スピーカーにしてくれる? うん、ありがとう。


 あのさ、俺今、現場に来てる。

 うん、ヒネズミが目の前に居るよ。はは、まだ全然遠いところに立ってるのに、色々燃えててすっげぇ熱いわ。


 ……俺さ、止めようと思うよ、アイツ。ヒネズミ、止めようと思う。

 うん、ごめん。ちょっと話聞いて。実はもう、日野先生には電話で話通してある。あ、でも先生の事責めないでほしい。全部俺が考えた事だし、先生さ、めちゃくちゃ反対してたから。


 父さん、母さん。

 俺、本当に今までバカだったよ。二人にどんだけ迷惑かけたか分かんないし、ホントどんだけバカだったか分かんない。

 だからさ、今回のも俺が本当にバカだからやったってコトで、許してほしい。ほんと、最期までバカでごめんな。


 俺、父さんと母さんの子どもに生まれて、本当に幸せだったよ。

 ほんと、それだけ伝えたかった。

 父さんと母さんにだけは知っといて欲しかったんだ。俺が、本当に幸せだった、ってこと。


 なぁシズ、シズも居るか? 居るんだろ?

 なぁお前さ。これから父さんと母さんの事、よろしく頼ん――あー、やっぱいいや。

 おいシズ。お前な、兄ちゃんが居なくても夜中に一人でトイレ行けるようになれよ? もうお漏らしすんなよ? アッハハハ。


 ……じゃあ父さん、母さん、シズ。

 もう行かなきゃ。


 本当に、本当に今までありがとう。大好きだよ。

 父さんも母さんもシズも、大好きだよ。


***


 「ちょっと、ちょっと待ちなさい! 美春、あなた何を」

母の悲痛な叫びが聞こえる。


 だが、美春はギュッと目を閉じると、通話ボタンを切った。


 そして携帯電話を地面に放ると、月路つきじ 美春よしはるは、目の前の光景に目を向けた。


 暗いはずの夜が、轟々と音を立て燃え盛る炎で真っ赤に照らされている。


 天をも焦がす火、とはこの事か。

 全身を炎で包まれた、巨大なネズミ。十二上級神獣が一つ、ヒネズミ。

その一つ一つの挙動が、巨大な炎の竜巻となって夜に君臨し、山を焼いている。


 美春の脳内に唐突に思い出されたのは、親友のたまきのぎらぎらした眼差しだった。

『大丈夫だって。俺ならやれる。絶対に――絶対に、ヒネズミを呼び出して、そして自在に操って見せる。それで大人たちに思い知らせてやるんだ。俺たちの力を』

美春は、「ハッ」と笑った。


 巨大なヒネズミの尻尾がゆらりと揺らめくたびに、乗用車ほどもある炎の塊が森を容赦なく焼き潰していく。耳を塞ぎたくなるような爆音。黒い煙が立ち込める。

 あのヒネズミは。

 森を焼きつくして満足したら、次は麓の街だろう。そして麓の街を焼き尽くせば、次は別の街。だから、時間が無い。ここで止めなければ。


 美春は呟いた。

「環。だからこんな事やるべきじゃないし、『絶対無茶だ』って言ったじゃんか」

じわり、と滲む涙を手の甲で拭う。

「くそっ……なんで泣いてんだよ」

溢れる。拭う。何度も拭い、目を擦る。


 恩師に『これから自分がすること』を告げたときは泣かなかった。

 先程、父親と母親と弟に別れを告げたときも、泣かなかった。


 両方、覚悟していた事だったからだ。


 だが今。

 、『』と、そんな考えが一瞬頭をよぎった瞬間、突然堰を切ったように涙があふれた。

「ッ……!」


 ヒネズミを止めると覚悟を決めたとき、『自分は強いから、きっと成し遂げられる』のだと美春は思っていた。

 だがこうして溢れる涙のひとつも止められず、迫りくる炎の前に一人佇むだけの存在だと認知してしまった瞬間、自分がただの18歳なのだと分からされる。


 あの時友人を止めていれば。

 もっと友人の話を聞いていれば。

 自分にはもっと何かできたはず。

 何もしなかった結果が、これだ。


 積み上げてきた「やるべきだった」が瓦解し、今目の前の光景になっている。そしてその代償は、この先焼き尽くされるかもしれない街、失われるかもしれない沢山の人々の命だ。

 その事実があまりにも不甲斐なさすぎて、現実が恐くて、美春は肩を縮め泣きじゃくった。恩師、そして家族に電話する時に意図して胸の底に抑えていた感情が、ただただ溢れてきた。


 だが。

 炎は近くまで迫っていた。

 迫りくる熱が、頬を焼く。


 友を止められなかった後悔は、どうしようもない。

でも、ここで何もしなかったら、きっともっと後悔する。

 怖くて仕方がないけれど、もうこれ以上、見て見ぬふりはしたくなかった。


 やる、と決めた覚悟は変わりなかった。


 「……行くか」

美春は赤く猛り狂うヒネズミをしっかりと見据え、地面を蹴った。


覚悟を決めた18歳の黒い影が、森を駆けていく。


***


 20分後。


 教え子からの電話を受け、日野ひの 龍彦たつひこは麓の緊急対策本部から、山の中腹へと向かっていた。途中、山道を焼く炎に道を阻まれ、もどかしい思いをしながらも、部下のうるうと共に、なんとか進む。


 だがその途中。日野の背後で、閏が困惑の声をあげた。

「うそ、ヒネズミが消えた……!?」

燃え盛る山を蹂躙していたヒネズミは、いつの間にかその姿を消していた。だが、日野は「違う」と吐き捨てた。

「消えたんじゃねぇ、ヒネズミは美春の中に居る……!」

「あ、あの子、じゃあ本当にんですか!?」

大人の能力者ですら容易にできることではない。だが。

「なんてことしてんだあの馬鹿……!」


 曲がりくねる山道を駆け抜ける。道が一気に開けた。山の中腹。


 キャンプ場としても使われていたのか、人工的に整備された広場に出る。積まれた薪、大きな山小屋が、ヒネズミの火を受け燃えていた。


 そして広場には。

「美春!」

日野は、教え子の名を呼んだ。


 燃え盛る山小屋を背に佇む教え子——月路 美春。

 その身体は今、燃え盛る熱に包まれている。


 日野の背後で、閏が呆けたように言った。

「本当に、ヒネズミを身体に……!」

一方、日野は教え子へと必死に声をかけ続けた。

「美春! よくやった、お前は本当によくやった! 後は俺達でどうにかできないか、手立てを考える、だから――」


 美春はゆっくりと、日野を――恩師の方を眼だけで見た。燃え盛る炎に照らされているせいか、あるいは上級神獣ヒネズミをその身体に取り込んだせいか。その瞳は赤く光っていた。


 「美春……俺が分かるか……?」

日野は声を震わせ、教え子の名を呼ぶ。


 美春は。


 「——せんせぇ」

赤い瞳から涙を一粒流すと、恩師に向かって微笑んだ。


 途端、美春の身体がグチュンと膨れ上がり、身体から炎が噴き出した。

「だめだ、やっぱり抑えきれるわけないッ……!」

閏が悲痛な声をあげる。日野は拳を震わせ、それでも美春の名を呼ぼうとした。だが。


「せんせぇ」

炎に包まれながら、美春は腰のベルトに差していた短刀を抜いた。封印術に使われる特別な紋様が刻まれた刃が、渦巻く炎に煌めく。


 「美春ッ」

渦巻く炎へと突っ込もうとする日野を、

「だめです日野さん!」

閏が全身の力でしがみつき、留める。


 炎が揺らいだ。


 美春は微笑んだまま言った。

「先生。あとは、お願いします」


 美春の身を内側から食らいつくそうとするヒネズミが雄叫びをあげる。だが同時に美春は――封印の短刀を、自身の胸に突き刺した。

 深く、深く。冷たい刃が、美春の身体を凍てつかせていく。


 そして。

 それはまるで、いたいけなマッチの火を息で吹き消したかのように。


 辺りを取り巻いていた炎と熱が、一瞬で消えた。

 夜の暗闇を取り戻した広場の中央で、月路 美春の身体がばったりと倒れる。

美春の胸に深々と刺さった封印の短刀から黒く輝く墨が溢れ、封印術の言葉を形づくると、彼の身体を覆っていった。

やがて封印の黒い墨は、美春を包む硬い繭へと変化していく。


 「あ、ぁ……」

日野の背中に縋りついたまま、閏が嗚咽を漏らす。日野は大きな背を震わせ、数秒、地面を見つめた。頬から流れた涙がぽたぽたと土を濡らす。

 だが。

日野は硬い拳でグイッと目元を拭うと、すぐさま無線のスイッチを入れた。


 「これより、『永久凍結処置』の準備に入る。対象者——」

日野の声が詰まる。だが一呼吸おいて、日野ははっきりと言った。

「対象者、月路 美春18歳。上級神獣ヒネズミを身体に取り込んでいる。緊急事態につき、『協議会への承認手続き』と『永久凍結処置』を同時に進める。頼む、急いでくれ。封印課を今すぐ現場へ――」



<続>

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