第七章
翌日。由紀は荷物をまとめると、家族の集まっている居間に降りてきた。
「母さん、父さん。もう、私の部屋は片しちゃっていいよ」
「えっ……でも、そしたらあんたが戻ってくる場所がなくなっちゃうじゃないの」
驚く母親に由紀は力強い笑顔で答える。
「母さんと父さんがいてくれれば、それでいいんだ。そこが私の帰ってくる場所だよ。それに今私がいるべき場所は、北宮古じゃない。東京なの」
「ったく、お前ってやつは……ま、今度帰ってくるときは、婿でも連れて来い!」
「あはは、父さんってば」
明るく振る舞う由紀を、豪は複雑そうな顔で見つめていた。
「姉ちゃん、実はオレ……」
「豪、東京に出てくるんなら、待ってるから。あおいちゃん、きっちり連れてくるんだよ!」
「知ってたのかよ。バカ姉」
由紀から励まされると、豪は恥ずかしそうに笑った。
東京まで引きずってきた過去は、きちんと聡に渡した。これでいい。もう悔いはない。
「またね! 今度はみんなで東京に来て! 案内してあげる」
「じゃあオレ、お笑いの舞台見たい!」
「はいはい」
母親と父親、豪は家の外まで送ってくれた。本当は駅まで見送ると言ってくれたが、そこまでしてもらわなくてもいいと断った。忘れ物があったらいつでも帰ってきてもいい。その気楽さを感じたかったのだ。
駅に着くと、そこには俊介が待っていた。
「由紀、山田線の切符、もう買ってあるぞ?」
「ごめん、遅くなっちゃって」
由紀に切符を渡すと、俊介は由紀をじろりと見た。
「その服……」
「どこかおかしい? タイトな服が似合うって言われたから、持ってきた服の中で一番それっぽいのを選んだんだけど」
今日の由紀は、ぴちっとしたシャツにスキニージーンズを履いていた。コーディネートにおかしなところはないと思ったのだが。
俊介はじっと由紀の身体を見たあと、真っ赤になって目をそらした。
「やっぱりダメ。ぴちぴちなのはちょっと」
「なんで? こっちのほうが似合うって言ったのは、俊介だよ?」
「その……体型がはっきりすると、余計に目立つからさ。お前は」
意味が分からず首をかしげると、俊介は由紀の頭を軽く小突いた。
「このニブちんが」
「え~?」
「よかった。ふたりともまだいたか」
「聡……」
一瞬、俊介の顔が険しくなった。だけど聡はいつも通りに、ふたりに微笑みかける。
「東京でも頑張れよ。俺はずっと北宮古から応援してるから!」
「うん、ありがとう」
聡と会うのは、もうこれきりかもしれない。由紀は聡の瞳を見つめた。きらきらと輝く黒い目は、この熱い太陽と同じ情熱を持っている。それを知ることができたから、もう大丈夫。
だが、一番納得がいかなかったのは俊介だ。俊介は荷物をどさっと地面に置くと、今度こそ確実に拳を聡の頬に打ち込んだ。ガンッと大きな音がすると、聡は軽くよろける。
「……わざとよけなかったな」
「まあな」
「じゃあ、もう一発!」
俊介は今度、反対の腕で聡を殴った。骨と骨がぶつかったせいか、拳が痛い。しびれた感じがして、俊介は手を振った。
「痛ってぇ! っていうか、なんで俺の方が痛がってるんだよ! 普通逆だろ!」
「お前の拳、大したことないぞ? もう少し鍛えろよ」
「くっそ、最後まで負けかよ!」
「いや、勝ったのはお前だよ」
聡が感慨深げにつぶやく。しかし俊介にはその意味がわからない。知っているのは、由紀だけだ。
俊介はちらりと由紀を見る。もう彼女の目に涙はない。
「しっかりしろ、俊介! これからはお前が由紀を支えるんだから」
「言われなくてもわかってるよ。お前にはもう二度と触らせないんだからな!」
俊介は由紀の肩に手を置き、ぐっと引き寄せる。それを見ている聡はやっぱり笑顔だ。自分の選択は間違っていない。由紀も聡に笑顔を向ける。この恋は今度こそ本当に終わりなのだ。
「さよなら、聡」
「ああ、元気でな」
聡は改札前でふたりを見送る。ホームに入れば、北宮古とはお別れだ。うしろを振り返ることはしない。それでも最後まで聡はきっと見送ってくれる。未来へと歩き出す、自分と俊介を。
俊介は、ホームの階段でようやく由紀の肩から手を放した。
「もう……平気なんだ。お前」
「うん。俊介もありがとう。俊介が北宮古に帰ろうって言ってくれなかったら、私、ずっと過去にとらわれたままだったと思う」
「お前が納得できる結果になったんなら、いいんじゃね?」
軽口を叩く俊介に、今度は由紀が優しく拳をぶつけた。
北宮古駅は山田線の始発駅だ。電車に乗り込むと、早々に席を取る。由紀は不思議な気持ちだった。東京に馴染めず、つらいと帰ってきたはずの場所なのに、今はそこから飛び立つことを心待ちにしている。
発車ベルが鳴った。これからまた五時間以上の長旅が始まる。初めて東京に出るような、わくわくした感じ。都会が怖いなんて、きっと思わない。そこは自分の新しい居場所なのだから。
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