第2話 悪夢とルーティン

なんで彼女にライターなんか送ろうとしたんだろう。


健太郎は夢の中で思い出す。


いつもの夢。

茉莉花の夢。

悪夢。


行為が終われば、ホテルの部屋はいつも静かだった。


寝返りを打てば、茉莉花は使い捨てライターを指先で転がし、タバコに火をつけるシーンだった


健太郎はいつもそれを見るのが好きだった。


「作家なのに、もっといいライター使えば?」


ある日、健太郎が言った。


茉莉花は少しだけ笑って

煙をゆっくりと吐き出し、視線をこちらへ向ける。


「なくしたら悲しいから」


「どういうこと?」


「ライターなんてどうせ無くすもの。良いもの買って、大事にできなくて無くしたら悲しい」


タバコの先が赤く燃えた。

煙が静かに広がる。


「だから、最初からなくなっても悲しくないものを選んでるの」


彼女はそう言いながら、ライターを指で弄び無造作にシーツの上に放った。


健太郎はそれを黙って見ていた。


自分たちの関係もまるでタバコの煙のように、明確な形を持たずに漂い、やがて消えていくものなのか。


茉莉花がいつも健太郎の痕跡を残さないようにしていることはわかっていた。


必要とされるから一緒にいて、必要なくなったら無造作に捨てられるもの。


最初から大切じゃないもの。ただ、必要なだけのもの。


自分はそういう存在じゃないと、証明したかった。


だからライターを贈ろうと思った。

とびきり高級で、重くて、冷たい印象のものを。


この関係がいつか終わっても、そのライターそのものが手元から失われたとしても、記憶として片隅に残り、せめて何かの拍子に思い出してもらえるような、そんな存在感のあるものを。



彼女のタバコが、灰皿の縁で静かに火を消した。

茉莉花が言う。


「変なこと考えてる?」


「え?」


「考えられなくしてあげる」


それから徐に唇を奪われた。彼女の舌が口内をなぞり、頭が痺れた。

組み敷かれて、また繋がった。

シーツの上で彼女の身体が揺れる。

胸の動きに合わせて長い髪が揺れる。

消し損ねられたタバコの煙が部屋に滞留していた。


天井と壁の境目が曖昧だった。


夢と現実の境目の曖昧になる。



アラームが鳴る前に目が覚めた。


部屋はまだ薄暗い。

カーテンの隙間から、わずかに朝の気配が滲んでいた。


健太郎は仰向けのまま、天井を見つめた。


眠気はすでに消えていたが、すぐに起き上がる気になれなかった。

布団の中は、まだ昨夜の微かな温もりを残している。

それが何に由来するものなのか、一瞬考えかけて、思考を遮断する。


考えない。今は。


机の上のノートパソコン。


画面はついたまま、小説の原稿画面が開かれている。

昨夜、書こうとして、書けなかった痕跡。

数行だけ打ち込まれた文字の後に、点滅するカーソル。


指を伸ばしかけるが、やめた。

ため息をひとつ。

無意識に伸ばした手を握りしめ、ゆっくりと布団を跳ね除ける。


ウェアに着替え、スニーカーの紐を固く結ぶ。

玄関のドアを開けると、冷たい朝の空気が肌を刺した。


深く息を吸い込む。


走る。


体が覚えているリズムで、足を動かし始める。

まだ静かな街の中を、一定のペースで駆け抜ける。


中学時代からの習慣だった。

ボクシングを始めた頃から、毎朝のロードワークは当たり前になった。


「しっかりしてないとね、お兄ちゃん」


三つ下の妹が生まれたとき、誰かにそう言われた気がする。


走るたびに、そのことを思い出す。


だから、走る。


走っている間は、何も考えなくて済む。

走っている間は、“何者か”でいられる気がする。

少なくとも、書けない作家ではなくなる。


気がつけば、書けなかった小説のことすら、どうでもよくなっていた。



30分ほど走り、アパートに戻る。


大して汗はかかなかった。靴を脱ぐ。

シャツを頭から引き剥がし、タオルで顔を拭う


ふと視界に入った。


机の上の、銀色のライター。


デュポンのライター


触るつもりはなかったのに、無意識に手が伸びる。

指先で金属の表面をなぞる。


冷たい感触。


少し迷う。


けれど、結局ポケットに突っ込んだ。


理由は考えないことにする。



シャワーを浴びる気になれず、プロテインだけを流し込む。

空になったシェイカーを軽くゆすぎ、シンクに置く。

そのまま、部屋のゴミをまとめた。

玄関で普段履きのスニーカーを履き玄関をあけて隣の部屋の前に立つ

軽くノックをすると、ゆっくりと扉が開く。


「ああ、健太郎……いつも悪いねぇ。」

白井絹代。八十歳。隣人

このアパートに長く住む、独り身の老婆。

普段はホームヘルパーが来て、デイサービスに行き、生活している。


健太郎は毎週、彼女のゴミを代わりに捨てている。


それがいつからの習慣になったのかは、もう覚えていない。


「おはよう絹代さん」


「おはよう……本当に、すまないねぇ。」


「習慣みたいなもんだから。」


小さく笑う絹代からゴミ袋を受け取る。

「朝ごはんは?」

健太郎が聞く。

「パンを食べたよ」

「薬飲んだかい?」

「ええ」

「飲み忘れないようにね」

「ありがとう。親切な隣人で助かるね」

後ろ手で礼をいなし、ゴミ捨て場に向かう。

ゴミ捨て場は他のアパートとも共用なので、100メートルくらい歩いたところにある。絹代がゴミを持っていくにはいささか遠すぎる。


今日は燃えるゴミの日。自分のゴミと、絹代のゴミをゴミ捨て場に放る


ポケットの中のライターを握る。


今なら、捨てられる気がする。


一瞬、それを自分のゴミの中に放り込もうと考える。


指先が少しだけ開く。


しかしすぐに手が止まった。


燃えるゴミじゃないから。


そう自分に言い訳をする。


結局、ライターはポケットの中に戻った。





健太郎は駅前を抜け、裏路地を進む。

角を曲がると、見慣れた白いキッチンカーが停まっていた。


「ホットサンド & コーヒー Stand」


黒板の小さな看板が、営業中のサインを示している。


「おはようございます」


「おう、健太郎! 春のはずなの全然暖かくならねぇな」


店長がコーヒーマシンをセットしながら振り向いた。

健太郎はエプロンをつけ、黙って作業に入る。


パンをトースターにセットし、チーズとベーコンを挟む。

焼ける香ばしい匂いが漂い、コーヒーの香りと混ざる。


朝の通勤客が次々とやってくる。



健太郎は無言で対応し、手際よく仕上げていく。



ふと、小銭を落とした女性がいた。


すぐに拾い、何も言わずに手渡す。

子供連れの母親には、ホットサンドと一緒にナプキンを多めに添えた。

それ見ていたのか、店長が声をかける。


「相変わらず気が利いているな」

「そうですか?」

「あんまり誰でも構わず優しくしすぎるとまた惚れられて大変だぞ」


先月、女子高生に告白された件を言っているのだろう。



「ずっと憧れてました」


一ヶ月くらい前だろうか。

制服のリボンを握りしめながら、彼女はまっすぐに言った。


「ごめんね」


「なんでですか?」


「歳が離れてるから」


「おいくつなんですか?」


「22だけど……」


「私、17です。そんなに離れてるとは思えないですけど」


「でも学生だよね?」


「関係あります?」


「子どもにしか見えない」


「女に思えないってことですか?」


「……そうだね」


彼女の目が揺れた。


数秒の沈黙。


次の瞬間、泣きそうな顔で踵を返し、そのまま走り去った。


胸が痛んだ。


「気をつけようがないですね」

店長に言いながら思う。

それでも自分のせいで誰かが傷つくのは嫌いだ。

たとえ、どうしようもないことでも。

「嫌味なやつだなお前」

店長が言う。

「お前女とかいるのか?」

「いません」

「じゃあ付き合ってみればよかったのに」

「子どもですよ相手は」

「真面目なやつだな、若いんだからもっと女と遊べよ」

曖昧な笑顔で返し、またコーヒーを淹れる作業に戻る




キッチンカーは14時に上がりだった。忙しければ15時にまで伸びることもある。


健太郎は街の外れにある、古いボクシングジムに向かった。

ドアを開けると、革と汗の匂いが鼻をつく。

ミットの打撃音、シャドーをする選手たち、トレーナーの指導する声が響いていた。

健太郎は黙々とストレッチを始め、ロープを踏み、シャドーに移った。

正しくあろうとすると、必ず強さが必要になる。

中学時代に気づいたことだった。


殴るのも、殴られるのも好きじゃなかった。

でも、強くならないといけなかった。

「僕は、しっかりした子だから。」

中学生の頃の自分が脳裏の浮かんだ。シャドーで殴り追い払う。

ミット打ち、サンドバッグ。

トレーナーに軽く指導を受けながら、ミットを打つ。

重い音がジム内に響く。

シャツが汗で張り付き、息が上がる。

練習を終え、ロッカーで着替えながら水を飲む。

ふと、ポケットの中のライターの存在を思い出す。

銀色のデュポンを取り出し、ジムの隅に座りながら眺めた。

ライターを開閉し、火はつけずに指先で転がす。


「健太郎さん、それ、いいライターですね。」


声をかけてきたのは、後輩のボクサーだった。

健太郎より一つ下。

来週、初めてのプロ試合を控えている。


「欲しいならやるぞ?」

「勘弁してくださいよ。ようやくタバコやめたんですから、ライター見るだけでまだ吸いたくなる。」

健太郎は少し笑い、ライターをポケットに戻す。

「健太郎さん、プロにならないんですか?」

「ならない。」

「なんで?」

「なる必要がないから。そこまでの実力もないしな。」

「でも強いのに。高校時代、県大会優勝してるんでしょ?」

「全国では一回戦負けだったよ。」

後輩は納得がいかないような顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。

時計を見た。17時を回っていた。健太郎は次の予定のために立ち上がった。




「拳王」はボクシングジムの真裏にある


健太郎は、ここで夜のバイトをしている。


「おう、来たか。」


カウンターの奥で、店主が顔を上げる。


佐藤大輔。


裏のボクシングジムのオーナーでもあり、健太郎の高校時代の校外コーチ。2年前に校外コーチはやめて、この店を開いた。


「またジムに行ってきたのか?」


「はい。」


「根詰めすぎるなよ。」


「大丈夫です。」


「そうか。」


短いやり取りのあと、健太郎はエプロンをつけ、黙々と仕事に入った。


営業が始まる


カウンターに立ち、注文を取る。

酒を作り、皿を下げ、料理を運ぶ。


店はほどよく賑わっていた。


酔ったサラリーマンたちの笑い声。

「もう一杯!」と声をかける常連。


客に呼ばれれば、淡々と対応する。

いつものように、感情を大きく出すことはない。


「あら、健ちゃん」


カウンターの端から、馴染みの声がする。


「今日もカッコいいね」


派手なピンクのネイルが、グラスの縁をくるくると撫でる。


「ありがとうございます」


健太郎は淡々と返しながら、グラスを拭く。


このあたりの店で働く風俗嬢たちが、よく飲みに来る。

仕事終わりの一杯。

少しの愚痴と、軽い戯れ。


「相変わらず素っ気ないね」


「そうですか?」


「そうよ。せっかく美人が声かけてるのに」


風俗嬢は肘をつき、目を細める。


「健ちゃんうち、来たことないでしょ?」

確か近くのソープで働いていると聞いたことがある。

「ないですね」

「遊びにおいでよ」

「今度行きますよ」

「そう言ってきたことないくせに」

「貧乏なんでね」


風俗嬢は肩をすくめ、グラスを軽く揺らす。


「でもさ、健ちゃんって、そういうの我慢しすぎて爆発するタイプじゃない?」

「どうでしょう」

「ほら、そうやって流す」

「だって本気じゃないですよね」

「まあね、冗談半分。でもさ」


色気のある微笑み。脳裏に茉莉花の顔が浮かぶ。噛み殺した。


「女に押されたら弱いんじゃない?」


健太郎は、曖昧に答える。


「そう見えます?」

「うん、すっごく」

「そんなことないですよ」

「誰かに押されたことあるの?」

一瞬だけ、タバコの煙が蘇る。

コインランドリーのベンチ。

お兄さんの方が好みだったから

夜風に揺れるストール。


「……まあ」


それから曖昧に笑う。


「でも、ちゃんと断りましたよ」

「えー、なんで?」

「知らない相手とはそういうことしないんで」

「真面目ー」


風俗嬢は笑いながら、健太郎の腕に軽く指を這わせる。


香水の匂い。そして豊かな乳房が胸元から覗いた。

フラッシュバック。

自分の上で揺れる茉莉花の裸身。

これはまずい。

健太郎はふっと息を吐き、かすかに笑いを浮かべた。無理やり。

「どうかした?」

「いえ」

風俗嬢がじっと健太郎を見ていたが、次の瞬間、携帯のバイブ音が会話を断ち切る。

彼女はスマホを取り出し、画面をちらりと見た。

入れ上げてるホストだろう。

「ごめんね」

そう言いながら、風俗嬢はカウンターの端で通話を始めた。

言葉が聞き取れるほど近いのに、健太郎は聞いていないふりをする。

グラスを棚に戻し、そのまま厨房へ引っ込んだ。




店が落ち着いた頃、健太郎は裏口から外に出た。

ゴミ袋を抱え、路地裏のゴミ捨て場へ向かう。

夜風が冷たかった。

ふと、ポケットの中のライターに手を伸ばす。バイトの制服に着替えているのになんとなく気になって持ち歩いてしまっている。

指先で転がす。

捨てるか、捨てないか。

少しだけ迷う。

深く息を吐く。ポケットから手だけを抜き取り、何も考えず、店に戻った。

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