蓮っ葉な彼女と眠れない僕。

ぺぺろん。

第1話 煙たい彼女とコインランドリー

タバコの匂いで目を覚ました。


健太郎はゆっくりと目を開ける。

冷たい空気が肌をかすめる。


コインランドリーの外のベンチ。いつのまにか手からこぼれ落ちたのか、持っていたはずのデライターがベンチの上に転がっていた。銀色のデュポン。

健太郎は一瞬迷って、それを拾った。


薄暗い街灯の光の中、隣に女が座っている。

知らない女。

タバコを指に挟み、携帯で話している。

男に媚びた嬌声。恋人か、それに準ずる相手か。


健太郎は肩にかかる、やわらかいものの感触に気づく。

手を伸ばして触れると、それは綿のストールだった。

淡い色の、大きめのストール。

ひんやりとした夜の空気から、彼の体を守るように掛けられていた。


電話を終えた女が、ゆるくこちらを見た。

黒髪のショートボブ、シャープな目元。

濃いアイラインの奥に、淡いグレーの瞳が光る。

口元にはくすんだピンクのリップ。


白のタンクトップの上に、オーバーサイズのジャケットを羽織っている。

片方の肩が落ち、滑るように露わになった肌。

レースの靴下を覗かせた脚を組み、ゆっくりと煙を吐いた。


「風邪ひくよ。こんなところで寝てると」


健太郎はぼんやりと女を見つめ、肩のストールを手に取る。


「……これ、君の?」


女はタバコを指で挟んだまま頷く。


「いい男だから貸した」


笑いながら、ストールを取り戻すと、無造作に首に巻いた。


「なんでここで寝てたの?」

女がタバコをくゆらせながら尋ねる。

「なんでだろう。洗濯待ってたら、つい」

健太郎は伸びをしながら答える。

女は少し目を細め、タバコの灰を落とす。


「春だけど夜はまだ寒いから気をつけなよ」


「……気をつける」

「素直でかわいいねあんた」


女は笑うと、タバコを口に運ぶ。

副流煙が鼻腔を撫でる。知っている匂い。バニラビーンズの香り。


「うなされてたけど、どんな夢?」


煙がゆっくりと夜空へ消えていく。


「……忘れた」

「女の夢?」

「どうしてそう思うんだ?」

「うなされてたけど言ってたよ。女の名前」

女が言うなり、健太郎はぴたりと動き止めた。

女は少し口角を上げた。冗談だと分かった。


「本当に可愛ねあんた」

女がタバコを差し出してきた。

「吸う?」

「タバコは吸わないんだ」と健太郎は断る

「そんな立派なライター持ってるのに?」

女が視線を健太郎の手元のデュポンに向ける。

「うん」

「変なやつね。

この辺に住んでるの?」

「うん」

「年齢は?」

「二十二」

「私の二つ上だね。」

おしゃべりな女だった。まどろんでいなければ、近すぎる距離感に戸惑っていたかもしれない。もしかして顔見知りだったかもしれないと記憶を巡らせてみたが、どう考えても初対面の女だった。


女は笑いながら、脚を組み替えた。


「ちょうどいいね」


健太郎は視線を宙に向ける。


「何が」


「付き合うのに」


女はタバコをくゆらせながら、健太郎を横目で見た。


「お兄さん暇?」


「いや」

「暇そうだけど?」

「洗濯物が乾くのを待ってる」

「寝てる間に乾いてるみたいだけど?」


コインランドリー。洗濯乾燥機は全て止まっていて無音だった。


「暇なら私と遊び行かない?」


健太郎はライターを転がす手を止める。


「誰かと待ち合わせじゃないの?」

「なんで知ってるの?」

「電話してたろ」


女は肩をすくめる。


「うん」


「なのに?」


「すっぽかしてもいいかなって」


健太郎は眉をひそめる。


「親しい相手と話してるように見えたけど。」


「親しくないよ。二回くらい寝ただけだし」


健太郎は少し黙る。


「それで?」


女はタバコを咥えながら、淡々と言う。


「お兄さんの方が好みだったから」


健太郎はライターを指で転がしながら、視線をずらす。


「なんで」


女は煙を吐く。


「寝顔」


「寝顔?」


「寝てたでしょ」


「うん」


「かわいかった」


「そうか」


女はストールの端を指で弄ぶ。


「お兄さんの部屋、行く?」


健太郎は視線を落とさず、ライターを転がし続ける。


「なんで?」


女は軽く笑う。


「うちは女性専用アパートだからダメだもん」


健太郎は短く息をついた。


「そういうことじゃない」


女は目を細める。


「いいじゃん、別に」


健太郎はライターを転がす。


「僕は知らない人とそういうことはしない」


女はタバコを灰皿に押し付ける。


「知らなくても、できるでしょ?」


「できるかどうかの話じゃない」


「じゃあ、何の話?」


「知らない相手とする気はないって話」


女は少し笑い、健太郎の袖口をなぞる。


「今から知れば?」



その時、駐車場に一台の車が入ってきた。

黒塗りのセダン。


ヘッドライトがこちらを照らし、女はふっと小さく息をついた。


「時間切れ」


健太郎はライターを転がしたまま、視線を上げる。


車のドアが開き、茶髪の男が降りてきた。


「遅い」


女は立ち上がり、軽く手を振る。


男は女の隣に座る健太郎を見て、少し眉をひそめた。


「誰?」


女は特に気にした様子もなく、タバコを灰皿に押し付けながら言う。


「知らない人」


男は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに肩をすくめた。


「行こっか」


女は乾いた洗濯物の入ったビニール袋を持ち上げる。


男は健太郎に目を向けたまま、何か言いたげだったが、女に促されて渋々車に戻る。


女が車に乗り込もうとした瞬間、健太郎は言った。


「ストール、ありがとう」


女は少しだけ振り返り、ふっと笑う。


「もう居眠りしないで、家で寝なよ」


そう言って、ストールを無造作に巻き直しながら、車に乗り込む。


テールランプが赤く光り、セダンは音もなく走り去っていった。


健太郎はぼんやりと、それを見送る。


ライターを指で転がす音だけが、静かな夜に響いていた。


女が消し損ねたタバコの煙が灰皿から漏れ出し揺れていた。しかしすぐにそれも消えてしまった。

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