全ては箱の中


 二月十四日。

 正月を迎えたかと思えばあっという間に二月となり、もう半ばに入ろうとしている。


 年々あらゆる意味で薄くなる新聞をポストから取り出す。そろそろ止めても良いのではないかと思いつつ日課を変えるのは難しい。

 惰性でテレビを点けても見知った顔はいなくなり、内容に戸惑う事も増えた。自分より若い人の訃報に胸を痛め、言葉遣いに違和感を覚え、片仮名の羅列や画面の視覚情報量に脳が疲労する。ぼんやり、果たしてこれはニュースなのかと考えながら若いアナウンサーがデパートの入り口に立っている姿を眺める。

 混雑する店内に凝った商品が並んでいる。商品価格と並ぶ人々の身なりが吊り合っていない、そう思ってしまうのは年齢故のものなのか。


 毎日使っている染みのついたマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、電気ポッドの湯を注ぐ。蜜柑とパンを出して朝食にする。食欲はなくても薬を飲む必要があるので食べない訳にはいかない。

 昔は三食しっかり料理をしたものだけれど、棚の奥に転がっていった調味料に手が届かなくなった辺りから、すっかり手抜きをするようになってしまった。買った総菜やパンも悪い物ではないのだから文句はない筈だけれども、どうしてなのか虚しさがある。かといって食事を作ればそれだけで疲れ果ててしまう。材料を買って来ても使い切れず、腐らせる事も増えた。そもそも買い物に出るのが億劫だし、外出後は眠くなってしまう。店に行っても商品の説明や陳列棚の説明が読み難く、物の位置が変わればその度、迷う羽目になる。ずっと使ってきた物ですらデザインが変わって見つけ辛くなってきているし、人を頼ろうにも迷惑をかける事への罪悪感が胸に重い。侮蔑の言葉を向けられているとふと気付けば、痛みと共に無知への憐みを覚える。



 立ち上がり、身を伸ばそうとすればあちらこちらに違和感がある。結局大して開きもせずに縮こまってしまう。次の病院はいつだったか。薬ばかり増えても仕方がない、分かっているのに痛みを感じるのが辛い。

 愚痴や不平不満ばかり言うのは良くない。分かってはいても冬は気分が塞ぎがちだ。

 今はこういった感情さえも病名が付けられ薬で打ち消せるのだと言う。時代は移ろうものだ。

 かつて鬼才と呼ばれた人も、絶望に身を投げ破綻して行った人も、或いは極悪非道の振舞で石を投げられた人も、この時代に生まれて若い内から矯正されていたならば自我さえ変わっていたかも知れない。


 台所へ行き、食べ終わったゴミを処分する。収集日を間違えないようにしなければ、カレンダーに目を向ける。新聞とテレビで見た曜日はいつだったか。

 折角立ち上がったのだからと、仏壇へ移動して線香を焚いた。お鈴を鳴らし手を合わせ、前日に上げたチョコレートを下げる。造花頼みになってしまった仏花に後ろめたさ。

 ふと思いついて庭に出た。空気は冷たく、上着なしで長く居たら体調を崩しそうだ。手に息を吹きかけながらプランター横に不自然な恰好で屈む。

 ビニールの覆いの中でクリスマスローズと水仙が慎ましく咲いていた。

 視線を上げれば世話出来る範囲が縮んで貧相になってしまった庭が映る。

 ただでさえ冬は育つ植物が少ないのに、人を呼べる程だった頃と比べてしまえば何だか惨めな気持ちになる。車はなく、一人きりになった弱い体で大量の土や肥料が運べる訳がない。

 鋏で一輪花を切り取り、摘んだクリスマスローズを手に、室内に戻る。


 棚から一輪挿しを取り出すと、薄っすら埃を被っていた。軽く濯いで水を入れ、花を挿して仏壇に戻る。

「いつもごめんなさいね、チョコは気に入ったのかしら」

 返事がある訳でもない。それでも声をかけたくなる。

 写真の中のあの人は亡くなる前の姿のまま。自分ばかりが年を取っていく。長く生きるのは悪い事ではない。その筈だけれど。


 居間に戻れば、点けっぱなしのテレビで映画が始まっていた。

 若い頃、公開日に映画館で見た作品。興味を引かれて椅子に腰を下ろす。

 今となっては古いと言われるようになってしまった。惰性で眺めていた番組とは色彩も姿も違っている。あの時代はここに映る全てが当たり前のものだった。そして隣には恋人だったあの人が居た。

 コマーシャルになって、ふと台所へ戻る。水分をマメに取らないといけない。朝食時と同じようにコーヒーを作り、チョコレートの箱と共に食卓へと運ぶ。


 幸い、物語は大して進んでいない。

 そういう所も今とは異なっているように思う。店一つない、不便だけれど広々とした道路を当時流行していた国産車が走り、男女の取り留めない会話が長々続いている。

 そんな姿を見て、憧れて、お金を溜めて旅行へ出かけた。バレンタインにチョコレートを買ったのも、きっかけはそんな形だった。周りから浮かないよう精一杯に着飾って電車に乗りわざわざ遠いデパートまで出かけた。店内にはブランド物や着物で身を包んだ人ばかり、そこに混ざって必死に買ったチョコレートは宝石のようで心ときめいたものだ。

 手渡したあの人にその価値や想いが通じたかは知らないけれど、三月にはレストランへ連れて行ってくれ、花束をくれた。

 思い出に浸りながら映画を見れば、緩やかに物語が佳境へと向かっている。会話の中で育まれた人間関係。あり触れた、誰にでも起こり得る出会いと別れ。

 悲壮過ぎる事はない。けれども抗えず、覆らない結末。

 内容を覚えていても、感情は揺れた。脆くなった涙腺から涙が零れる。肌の上を弾けるように落ちて行く事は最早ない。刻まれた皺に浸み込むように流れる様子は人に見せられたものではない。

 昔はハンカチを差し出してくれる人が居た。物語の感想を分かち合い、心を落ち着けたものだった。


 語り合う相手が居ない今。

 空の椅子と減らないチョコに冷えた珈琲。そんなものを前にして、ふと沸く感情。

「共に逝ければ良かったのかしら」



 決して命を粗末にしたい訳ではないのだけれど。

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