私を呼ぶ声

陶木すう

私を呼ぶ声

 ――りねしのみこひ ぬさいや しらふずりと みとわめさひ ぢきわわにためも あゆとをれ

 どこからか囁きが聞こえた。

 まわりを見回しても誰もいなかった。


   ***


 家の近くに、なだらかに登る山道が伸びている。

 その囁きが聞こえるのは決まって、その木々のそばを歩いているときだった。

 緑の葉が擦れてサラサラと鳴っている。

 最初はラジオの音か何かだと思った。

 ――てろやにすみけ かたにゑふ なきめやかそ をらあひははそ

 その柔らかい声の音自体は聞き取れる。母音が多く日本語のように思ったが、その音が何を意味するのか分からなかった。


 学校から帰宅した私は家族にその音の話をした。

 話を聞いた姉は、道の上にある神社で流している案内の声ではないかと言った。確かに正月に近くを通ると、琴を弾く音が聞こえ、祭りのときには何か案内の放送が流れてくる。

 私は神社の放送ではないと言った。聞いた声はそれらの音よりもっとはっきりとしていたからだ。話はそれきりで終わったが、後日、姉とそこを通ったとき、私はまたあの音を聞いた。

 ――やもゑしにさ にゐくほみみさ みたみととまみを

「今の聞こえた?」

 神社の放送じゃないよねと言うと姉は何も聞こえなかったと言う。最初、私は姉が冗談を言っているのだと思ったが、そうではないということが分かって困惑した。姉は姉で、私が冗談を言っていると思ったらしい。

 どういう仕組みか分からないが、そ の声は私だけに聞こえているようだった。

 耳鼻科に行ったが、耳に異常はなかった。人の可聴域を超えて聞こえることもないし、聞こえないということもない。

 心配した親のすすめで、週に一回、カウンセリングを受けることになった。私はカウンセラーに日々の取り込めもないことを話した。その音についても話した。どういう音が聞こえるのですかと質問されたため、私はその道を通るときに、ときどき立ち止まって、聞こえた音を書き留めてカウンセラーに見せた。どういう意味なんでしょうと言われたが、私にも分からなかった。しばらくカウンセリングに通ったが何も変わらず、続けたいかと訊かれて、通うのを止めることにした。あの音について話せる相手がいるのは良かったが、高校受験も近づいて忙しくなっていたし、意味の分からない音に対する興味も失せていたからだ。

 友人には冗談交じりに、通常の人には聞こえない波長数の音を聴いているんだと話すことはあった。

 ――らつだやくきけ またはだたや のたへての のいたかう たまもいにみし

 相変わらず、その道を通るときに声が聞こえる。他の人には聞こえない。ただそれだけだ。

 それが私の日常の一部になって、私自身も周りも気にしなくなっていった。

 自分だけ感じること、自分だけ考えることはたくさんあるだろう。

 声は、そういうものの一つだった。



 新入生向けオリエンテーションが開かれた日、大学構内にはサークルに勧誘しようと、たくさんの人たちが集まって、新入生にチラシを配ったり話しかけたりしていた。

 オリエンテーションに向かう私も何枚かチラシをもらった。サイクリング、テニス、写真、文学研究会等々。

 特にサークルに入ることを考えていなかった。体を動かすことも文化活動もあまり興味がないからだ。これまでに入った部活は二つだけだ。マラソン大会に向けて教師が入るように勧められてランニング部に入り、それから活動が少ないという理由で文芸部に入ったことがある。どちらもそれなりに楽しかったが、それだけだ。読書や映画鑑賞に興味もなく、スポーツにも興味がない。強いて言えば散策が好きだと言えるが、人と歩きたいわけではない。

 そういうわけで、もらったチラシをなんとなく眺めていただけだったが、ふとその中の一枚に目が留まった。

 チラシには古語研究会と書いてあった。昔の言葉を勉強してみませんかという文とともに活動内容が書いてある。年間で課題となるテキストを決めて皆で読むらしい。選んだテキストに関連する場所を訪ねる日帰り旅行企画もある。

 しかし私の目に留まったのは、研究会の説明ではなく、添えられたイメージ画像だった。そこには、筆で書かれたようなフォントを使用してこう書かれていた。

 ――ねのがつる をかみし うこしひろいと になは まきせわをよ

 何を意味するのか分からないが、あの言葉に似ているように思った。

 意味が分かれば、あの声が何か分かるかもしれない。あるいは他にも聞こえる人がいるかもしれない。

 そう思って私は古語研究会に入ることにした。



 古語研究会は毎週水曜日に開かれていた。

 場所は大学構内にある小さな部屋で、古い方の講堂にあるため人通りは少なかった。新緑の見える窓は開け放たれて心地良い風が流れ込んでいる。

 会員はもっといるということだが、私が会ったのは三人だけだった。毎週いるのは会長の芳田、会員の笹木。初回に会ったが、それ以来、会っていないので名前を覚えられていない人がもう一人いる。

 今年のテキストは『たのきたづまし』という名前で、近世、某県近辺で実際に使われていた祝詞集だという。

 古語というので、私は勝手に古代をイメージしていたが古代とは限らないらしい。口語訳つきのテキストをもとにして、主に会長の芳田が、何冊か参考文献を参照しながら、解釈の分かれるところや当初考えられていた意味と違うと分かった言葉などについて解説していく。

 まだ意味が分かっていない言葉について、芳田と笹木がああだこうだと議論する。私はまったく話についていけずに、ただ二人が話すのを聞いているだけだった。

 私はテキストに書かれた言葉と、昔、書き留めた言葉を比べてみた。確かになんとなく似てはいるが、一致する部分はあまりなかった。強いて言えば『ぬさいや』と『ぬさいやじ』は最後の一文字以外一致しているが、その前後の組み合わせに一致するところはない。これが本当に同じ言葉なのか私には判別つかなかった。同じ言葉なのか相談してみたかったが、まだ研究会に入ったばかりで、私だけに聞こえる音について話題に出すのは躊躇われた。芳田も笹木も議論に夢中になっている。私はテキストに目を落とした。

 そこにはこう書かれてあった。

 ――神はあまたの国で命を求めて。

 いや、実際には『のひのみし はむきにあ やしりとにろれ』と書かれてある。それが突然、注釈もないのに何が書いてあるのか分かった。

 驚いて私はテキストを凝視した。ちょうど日が陰ったようで室内が暗くなり、テキストの文字が少し読みづらくなった。部屋の照明を点けに行った方がいいと思うが、それどころではなかった。

 ――青い山で虫が鳴いている。夕暮れになれば風が吹き出して木々が騒めく。

 実際に書かれた文字は……。

 ――すにみもつわし くをほへしまる やつたのししひ まうめろとくす たひつをしたのば ふつたみつ みほふみまうをの

 暗い室内で文字が揺れているように思う。墨が滲み始める。紙から浮き上がって波間にあるように揺蕩う。墨は金にきらめき、言葉が語りかける。見つめているだけで頭がくらくらする。興奮したせいかまだ夏でもないのに暑く感じる。なんだか息苦しいと思った。

「続き、読もうか」

 笹木に話しかけられて我に返った。

 顔を上げると室内は明るかった。窓の外で新緑が陽光を受けて揺れている。

 もう一度、テキストを見たとき、今しがた読むことができた文字の意味は分からなくなっていた。ただのぼせたように、まだ頭がぼんやりしていた。



 居酒屋の壁には、くずし字風に書かれた本日のお品書きが所狭しと並んでいた。時間は早めだったが、すでに店内の席は埋まりつつあった。

 古語研究会で飲むときには、いつもこの店を利用しているということで、今日は私の新人歓迎会だった。

 とはいえ飲み会には来たのは四人……、芳田、笹木、それから私が名前を覚えていなかった井筒だけだ。他に十人ほど所属しているらしいが、実質、幽霊部員ということだった。

 すごいと思うんだよねと会長の芳田は言った。

「日本には古代から別の言語が存在するんだよ」

 古代からあるんですか?と私は聞いた。

 そうそう、と芳田は頷く。

「日常生活ではもう使わないけど祭祀のための言葉として残ってる。その言葉の持つ思想がそのまま残ってるってことだよ。今読んでるテキストでも自然を讃えるものが多いけど、これは原始的な自然崇拝の名残なんじゃないかと思う」

「自然崇拝?」

「そう、星がきれいとか、空が美しいとか、花が咲いていて感動するとか。そういう気持ちって今でも分かるよね。森が豊かで生活が成り立つことに感謝するとか。そういう気持ちから始まって、日本人は古来、自然を大切にしてきた」

 八百万の神って言うよね、と芳田は言った。

「日本人はあらゆるところに神を見出して、あらゆるものを崇拝してきた。あらゆる神を受け入れ、あらゆる神に従ってきた。自然を崇拝すること、あらゆる神を受け入れること……、神が日常と繋がる暮らしを送ってきた」

 新しく入ったばかりの人に語りすぎじゃないと笹木が笑った。どうやらこれは芳田がいつも語っていることらしい。ここが一番楽しいところだよと芳田は返して話し続ける。

「朝、日が昇って明るくなり、夕べに日が沈んで月がのぼる。夏、暑くなって緑が生い茂り、秋になると葉が色づき、冬に凍えて枯れ、春にまた芽吹く。自然崇拝とはそういう移り変わりを受け入れることから来ていると思う。あの言葉が表しているのはそういうものだと思う。文字は単なる文字ではなくて……」

 芳田は話し続ける。

「雨が降るとき傘を差す。でもそれが霧雨なら傘を差さない。暑い地域と寒い地域では家のつくりも違う。日々の行動が違う。どういう服を着るか、どういう家に住んでいるか。私たちは日々、自然に合わせて行動してるんじゃない。むしろ自然が私にそうさせてる。自然が私たちを支配している……、そういう畏敬を表している」

 自分が聞いていた音のことを思う。

 まさに自然が私に語りかけてきたものを聞いていたということなんだろうか。

 あの言葉の意味が分かれば、もっと世界を理解できるだろうか。

 大丈夫?と井筒が訊く。

「訳分かんないよね」

 分かるような分からないような……、と私が答えると井筒は笑った。



 居酒屋にいた間に雨が降ったらしい。

 アスファルトの黒い路面が濡れて街灯に白く光っている。曇った夜空は黒々として重たく低くのし掛かり、なんだかいつも通る道ではないような気がした。

 大通りから路地に入ると人通りはなかった。

 自分の歩みがやけにゆっくりとしたものに感じられる。

 アルコールなど飲んでもいないのに、居酒屋の雰囲気に当てられたのだろうか。

 自宅に辿りつき扉の鍵を開けて部屋に入るとき、視界の端に白っぽい誰かが立っているのが見えた。

 その人影が死んだ姉に見えた。

 一瞬だが、それが真っ白い死に装束だと思った。そのまま部屋に入って扉を閉めたが、心臓が激しく脈打っていて、現実じゃないみたいに目の前の床がどこか遠く思えた。

 ただ白っぽいものが見えただけだと思う。それなのに姉だと確信していた。

 あれは死に装束だった。視界の端に入っただけなのに、なぜかそう思った。真新しく白い生地の、ザラザラとした細かな目まで網膜に焼きついている。あれは死んだ姉だ。

 あんなに姉に会いたかったのに、いざ姉が現れると怖かった。あんなに泣いて、また会いたいと思っていたのに、今はそう思えない。私が静かにあの世で眠る姉を呼び起こしてしまったんだと思った。

 私は靴も脱がずに、その場でスマートフォンを取り出して家族に電話を掛けた。いつも帰宅したあとに電話を掛ける習慣になっている。これがホラー映画なら通じないところだ……と、震えながらも場違いにもそんなことを思ったが、電話は無事に繋がった。

 ゲリラ豪雨は大丈夫だったのかと、いつものようにのんびりとした調子で聞かれて、私は一瞬戸惑った。どうやら居酒屋にいたときに激しい雨が降ったようで、ニュースになっていたらしい。

 ニュースを見てない、大丈夫だったと答えるうちに、先ほどの人影を見たことが嘘のように思えてくる。

 単に白いものを見ただけだ。網膜に焼きつく、白い死に装束は白昼夢に違いない……。

 見間違えたんだと思うけど、と私は言った。

「さっき家に入るとき、お姉ちゃんを見たよ」

「……」

 困惑した沈黙がかえってきて、私は迂闊なことを言ってしまったと思い、慌てて否定した。

 たぶん疲れてたんだと思うと言って、強引に話題を変えた。お互いに深く話したい話題ではなかった。私は大学のこと、友だちのことをとりとめもなく話した。

 電話を切ったあと、しかし、またひたひたと恐れが忍び寄ってくる。死者が怖い。逃げ出したい。でも逃げるってどこに?

 私はふだん観ないテレビをつけて、スマートフォンをポータブルオーディオに繋いで音楽を流した。

 真夜中になっても音楽を止めることも電気も消すこともできなかった。目を閉じるのが怖かった。

 そうしているうちに、少しはうとうとしたかもしれない。やがて夜が明け空が白み始める。私は少しだけ目を閉じて気を失うように眠った。



 会長の芳田によると、この週末、読んでいる祝詞を使った祭りが行われているという。

 祭りは失われていたが、近年、この祝詞が再発見されたことにより、地元の有志が集まって、祭りを再開させたらしい。再開とはいうものの、当時行われていた祭りがどういうものか、今となっては知りようがないため、発見された祝詞と、他の祭りを参考に作り上げたものだ。それでもなかなか華やかで見応えがあるという。

 私は見てみたいと答えて、日曜朝に先輩たちと待ち合わせることになった。

 そのことを、私はオリエンテーションで知り合ったばかりの友人たち……、倉上と大賀に話した。興味がないかと思ったのだ。

 倉上たちとはオリエンテーションで隣の席だったというきっかけで話すようになり、それ以来、どの講義を取るか相談したり、一緒に学食を取ったりしている。

「興味ある?」

 興味あるなら一緒に行こうよと言うと、倉上は面白そうだねと反応した。

「古語研究会のだよね」

 古語研究会って本読んでるだけかと思ったと大賀は言った。しかし倉上も大賀も先約があるらしい。またあると思うから時間が合うなら行こうと私は言った。



 電車に揺られて数十分で、電車の外に広がる光景は一変した。

 低い山と田畑が広がり、時折留まる駅は狭く小さく、線路沿いにまで木々が迫る。人通りの多い街中の駅から数十分で、ここまで景色が変わると思わず、私はぼんやりと電車の外を眺めていた。

 私は先輩たちと駅で待ち合わせたあと、そこから初めて乗る路線を使って祭りが行われている場所へと向かっていた。

 待ち合わせた駅から一時間ほど電車に乗って、目的の駅に辿りついた。駅はそれなりに大きかった。駅前のロータリーも広く道幅も広い。通勤時間帯には混むのだろうが今は閑散として見える。

 そこからさらにバスに乗って、祭りが行われる場所へ向かう。住宅街を抜けた先に小高い山があった。そこで祭事が行われているとのことだった。

 私たちは公園近くでバスを降りた。目の前に木々が並んでいる。公園名の書かれた看板の先は広場になっていて、その先に上り坂が見えた。

 あの先、と会長の芳田が指差した。私たちは緩やかな上り坂をのぼっていった。坂を少しのぼった先に開けたところがあり、そこに四角くしめ縄で区切られていた場所があった。白い装束を着た神主のような姿をした人と、赤い袴に頭に金の飾りをつけて手に鈴を持った巫女姿の人たちが見える。

 神主のような姿の人は紙垂のついた大幣を振って祝詞を唱え始めた。

 ――はさばくの たしのこのこ りはくえたみま だけをもくきは はのさたまうか

 祝詞を読む抑揚にあわせて巫女装束の人たちが鈴を鳴らしながら踊り始める。ゆっくりと手を広げて鈴を鳴らす。しゃんと乾いた鈴の音が立つ。ゆっくりと鈴を持ち上げる。銀色の鈴が陽光に照らされる。鈴の持ち手の先についた五色の紐が引っ張られていく。

 ――けくなかとは もほくみまくかぬとせぎるゆぬよなづあひわしつはなみや

 これは山にいる神に呼びかける歌なのだと思った。言語の構成を理解したわけではないのに、そう思った。

 ――のめたふしのしとかそひつわるむゆ たさしし たなをけ よしはなか へらはとけま きらしのがく

 鈴の乾いた音は、葉の擦れる音にどこか似ている。しゃん……、しゃん……、と鳴る音に呼応して木々が揺れる。いや葉の擦れる音と鈴の音を混同している。葉の擦れる音しか聞こえてこない。

 人が山に呼びかけているのではない。山が呼びかけている。さらさらと葉の擦れる音があの音に聞こえる。

 ――ふかたむいをこ もわやさまわそ さまはが てかがたくしを をてこみかはけ のやぎくてはの すみなすまを

 ――山で鳥が鳴く。日が陰ると真っ暗な夜が来る。手を伸ばして、手を取り合いましょう。

 次第に目の前で動く人々が霞がかりぼんやりとしてきた。銀色の鈴だけがきらきらと光って見える。私はまばたきした。踊る人々は影となり、影は木々が揺れるようにゆらゆら揺れる。水に墨を溶かしたように揺蕩う。霧が多い場所なのか、祭事の演出なのか分からない。私は揺れ動く影を見つめていた。祝詞をうたう声は小さくなり低くなり、人の声とも判別つかず葉の擦れる音と混じって聞き取りにくくなったが、その意味がより鮮明に響いた。

 ――とののみさ ろなこくるろし のとえろせよま りつほにのやれ てにをののま みやしさき

 ただぼんやりと動く影が見え、そのなかで小さい光がまばらに明滅している。あれは本当に鈴の光なのだろうか。いつの間にか私は脂汗をかいていた。暑い。息苦しい。むっとするような土の匂いが鼻につく。葉が擦れる音ばかりが大きくなって耳に痛いほどだ。霞がかった空気は顔に、鼻に、肌に重くまとわりつく。じっとしていられなくて私は立ち上がろうともがいた。脚が地に張りついたように重い。そんなに長い間、座っていたわけでもないのに……。

「……奥に行ってみる? ご神木があるんだって」

 会長に話しかけられて私は我に返った。立ち上がろうとしていたはずだが、ただ座ってぼんやりしめ縄で区切られた場所を見つめていただけだった。いつの間にか祭事は終わっており、神主姿の人も、先ほど舞っていた巫女姿の人たちもいない。あたりの霞はすっかり晴れていた。来たときと同じ、木々の緑が広がっている。軽い熱中症か何かだろうか。妙な暑さも消えている。私たちが座っている場所は木陰になっていて、木々を通り抜ける風が心地良い。

「ご神木?」

 私の喉は渇いていて、声は少し掠れていた。

「そう。この祭事が行われる前から、ここは信仰の対象だったみたい」

「そうなんですね」

 会長の説明を聞きながら私たちは小道を登っていった。



 週明け、私は友人たちに祭りについて話した。

 ところが倉上が古語研究会で扱っているテキストは存在しないと言いだした。

「検索しても何も見つからなかった。念のため図書館でも論文検索でも探してみたよ」

 『たのきたづまし』というタイトルなんだよね、と倉上は言った。私は頷いた。

 確かに授業などで、これまで一度も聞いたことのない言葉だった。ただあの音に似ているために私には馴染みがあり、存在を疑うということなど考えもしなかった。

「でも……祭事が行われるくらいだし」

「そうだよね」

 まだ発見されて間もないか、知名度の低いテキストなのかなと大賀が言った。

 でも論文検索でも見つからないって……と、倉上が言う。

「注釈がついたテキストを読んでるんでしょ? だったら何かしらの研究があるはずだよね」

 気をつけた方がいいんじゃないと倉上は言った。

 先輩たちに確認してみるよと私は答えた。



 そう答えたものの、私は古語研究会の人たちに連絡は取らずスマートフォンで検索してみた。

 友人たちが言った通り、何も出てこない。

 いくら知名度が低いと言っても、一件くらい出てきても良さそうなものだ。

 祭事が行われている駅名や町の名前で調べたが、祭事があることも出てこない。定期的に開催されているのに、まったく告知せず、知られてもいないなどということはありえるだろうか。

 マルチ商法かカルトか何かおかしなことに巻き込まれているのではないかと不安になり始める。検索したスマートフォンの文字まで歪んでいるように見えてくる。

 そもそも私が聞いていたあの音は何なのか。

 あの音に似ているから、私は興味を持ったのだ。

 今もあの音は聞こえるのか。

 確かめたいと思った。いや、確かめなければならないと思った。古語研究会に入ったのも、あの音が何か知りたかったからだ。

 実家に戻るにはかなり時間が掛かる。今日中に往復できるかどうかも分からないのに駅に向かい電車に乗った。

 スマートフォンは壊れてしまったようだ。画面の上の文字が揺れている。文字の黒色が滲み始める。画面から浮き上がって波間にあるように揺蕩う。書かれていない言葉が語りかけてくる。見つめているだけで頭がくらくらする。

 私は駅の案内のままに乗り継いでいった。駅も電車も混んでいる。どこか目的を持って向かう人混みのなか、自分が一人、あてなく歩いているように思ったが、実際は私も実家近くの森に向かっているだけだ。

 電車を乗り継ぎ最寄り駅に着いたあと、私は森に向かって歩き始めた。

 多少の変化はあるが、小さな頃と変わらず、畑と住宅が並んだ先に木々が見える。そこは小さな山で、山の中腹にある神社へと向かう山道の入り口がある。

 近づくと、さらさらと葉の擦れる音が鈴の音のように聞こえてきた。

 ――つたやせは しししきこ はのかゆふ しくつかそりさ かそのやあうさ どるいすか

 そこで私はあの音を聞いた。

 以前、意味が分からなかったが、今はその意味が分かるように思う。何の意味も分からなかった音が私に語りかける。森が呼んでいる。

 私は不意に我に返った。どうして急にこんなところまで来てしまったのか。どうして今、確かめないといけないと思ったんだろうか。

 ここまで取り憑かれたように来てしまった。いつの間にか日が沈みかけていた。今から急いで戻っても、終電に間に合うかどうかというところだ。

 足もとから沈み込むような、妙な感覚があった。なにか、とんでもないことをしかけているような……。

 ――つをに にだあむら いたみりせ みらたひ すだやさはかち たがしいと つゆしつ にくもま

 私は理由もなく冷や汗をかいていた。首の後ろが総毛立っている。

 早足に私は駅に戻り始めた。

 最初歩いていたが、そのうち走り始めた。息が苦しい。手も足もどこか遠く、水のなかを走っているようだった。

 小さい頃から幾度も通っていた道だ。角にある白い壁も、自動販売機も、季節折々の花が咲く植木鉢が並べられた家も、コンクリートで舗装された細い川も変わっていない。

 気づけば私はまた木々の前に立っていた。私は怖くなって子どものように震え涙が滲み始めた。

 葉の擦れる音が強くなり、ざらざらとして耳に痛いほどだった。

 ――かしきばにのしやみ れまさばな いりやるき

 瑞々しく葉が脈動している。暗い木々がうねり歪む。

 私は逃げ出した。

 日が沈んでいく。空が赤く輝く。太陽はじき見えなくなるだろう。

 足がもつれる。手足の感覚が遠いように感じる。

 私たちは日々、あれに合わせて行動してるんじゃない。

 あれが私にそうさせてる。

 あれが私を支配している。

 私はあの音の意味を理解する。世界の意味が塗り替えられていく。

 ――あらゆるところに神を見出して、あらゆるものを崇拝してきた。あらゆる神を受け入れ、あらゆる神に従ってきた……。

 そんなものじゃないと思う。これは、そんな崇拝するものでは……。

 息が苦しい。鼻から、どろりとした熱い液体が流れていく。それが鼻血だということに気づいていなかった。それよりも、うるさいほどに鼓膜を満たす音に気を取られていた。

 木々の葉が擦れる。さらさら擦れる音が、柔らかな音にも関わらず、鼓膜にこびりつくように耳につく。耳が、鼓膜が溶けていく。

 足もとがおぼつかない。水中でもがいているようなだった。足が溶ける。手が溶ける。飲み込まれていく。

 私はもがいた。

 体を動かしてるのか、動いているのかも分からなかった。暑い。息ができない。むっとするような土の匂いが押し寄せる。汗か涙か鼻血か、顔面がどろどろになっているように思う。耐えがたいほど熱い。

 日が沈む。赤く燃える太陽が山の端に沈んでいく。

 あたりが暗くなっていく。空の端に残った赤い光も消え、ゆっくりと暗闇が押し寄せてくる。

 足もとも道も目の前の木々も、次第に輪郭を失い、暗闇に溶けていく。

 あの夜、見た姉の亡霊は警告しにきたんだと唐突に思った。あのとき姉は私に警告をしようとして……、そのことに気がつかなかった。

 体が動かない。どこに体があるかも分からない。怖いと思った。私は叫んだ。ざらざらした音に覆われて声になっているかも分からない。

 しかしその意識すらも間もなく森に飲み込まれて消えていった。


    了

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私を呼ぶ声 陶木すう @plumpot

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