第4話
正義は、長年の生活習慣で、いくら前の晩に飲みすぎても、自然と五時半には目覚め、まだ眠っているひとみにそっと毛布を掛けて、走りに行こうとしたとき、ふとひとみの幼い頃のことを思い出した。
ひとみの家族が、よく正義の家へ遊びに来て、正義の親とひとみの親が、買い物に出掛け、正義がひとみの面倒を見ることがあった。正義がひとみの子守をするのはいつものことなので、正義は何とも思ってないし、ひとみは
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
と言って、正義の後ろを付いて歩くのも、これもいつものことである。
そんなある日、以前連れて行ったことがある、近所の小川のザリガニ釣りに、また連れて行ってくれとせがむひとみに、正義は仕方なしに連れて行って、ザリガニを釣っていると、黙って横で見ていたひとみが、直接ザリガニを捕まえようとして、小川にはまってしまったことがあった。ひとみは泣きじゃくるし、ひとみのパンツはびしょ濡れで、正義はどうすればいいか戸惑ってしまい、まずひとみのパンツを脱がせてワンピースの下をスッポンポンにして、おんぶして連れて帰り、家でひとみのパンツを洗濯して乾燥機にかけて、ひとみの親が帰ってくるまでの間に、何とかすませたことがあった。このとき正義は十五歳、ひとみは五歳だった。
ひとみの寝顔を見ながら
(ひとみは、もうあのときのことは、忘れてしまってるんやろな・・・。おっと、走りに行かないと、仕事に遅れてしまうわ)
ランニングシューズを履くとき、靴底に冷たさを感じ
(まだ、昨日の雨のせいで、靴底が完全には乾いてないな)
走る前に、正義が空を見上げると
「今日はええ天気や」
そして正義は、いつもの調子でいつものコースを走りに出掛けた。ただ、気持ちの張りがいつもと違う。ひとみがいるのといないのと。
ひとみは、正義が玄関を閉める音で目覚め、玄関を見るとランニングシューズだけが無いので、正義が走りに出掛けたことがわかった。ひとみが起きて、部屋の掃除をしようと思い、窓を開けると爽やかな風が、部屋に入り込んできた。しかし、窓からは向かいのマンションの壁が見えるだけ。そして、わずかにマンションの隙間から、青空が顔を覗かせる。ひとみは、掃除を終えると、今度は朝食の準備に取り掛かった。
(しかし、何もないなぁこの家は。男やもめって、みんなこんな感じなのかしら。今朝は、とりあえずコンビニで買ってきたもので済ませといてっと。よし、お兄ちゃんが仕事に行ってるあいだに、買い物に行って揃えるわ)
と。ひとみはもう、正義の女房気取りである。
正義が、ランニングを終えて、帰ってくると
「おはようお兄ちゃん。朝ごはん出来てるわよ」
「うん」
正義は、着替えを持って、トイレに入る。
(しかし、これはたまらんなぁ。トイレで着替えるのは狭いし)
正義が、着替えたジャージを、窓際に何時ものように干そうとすると、ひとみが
「そこに置いといて。コインランドリーで洗ってくるから。もう何日も洗ってないんでしょ」
図星なので、正義は返す言葉が見つからない。正義がジャージを何気なく臭ってみると、鼻が曲がるような臭いに顔をしかめてしまい、その顔を見たひとみは
「でしょ」
と、ドヤ顔だ。
コタツの上には、昨日買っておいたパンと目玉焼きが並んでいた。
「ごめんねお兄ちゃん。まだ、これくらいしか出来なくて」
「これだけでも十分や。俺ひとりやったら、食パンだけやから」
「お兄ちゃんが仕事に行ってるあいだに、色々買ってくるわね」
「どうせすぐ出ていくんやから。そんなにいる物なんかないやろ」
「ううん、当分いるつもりよ。ひょっとしたらずっとかな・・・。いただきます」
呆れ顔の正義を無視し、ひとみはコタツの前に座って、パンを食べだした。正義もコタツを挟んでひとみの前に座り
「お金はあるんか」
と聞くと、ひとみは
「少しならあるわ」
正義は、ひとみにお金を渡すべきかどうか考えた。ひとみが、これからもずっと居てくれるとしたら、どれだけ正義の心の励みになるだろうか。しかし、ひとみの将来にとっては、よくないんじゃないかと考えてしまう正義だ。お金を渡すことによって、ひとみが幾らでもこの家に居ていいんだと、勝手に解釈されても困るし。そして、ひとみの両親、正義にとっては、お世話になった叔父と叔母に悪いのではと考えさせられてしまう。
(えーい、なるようにしかならんわ)
正義は、押入れからお金を出して
「ここに五万円あるから、買い物してこいや」
ひとみは、正義をじっと見つめ
「お兄ちゃん、ありがとう。私、ここに居てもいいんだね」
「うん」
と、正義は答えたが
(やっぱり、そういうことになるわな)
「じゃあ、仕事に行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
ひとみの声を背に受けて、正義は仕事に出掛けた。正義は
(十八歳から、この安アパートに住んで、行ってらっしゃいと言われたのは、初めてやな)
色とりどりのコスモスが、たくさん咲いている公園の横を、会社まで歩きながら
(俺は、ひとみが幸せになってくれればいいと、何時も思ってたけど。ひとみのことが、好きやったんや。今頃になって気付いたわ。そういえば、ひとみが駆け落ちしたと聞いたとき、俺は無性に腹が立って、ようさん酒を飲んだもんな、二日酔いになるくらい。自分の気持ちって、意外とわからんもんや)
正義が、ひとみとの思い出にひたって歩いていると、すぐに会社に着いてしまった。
(よし、今日も頑張るぞ)
と、いつもの仕事の持ち場へ。
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