第34話 帰還

 ようやく、平坦な場所に下りれたのは日も沈む頃。

 ただしそこは凍りついた氷河と雪の上。一見すると平坦に見えても、所々クレバスもある。急ぎたいのは山々だったが、日の落ちた後、歩き回るのは危険だと判断した。

 食料も水もあとわずか。ここでビバークするのは名案ではないが、円堂を背負ってクレバスに落ちれば、助かる見込みはない。


「先輩、ここで一晩、休んで明け方また歩きます。いいですか?」


「ああ…」


 背中が痛むのだろう。眉間にしわが寄り、返事は短い。だが、意識はしっかりとしていて、眠っても起きられなくなることはなさそうだった。

 ピッケルを取り出し、そこへ簡易な雪洞を掘る。と言っても、大袈裟なものは掘っていられない。吹きつける風を遮れるくらいあれば良かった。

 ありがたいことに、高度を下げるにつれ、天気は良くなっていった。ザックからツェルトを取り出し、円堂と自分でそれぞれ被る。これで幾分寒さは和らぐだろう。

 もう少し、下山できれば雪もほとんどなくなる。後はひたすら、村まで歩くだけだ。下まで行けば、途中、沢もあるだろう。水だけは確保できるはず。

 明るいうちに地図を確認したが、ベースキャンプへ向かうより、一番近い村までの方が距離が短かった。そうは言っても、かなり歩くことにはなるのだが。

 このまま行けば、三日か四日程度で村に着くだろう。ピッケルもアイゼンも必要ない箇所まで来れば、スピードも上げられる。後は岳自身の体力だった。

 そうはいっても、やはり円堂の重量がかなりあり。今も一歩一歩、歯を食いしばる様にして歩いている。

 今はまだ体力があるからいいが、村が近づくころにはかなり消耗しているだろう。

 それでも、円堂を置いて行く選択はなかった。ここまで来たのだ。あと少し、踏ん張ればいいだけのこと。 


 そうすれば──。


 岳の目には、ずっと笑う大和が浮かんでいる。大和に会うまでは、諦めるわけには行かなかった。

 傍らでは先に眠りについて円堂の寝息が聞こえる。なんとしても、二人で帰る。


 待っていてくれ。大和。


 月の昇り始めた夜空を見上げた。そこには、岳達の苦労など関係なく、満天の星が輝き出していた。


+++


 報告のあった次の日の早朝。

 まだうっすらと東の空が紫に染まる程度の明け方、村人の騒ぐ声に真琴は目が覚めた。


 こんな時間に?


 畑仕事や家畜の世話にしても、この時間に声を上げて騒ぐことは今までなかった。何かが起きたのだ。

 真琴は簡素なベッドの上に置いていた寝袋から抜け出すと、身支度を整え眼鏡をかけ外へと急いで出た。なぜか胸騒ぎがする。

 薄暗い中、明かりが揺れているのが遠くに見えた。村の外れの道筋だ。今も幾人かがそちらに向かっている。村の男たちだった。

 と、同じく起きてきた円堂の事務所スタッフに声をかけた。


「何があったんですか?」


「いや、俺も今起きた所で──」


 スタッフは通りかかった村人に現地の言葉で話しかける。と、返ってきた返事に困惑した表情を浮かべた。


「なんて?」


「それが──『来た』とかしか…。いま、ちゃんと話せる通訳を呼びますね」


 来た?


 真琴は通訳を待たずそちらに向かう村人と同じように、軽く小走りになって後を追った。

 足元の道は舗装などされていない。懐中電灯もヘッドランプも持たずに向かった真琴は、途中でつまずきそうになった。


「っ!」


 慌てて体勢を立て直した所で、砂利を踏む音と、小さな笑い声を聞いた気がした。顔を上げる。着けているヘッドランプが眩しくて誰か分からない。


「真琴、暗いのに走るなよ。山道は…慣れていないだろ?」


 言葉を失くした。

 声の主が言いながらヘッドランプを消した為、薄明かりにその姿が浮かび上がる。

 そこには、すっかりやつれてはいるものの、しっかりとそこに立つ旧知の友人の姿があった。


「岳…」


「円堂先輩は村人に任せた…。背中を打ってな。直ぐに医療スタッフ来るはずだ。俺も後で診て貰うが…。多分、大した怪我は──」


 真琴は立ち上がってふらふらと岳の元まで歩み寄ると、そのまま腕を伸ばし、きつく抱きしめた。確かに岳だった。


「──真琴?」


「心配、かけすぎだ。バカ野郎…」


「ふ、なにも言い返せないな。済まなかった…。真琴」


 岳もその背を、強い力で抱き返してきた。


+++


 岳の帰還後、真琴は直ぐに、日本で待つ大和や亜貴、壱輝らに連絡した。

 日本とは三時間の時差がある。向こうは朝七時くらいだろうか。皆、まだ家にいるだろう。

 岳は真琴と再会後、簡単な診察を受け、半ば意識を失う様にして眠りについた。大和に連絡をしたいと口にしながら。

 岳は疲労と脱水症状、栄養失調、打撲等あったものの大きなケガや病気は認められなかった。

 対して円堂は背中の骨にひびが入り、全治に最低二カ月は必要とのことだった。詳しい検査は日本に帰ってからになるらしい。それまでは車いすでの移動となる。

 そんな状態の為、円堂だけ先にヘリで中心都市へ飛び、先に日本へ帰ることとなった。

 岳は目覚めたのち、大和に直ぐ様連絡を入れた後、遭難にいたった経緯の報告や、取った画像の編集について、スタッフらと話し合い、全て終わるとようやく帰国の途に就いた。

 真琴も仕事を休み、結局最後まで付き添った。そうはいっても、体調は万全ではない。誰か気心の知れた者が傍に付き添うのがいいと思ったからだ。

 岳は村に到着してすぐは疲労困憊して、歩くのも会話もやっとだった。滑落してから三日間、円堂を背負いほとんど休まず歩き続けたのだ。体力を削られて当然だった。

 岳に先んじて真琴が連絡を入れた時、電話口の大和の声は少しくぐもっていた。それは泣きもするだろう。


 これで安心していられる──。


 もう、こんな役目は金輪際ごめんだと思った。


+++


 岳は端末の通話ボタンを押した。


 これで大和につながるはず。


 大和は家にいると真琴に言われていた。

 泥のような眠りから覚めると、真琴から先に大和達へ連絡はいれてあると知らされ。直ぐに岳も連絡を入れた。


 ようやく大和と話せる──。


 緊張と喜びと興奮とがないまぜになって指先が少し震えた。

 受話器のマークが揺れる。通知音のがしてすぐ、相手が応じる。通話の文字が躍った。


「…大和?」


『……』


「大和か? 俺だ。岳だ。──聞こえているか?」


 ここはそう通信状態が良くない。気をつけないとすぐに切れてしまう。なるべく切れない様にと願いながら言葉を続けた。


「すまない。一日、ダウンしてたんだ。真琴から連絡が先に行ったと思うが…。ひどく心配をかけただろ? けど、大和に会いたくて、必死で戻ってきたんだ。大和、声を聞かせてくれないか?」


 暫くの沈黙の後、


『岳…、俺──』


 泣いている様だった。途端に胸が締め付けられるように苦しくなる。

 岳は近くの壁に背を預けると。


「俺は無事だ。もう、心配しなくていい。かならず、お前の元に戻る。約束、したろ? 真琴から聞いた。大和はずっと俺が生きて戻って来るって、信じていたって。ありがとうな。大和。もう、こんな辛い目には合わせないから──」


『…岳。会いたい…』


「大和…。うん。すぐに帰る。帰るから、待っていてくれ」


『会いたいんだ…』


「大和…」


 泣き声に混じる声。そこに蹲る大和が目に浮かぶようだった。

 すぐにでも抱きしめたかった。どれだけ辛い思いをしたのか。もし、自分が大和の立場だったなら、きっと絶望の淵にいたことだろう。

 岳はいたわるように、優しい声音になると。


「大和。愛している。必ず帰る。あとちょっとだ。まっていてくれ」


『…うん…』


 答えた声はどこか笑みが含まれている気がした。


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