第25話 離れて

 初奈とこの一週間、顔を合わせていない。

 今までこんなに長く、離れたことはなかった為、何か抜け落ちてしまった様な物足りなさを感じた。

 けれど、父親が帰ってくれば、また初奈と二人きりの生活が始まるのだ。それまでの僅かな間の事と思えば、気にならなくなった。

 それに、幼い妹の面倒を見る事から解放され、初奈の兄としていなくていいのは気楽だった。

 こんな見てくれのため、妹の事など放っているように思われるが、祖父母が亡くなってからは、食事以外は面倒をみてきたのだ。

 洗濯も掃除もそれなりだったが、それでも初奈と二人、協力しながらやって来た。

 父親が長期の仕事から帰って来た時、


『良くやってるな』


 そう言って、真っ黒に焼けた顔で笑うのを見ると、それまでの苦労が報われる気がして。

 父の代わりに、兄として妹を守らなければ、そう思った。自身はすっかり堕ち切ったが、初奈はそうさせたくない。

 初奈はひいき目なしで可愛い。はっきりとした顔の造作は父親譲りで。子どもだからと油断は出来ない。ちょっかいを出そうとするものがあれば、すぐに阻止した。

 よからぬ連中とつるんでいたため、たまにそう言うことがあったのだ。

 そうやって、懸命に生きてきた。

 そんな中、大和らの家に招かれ、何かが変わって行って。

 ここでは初奈と同じ、きちんと守られるべき子どもとして扱って貰えるのだ。ことに大和は、壱輝の素行の悪さを注意し怒ってくれた。

 自分の為ではない。壱輝の為に怒ったのだ。大人に叱られたのはそれが初めてだったかも知れない。


 なのに、俺は──。


 壱輝のした行為は、裏切りだった。

 今更ながら、自身の行為に自己嫌悪に陥っていて。大和は気にしていないと言っているらしいが。

 すぐに謝りたい所だったが、真琴の許可は下りなかった。あんな行動を起こしては、大和のそばに置くわけには行かないのだろう。

 謝るのは頭が冷えて、きちんと反省が出来てからだと言われた。

 そうして、真琴との二人きりの生活は穏やかに過ぎて行った。

 

「壱輝、顔を洗ってこい。それから朝食だ」


「ん…」


 リビングに顔を出すと、キッチンに立つ真琴が声をかけてくる。

 真琴と二人だけの生活。初めこそ息苦しさを感じたが、一人の人間として扱ってくれるのが心地よくなって来ていた。

 今まで壱輝は兄で、男で。何事も中心は妹の初奈だった。だが、今は自分と真琴の二人きり。しかも、真琴は年上で大人で。壱輝が守る必要はないのだ。

 壱輝はリビングを出る前、キッチンに立つ真琴に目を向けた。サラダをボウルにもってテーブルに出すところだ。

 誰かが自分の為だけに動いてくれる、その姿に、懸命に弁当を作ってくれていた大和の姿が重なった。真琴も大和と同じなのだ。

 現に真琴は壱輝の件についても積極的に動いてくれている。そこには大和の為、という理由もあるのかもしれないが。

 誰かが自分の為だけに動いてくれる、そのことが嬉しかった。


+++


 そんなふうに真琴と過ごすうち、何となく気づいた事があった。


「ほら。弁当を忘れるな」


 朝食を食べ終わり、食器をシンクに置きに行くと、先に食べ終わり、洗い物をしていた真琴がそう言ってカウンターの上に視線を向けた。


「ん」


 壱輝はカウンターに置かれた弁当を手にする。ブルーの生地にストライプの入ったフキンに包まれていた。大和の時と同じだ。

 まさか弁当を用意してくれるとは思わなかった。お金を渡され、買ってこいと言われるものと思っていたのだ。

 当然、そのつもりでいたのに、真琴は当たり前の様に用意してくれた。


「こう言う事、するんだな」


 壱輝がそう言えば、真琴は口元に笑みを浮かべ。


「大和の影響だな。自分だけだったら弁当なんて作らない。案外、楽しいものだ。大和がいつも楽しそうに作っているからなんでだろうと思っていたんだが」


「ふうん」


 確かに大和はいつも鼻歌を歌いながら、用意をしている。

 黙っている時は、集中力がいる作業の時だけで。一番の例が卵焼きだ。焼くときは、いつも押し黙って、じいっとフライパンを見つめている。あまりに真剣な様子に誰も声をかけようとはしない。


「料理を始めたのも、大和の影響だ。彼に食べて欲しくてな」


 ふと思った。


 もしかして。


 真琴はいつも欠かさず大和に連絡をいれている。メールやメッセージアプリ、電話でも話す。その日の様子を聞いたり、聞かれたことを答えたり。いつも楽しそうで。


 真琴は、大和が好きなのか?


 友人として信頼しているのは分かっていた。けれど、それにしては態度が違う。

 大和に対するときは誰よりも優しく接していた。知らないものが見れば、真琴がパートナーの様だ。

 ある日、藤の迎えで帰宅後──藤はまったく愛想がなく、車で迎えに来ても、車内で話すことはなかった。それが壱輝は気楽でもあったが──真琴の帰宅を待っていれば、いつもより少し遅れて真琴が帰宅した。


「すまないな。藤も待たせた」


 どこかいつもより表情が緩んで見える。何かいいことでもあったのだろうか。


「いいえ…」


 ソファの端に腕を組んで静かに座っていた藤はほとんど微動だにせず答える。

 ちなみに、藤はそのまま真琴の帰宅まで部屋にいて、真琴が作った夕飯を食べ帰って行く。

 真琴を待っている間、先ほどの様に微動だにしない。テレビや端末でネットを見ているわけでもなく。静かに目を閉じてそこにいる。たまに持ってきた本を読んていることもあったが。

 初めこそ、違和感だらけだったが、まったく動かず静かにそこにいるだけの存在に、今はすっかり慣れてしまった。まるでいないものとして壱輝も過ごしていた。

 真琴は壱輝が部屋にいるようになってから、勤務時間を変えてもらったらしい。そのため、出勤は通常より早く、壱輝もそれに合わせて登校するようになった。


「なんかあったの?」


 藤と違って、どっかりとソファに座っていた壱輝は端末画面を見たまま尋ねる。

 真琴は着ていたスーツの上着を脱ぐと椅子に掛けた。そうして手を洗うとそのまま壁にかけてあったエプロンを手に取る。


「大和の所に用があってな。ついでにおかずももらってきた。あとは味噌汁を作る程度だ。すぐにできる」


 どこか嬉しそうだったのはそのせいか。


 やっぱり。


 藤が帰った後、キッチンで洗物をする真琴に尋ねた。


「あんたさ。大和が好きなの?」


「当たり前だ」


「恋愛対象として?」


 一瞬、間を置いたものの。


「…否定はしない」


「それって。俺と同じってこと?」


 真琴はちらと壱輝を見たあと、手を動かしながら。


「なんだ。やっぱり、大和が好きだと認めるのか?」


「…べっつに。いいじゃん。それよか、あんた。そうなんだ?」


 真琴は洗い終えた食器を拭きにかかる。ここには食洗器を置いてはいないらしい。一人暮らしだ。しかも賃貸物件。そこまでする必要もないのだろう。


「好きだが、君の様に気持ちを押し付けるつもりはないな。大和が幸せならそれでいい、そう思っている」


「なにそれ。恰好つけてんの?」


「恰好つけじゃない。本気で好きだから、そう思えるんだ。大切な相手が不幸なのは悲しいだろう? 岳といる大和はこの上なく幸せだ。それで十分なんだ」


「…わかんねぇって。それのどこが十分なんだよ? 相手が他の奴とくっついてんだぜ? 自分に振り向いて欲しいとか思わねぇの?」


「大和が求めていないからだ。無理やり思いを向けさせようなどとは思わない」


 チクリと釘を刺される。壱輝は真琴を睨むと。


「そんなの、ただ自信がないだけなんじゃねぇの? 好きなら誰だって、自分を見て欲しいし、他の奴と仲良くしてるのなんか、見たくねぇよ」


 真琴は笑う。


「まだまだ子どもだな」


 カチンと来た。


「おかしいって。そんなの本気で好きじゃねぇって。見てるだけでいいなんて、辛いだけだろ?」


 真琴はあくまで冷静だ。カウンターに吹き終えた皿や茶碗を置くと、


「本気で好きだからこそ、相手の幸せを願えるんだ。悲しむ顔は見たくないし、大和が今、笑っているならそれでいい」


「……」


 そう言って、真琴は微笑むが、壱輝には分からない。と言うか、ほとんどの人間が分からないのではないかと思った。

 けれど、そこまで真琴に言わせる大和が、羨ましくもあった。深く愛されているのだ。


 俺もそんなふうに誰かを思える日が来るんだろうか。


 でも、今は無理だと思った。岳を思ってため息をつく大和を見ると、ムカムカするし悔しくなる。自分だったら、そんな目には合わせない、そう思うのだ。

 自身の父親のお陰で、放っておかれる、置いて行かれる側のの気持ちは十分分かっている。


 俺だったら。


 そう思わずにはいられなかった。


 その後、八野からは脅す様なメッセージが幾度かあった。それを真琴に伝え、いつでも対応出来るように手筈は整えていた。

 後は、痺れを切らし無視され続ける事に、苛立った八野が行動を起こすのを待つだけ。

 きっとそのうち、壱輝と会おうとするはずだ。

 そんな、日々が続く中、想像しなかった連絡を受けた。


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