第10話 見送り
とうとう、岳が出発する日となった。泣くまいと思ったが、あと少し、どこか突けば涙が出そうになっていて、俺はかなり挙動不審になる。
岳が、いなくなる…。
心の中には嵐が吹き荒れていた。アワアワと小さなコツメカワウソが行き場をなくして走り回っていると思ってくれていい。
実際もあちこちきょろきょろして見せ、テンション高めになる。一見するとただのおのぼりさんだが、本当の所は他に気を向けていないと泣きそうになるからだ。
と、ふと目を向けたガラスの向こうに、普段見慣れない景色が広がっているのに気がついた。思わず足を止め幼い子供さながらにガラスに張り付く。
「すげー、飛行機だらけ…」
全面ガラス張りのエントランスから、滑走路がよく見渡せる。出発のため、客の搭乗やら荷物の搬入やらを済ませた航空機が待機場所へと移動していくさまが見渡せた。
「空港だからな? …大和」
ようやく落ち着きを見せた俺に、岳が声を掛けてくる。振り返ればそこには岳しかいなかった。
「皆は?」
「あっちのラウンジで出発まで待つそうだ」
岳は背後にあるラウンジを示した。
「ふーん…」
皆、気を使ってくれたのか。
見送りに来たのは、亜貴に真琴。休日だからと、岳の大学山岳部の後輩、祐二も来てくれた。円堂の見送りに、壱輝と初奈もだ。
他にも日本から同行するスタッフが数名。テレビ番組としてその映像も流すらしく、制作スタッフが同行するのだ。
もちろん、撮影者は表に出ない。円堂がナビゲーションとして表に出るだけで、後はナレーションと、現地のスタッフが出演するだけらしい。
はじめ岳も映ればいいのにと思ったが、岳が人並外れた容姿を持つことを思い出し。やはり敵は増やしたくない。俺は岳への出演依頼が来たら、私情だろうとエゴだろうと断固反対するつもりでいた。
搭乗まであと三十分ほど。岳は俺の傍らにやってくると、さりげなく腰に腕を回し、引き寄せてくる。空港内にはそんな風に寄り添う人々が多々いて、誰も気には留めなかった。
「…このまま、連れていきたい」
「ふふ。じゃ、その胸ポケットに入れてけよ。大人しくしてるからさ」
「胸ポケットか。いいな。いつでも大和が取り出せる…」
岳も笑うと、更に引き寄せ頭に頬を寄せてきた。岳の香りに包まれホッとする。
ああ、やっぱりいいよな。岳とこうしているのは。
俺は遠慮なく岳に寄りかかった。
「ちゃんと無事に帰ってくるから、大和も無事でいてくれ。何かあっても無茶はするな? ケガなんかしてたら承知しないからな?」
岳の指先が左の頬をくすぐる。そこには薄っすらと白い傷跡が浮かんでいた。
良く見ないと分からない程度のそれは、いまだ岳の心に引っかかる事案らしく。それが一番初めについた傷で、岳にとっては腹の傷含め、全ての代表格になっているらしい。
「岳こそ。約束、守れよ? 次はちゃんと付いていくからな?」
「ああ…。絶対だ」
そうして、岳は俺を正面から抱きしめると、顎をとりキスを仕掛けてきた。
俺は臆することなくそれを受ける。普段ならこんな公衆の面前でありえないが、今は気にならなかった。
岳の二の腕を掴んで少し背伸びして。
岳…。
本当は、一瞬でも離れてはいたくなかった。
+++
「行っちゃったね?」
飛行機が飛び去った方向をじっと見つめていれば、亜貴が声をかけてきた。
すらりとした立ち姿。少し伸びてきた前髪が僅かに目にかかる。岳の声によく似ていた。
「寂しいけどさ、無事帰ってくるって約束したし、次は絶対俺も付いてくし…」
亜貴は俺の傍らまで来ると、ポンと背中を叩いて来た。
「仕事終わったら直ぐに帰ってくるって。俺たちに大和を任せておけないに決まってるもん。兄さんたら、ほんっと、搭乗間際まで心配な顔してて笑っちゃった。誰も盗ったりしないってのに」
真琴も、もう一方の傍らに来ると、
「分かっていても心配なんだ。油断ならないと思っているからな? それに、二人のこともある」
真琴は待合の椅子に座っている初奈と壱輝に目を向けながら、そう口にした。傍らには祐二がいて、何事か初奈に話しかけている。
初奈はあれからも家では非情に大人しく、文句も我がままも言わなかった。声をかければ返事はするし、少しは話しもする。自分からは何も言わないが、話しかければ会話は成り立った。
壱輝は相変わらず。態度はつっけんどんで、会話も途切れがちで一方通行。ただ、弁当は何も言わずに持っていくようになった。
あれ以来、キャラ弁は控えている。食べてくれなくなったら困るからだ。時折、むくむくと悪戯心が湧いて、ウィンナーをタコやカニにして──時にはそれに飽き足らず、ネコにしたりカワウソにしたり、その他もろもろの動物にして──鬱憤を晴らしていたが。今のところ、壱輝に文句は言われていない。
「大丈夫だって。なんとかなる。昔の俺だと思えば…。俺はぐれてる暇もなかったけどな」
働かなければ食べていけなかったのだ。大体、グレた所で誰も相手にしてくれない。
その点、壱輝と初奈はまだましだった。一応、生活費はあったからだ。父親もまともに働いていて。
その生活費については、専用の口座を今回新たに作った。そこへ振り込まれる給与から一定額が直接振り込まれる様にしたのだ。
流石に引き出しに入れておく──では不用心だし、心もとない。これは真琴の提案だった。ひとりの親としてそれくらいはして当然だろう。円堂はいい案だと素直に従ったらしい。
「円堂先輩も悪い人じゃないんだよな。人間的な魅力はある…」
祐二は、出発前に語らう岳と円堂を見ながら俺にそう言った。
「だな。そんな感じだ」
円堂は豪胆そのものな男だった。いかにも山男らしく、顎髭を生やし体格もがっしりしている。日に焼けた顔は笑うと愛嬌があった。意外に異性にもてるらしく、女性には困っていないらしい。
だが、本命を作っているわけではなく。何かあった時に面倒だからと言う理由らしい。
「ただ、人生のパートナー向きじゃないだろうな。だいたい、興味を持ってくれる女性に対してろくに気を使わないからな?」
祐二はつづけた。俺は唸りながら。
「確かに、気の利きそうな人じゃなさそうだなぁ」
好きな事には没頭しそうなのは見て取れた。悪い人間ではないのだ。だが、家庭的ではないのは分かった。
本来なら一生独身で通した方がいいくらいだったと岳は言ったが、確かにそんな気がした。
「けれど、女性の方がその魅力に惹かれ放っておかないんだ。人間的な魅力はあるんだろうな。大学時代、円堂先輩にはひっきりなしに女性がくっついてて、切れた試しがなかったしな」
「魅力かぁ」
好きな事をしているせいか、目をキラキラと輝いていたし、なにより身にまとうオーラが溌溂として活気に満ちていた。それに惹かれるのだろう。
でも、俺は岳の方がいいと思う。
贔屓目ばかりではなく。容姿もさることながら、岳は基本優しい。気も使えるし、付き合った相手を放って置くことはないだろう。かゆいところに手が届くタイプだ。
付き合うなら断然、岳だろう。学生時代、女性陣に人気はなかったのだろうかと思っていれば、祐二はニッと笑んで。
「でも、岳先輩の方が、密かな人気は高かったけどな」
「密かって…?」
どう見ても岳が上なのに、密かとは。
「ほら、紗月さんと付き合ってただろ。あれだけの美人だと、性別関係ないし。なかなかな対抗するのはな。それで皆、遠巻きにして見てる感じだったな…」
「ああ。あのスゲー綺麗なひとかぁ…」
岳の学生時代の恋人。驚くほどの美貌の持ち主で。確かにあれを見れば、一気に戦意消失するだろう。
容姿だけで見たなら、俺がどうして岳と付き合えたのかと不思議に思うくらいだ。もし、俺が同じ大学の学生だったなら、確かに密かに見つめていただけだっただろう。
すると、祐二はイタズラっぽい笑みを浮かべ。
「ま、今は大和ひとりにゾッコンだけどな。ほかなんて、まるっきり見えてないって」
「……っ」
祐二の言葉に、俺はただ押し黙った。確かに岳はずっと俺だけ見つめ続けてくれていて。申し訳なくなるくらいだ。
そんな岳とも当分、会えない。
ロビーを子どもが声を上げながらかけて行く。それで、現実に引き戻された。空港内はさざめいている。
今の時代、通信は確立している。ある程度なら連絡は可能だった。ことに目的地に行くまでの道中の村にも、それなりに設備は整っている。連絡不可になることはなかった。
まったく断たれるわけじゃない。それに空は繋がっていて。空を見上げれば岳がそこにいると思える。
「大和なら大丈夫だと、岳も託していったんだろう。どんな状況だろうと、大和は乗り越える力がある…」
真琴がどこか遠くを見るようにして口にする。
「そ、そうか?」
「大和は、『強い』んだ。全てをはねつけ、打ち負かす強さじゃない。向かって来たものを上手く受け流し、乗り越えて行く。──とても、しなやかな強さだ」
真琴はそう言ってこちらを見つめて来きた。
嫌だな。照れくさいじゃないか。
「そう、かな…?」
すると、横から亜貴が。
「そうそう。大和ってそんな感じ」
「ふーん…」
「岳がいなくて寂しいだろうが…。俺も亜貴もいる。きっと乗り越えられる」
「…おう!」
微笑む真琴に俺も笑顔を返した。
滑走路から飛行機がまた一機、飛び立つ。力強い離陸に自身を重ねた。
俺、頑張るからな。
ロビーから見える空を見上げると、心の中、岳に誓った。
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