第9話 岳のこと
出発前日、家に併設された事務所で岳は深く息を吐き出した。出発ギリギリまで仕事にかかりきりとなり、大和と過ごす時間が削られる。
仕方ない判断だったとは言え、大和を連れていかれないと分かった時、酷く落胆した。
もともと大和を今度の仕事に連れていく前提で予定を組んでいたのだ。
それなのに──。
デスクの上に置かれた山岳雑誌には、インタビューに、にこやかな笑みで答える円堂の姿があった。
この男の無責任が原因で、いらぬお節介を妬くことになったのだ。
大学時代の山岳部の先輩でもある円堂嵩史は、写真家であり、登山家であり。登山ガイドも請け負っていた。
このガイドについては、国内外問わず、依頼があればどこでも務めていて。自身の趣味と実益を兼ねた仕事。家族を放ってあちこち飛び回っていた。
ただ、自身の命が危険に晒される仕事でもあり。どんな仕事でもその危険はあるが、ことに登山は直結している。険しい山ほど、死はすぐそこにあった。
しかし、円堂は的確な判断力と実行力を持って、幾度かの危機を乗り越えて今に至る。
実力もあり、魅力的な人物でもあるのだが、好きなことに熱中する余り、プライベートがおろそかになり。真面目ではあるのだが、それは自分の好きな事に対してだけ。大きな子どもの様だった。
せっかく、大学時代から連れ添って学生結婚した女性とも別れ、子どもの世話も祖父母に押し付け、その死後は殆ど放置し今に至る。
金だけは切らしたことが無いと豪語していたが、子育てがそれだけでいいはずがない。
自身は好きな事が出来ているから幸せだろうが、それに巻き込まれる周囲はたまったものではない。
山では非常に頼りになる男だが、普段の生活ではまったく頼りにはならなかった。
そのつけを大和に払わせることになるとは。
大和に面倒な仕事を押し付けてしまった後悔はある。しかし、他に選択肢がなく。
あの日、円堂の家のリビングのソファに座る、すれ切った壱輝と、全く話さない初奈を見た時、こうするよりほかないのだと悟った。
自分をなんとか認めてもらおうといきがる壱輝に、面倒をかけてはいけないと、すっかり自分を抑えることを覚えてしまった初奈。
正反対のふたり。大人の都合による犠牲者だった。
そこに母を亡くし、祭壇の前で小さくなって座っていた亜貴や、なにもない質素な部屋で、ぽつんと過ごしていただろう大和を見た気がして。
ことに、大和の境遇はこの子どもたちと似ている。大和の姿をそこに重ねて、放ってはおけなかったのだ。
それに、彼らがここまで生きてこられたと言う事は、きっと他に面倒を見てくれた人間がいたはずで。それを繋ぐ役目があると思った。
大和なら、きっと大丈夫だ。
同じように大人の都合によって、半ば一人で奮闘してきた大和なら、きっとこの子たちの側に寄り添えるはず。
岳の突然の提案に、大和は異を唱えることもなく、ふたつ返事で快く了承してくれた。
その大和が、会った日早々、壱輝に突き飛ばされ、怪我をしそうになって。仕事を終え、隣の棟に大和の様子を見に行った時、それに遭遇したのだ。
隣の棟から廊下を歩いて行くと、大和が亜貴と会話しているのが、開け放たれたキッチンの扉の向こうから聞こえて来た。
ふと見ると暗がりに壱輝の姿がある。話しが終わると、出ていった亜貴の代わりに壱輝がキッチンに入って行った。
なんとなく、何かが起こりそうな気配がして、扉の影から再び様子をうかがう。
と、程なくして、ふざけて軽くハグした大和に驚いた壱輝が、大和を突き飛ばしたのだ。
普通の人間なら驚いただけでそこまで反応しないだろう。せいぜい、固まるくらいだ。壱輝はまるで反射に的そうしてしまったようで。
そこに壱輝のなにかを感じ取ったが、だからと言って、大和を傷つけられるのを黙って見てはいられない。
咄嗟に伸ばした腕の中に、大和は収まった。間に合わなければしたたかに戸棚に頭をぶつけていただろう。ガラスが割れればどこか切っていた可能性もある。
壱輝の激しすぎる反応に、
なにかある──。
わかっていても、許せなかった。
表面上はそれほど怒っては見えなかっただろうが、壱輝は岳の怒りを肌で感じたのか、岳の問に素直に頷き部屋に戻って行った。
自分の見ていない所で、大和になにかあったら──。
傍にいなければ、今のように守ることもできない。
やはり、大和を置いて行きたくなかったな…。
自身の決定とは言え、岳はひどく後悔した。
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