きみだけを/告白

伊藤充季

本編

 九月もおしまいのころ、放課後になると、涼しい風が窓から吹きこんでくる。蝉たちも鳴くのをやめ、なんとなく秋の草花のかおりがするような陽気のなか、わたしは音楽準備室のピアノの前に座り、ふたを開けた。

 埃臭い準備室のなかで、ピアノの真っ黒な塗装が、きらきらと輝いている。よく表面を見れば、ささくれや、こまかい傷がある。それでもわたしには、このピアノが世界でもっともきれいなピアノのように思えるのだった。かるく指を置いて、まずCの音を鳴らす。ついでA。うん、やっぱり、チューニングはめちゃくちゃ。きっと、長いあいだ調律されていないのだろう。

 それでもかまわなかった。ゆっくりピアノを弾けるのなら、なんでも。

 ふう、と息を吐き、また吸って、鍵盤のうえに指を置く。もっとも基礎的な和音を鳴らす。C、E、G――ど、み、そ、と口でも歌いながらまさに鍵盤を叩こうとしたそのときだった。

 ガシャン! という音とともに、部屋に誰かがなだれこんできたので驚いた。とっさに振り下ろされたわたしの指は、見当違いの和音を鳴らしてしまう。べつに悪いことをしているわけではないのに、振り返りながら後ろ手でピアノのふたを閉じる。そこにいたのは、ちょっと猫背気味で、ショートカットの女の子だった。

 わたしの目を見て、

「さ、さっちゃん」

 とオドオドしたような声。わたしの指が放った見当違いの和音はまだ空気中を漂っているように思われて、それを伴奏にするかのごとく、名前を呼んでくる。

「みなと? どうしたの……こんなところに来るなんて」

「うん、こ、ここにいるって聞いたから」

「あれ、先生に訊いたの?」

「うん、そう」

 その女の子は、五月いのつきみなと。わたしの親友だ。でも、みなとがひとりで音楽室までやってくるなんて……

「みなと、大丈夫なの? こんなところに来て」

「う、うん。へいき。へいきだよ、さっちゃん」

「そう? ならいいけど」

「さっちゃんも、ピアノ弾けて、よかったね」

 みなとは、まるで自分事のように、にっこりと笑う。

「うん。先生に訊いてみたらさ、吹奏楽部の練習がない水曜日の放課後は弾いてもいいって。やっぱり、ほんもののピアノはいいね」

 言いながら、またピアノのふたを開け、ポーンと音を鳴らしてみる。ぼろぼろのアップライトピアノ。先生いわく「いつから使われていないのかもよくわからない」

「ね。なんか鍵盤もさ、こう、グワーッて感じ? 重いからさ、やっぱ、キーボードじゃこうはいかないからね」

 みなと、ちょっと不思議そうな顔。

「でも、なんか、音が」

「さすがみなと。このピアノ、明らかに調律もしてないよね」

 みなとは昔からそうだ。絶対音感、というほどのものではないのかもしれないけれど、異様に耳がいい。

「でもいいんだ。こうやって弾けるなら」

 ど、み、そ、と歌いながら、鍵盤を叩く。やった。今度はきれいな音が鳴った。

「ところで、どうしたの?」

 それを訊きそびれていた。どうしてみなとは、わざわざここまでやってきたのだろう?

「うん、あのね」

 ちょっと言いにくそうにして、うつむいているみなと。前髪はピンで雑にとめられていて、うつむいた拍子にちょっとだけ髪の毛が落ちる。いつだったか、なんで髪を短くしているのか訊いたら「楽だから」って言ってたっけ。長い髪もきっと似合うだろうになあ。

「これっ」

 そんなことを思っていたら、みなとが突然プリントを差し出してきたので驚いた。

「なに、これ?」

 黙ったまま、あらぬ方向を向いて、プリントだけをわたしに差し出してくる。仕方ないので、それを受け取る。

「申請……表? 文化祭……⁉」

 再びびっくりする。みなとが差し出してきたのは、文化祭における体育館のステージでの、有志による出しもの。その申請表だったからだ。

「みなと……どうしたの?」

 みなとはやっぱりうつむいて、あらぬ方向を向いている。

「……うん、わかった。わたしにできることがあれば、なんでもやろう。やってやろうじゃない。この桃川ももかわ佐里さりにまかせなさい!」

 わたしは、ちょっと演技がかった口調でそう言って、じっさいに胸のあたりをドンと叩いて見せた。力加減を誤って、ゲホゲホとむせてしまう。

「だ、大丈夫?」

 焦ったようにみなとが言う。

「へいき、へいきよ」

「なら、いいけど……」

「それで、わたしはなにをすればいいのかな?」

「うん、わたし、文化祭で歌おうと思って」

「え……?」

 歌う? 文化祭で、みなとが?

 それはちょっと、想像もつかないことだったので、しばし言葉を失った。

「え? ちょっと待って、誰かにいやがらせされてるとか?」

「ちっ、ちがうよ、ちがう」

「罰ゲーム……とか?」

「もうっ、ひどいよ、さっちゃん」

「……ごめん、ごめん。だって、あんまりびっくりしたもんだから」

 そう言いながら、わたしはちょっと窓の外に目を向ける。夕方五時を回った空が、茜色に暮れてゆく。遠くに山なみが見える。鴉が飛んでいく。野球部の快打音が聞こえる。そんな風景を見て、空気を胸いっぱいに吸いこみ、再びみなとのほうに向きなおる。

「じゃあ、わたしに、伴奏をお願いしたいってこと?」

 みなとは無言で、こくこくと頷く。

「わかった。全力でやる。で、曲は?」

「あれ、あの曲がいい」

「あの曲?」

「はじめて会ったときの」

「……ああ」


 わたしとみなとがはじめて会ったとき。

 中学時代から、わたしたちは同じ学校だった。入学直後、学校のルールもなにも知らないわたしは、胸に「入学おめでとう」と書いてある桜のワッペンをつけたまま音楽室へ飛んで行って、グランドピアノがあるのを見つけて大はしゃぎ。それを弾いていたら、

「あの……?」

 と突然後ろから話しかけてきた子がいた。それがみなとだった。当時からみなとのヘアスタイルはまったく変わらない。肩に届かないくらいのショートカットに、前髪を雑にピンでとめていて、おでこが見えている。

「うっ、うわ、びっくりした」

「ごっ、ごめんなさい」

 ふたりしてお互いにお辞儀をして、妙な空気になった。それで、会話を切り出したのはみなとの方だった。

「あの、吹奏楽部に入るの?」

「えっ?」

 スイソウガクブ?

「ち、ちがうの?」

「ちょっと待って、わたし、ピアノ弾きに来ただけで、部活とかは……まだ」

「そ、そうなんだ」

 みなとは、うつむいてちょっと悲しそうにいった。

 正直、ちょっとむかついた。なんなの、この子? なんというか、わたしが悪者みたいじゃん、と思った。でも……

 次の瞬間には、顔をあげて、なんの曇りもないような笑顔でわたしを見た。そして、

「ピアノ、好きなんだね」

 と言った。

「えっ? ああ、うん。好きだよ」

 小学生のころから、合唱コンクールでは伴奏を務めてきた。教室に通っているわけではなかったけれど、家にあるキーボードをさわっているうち、いつの間にか好きになったのだ。音楽好きの親の影響もあったかもしれない。

「あの、さっきの曲、なんていうの……?」

「え? いまの曲?」

「うん」

 わたしはもう一度、軽快なイントロを弾き始める。

「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアス・フォー・ミーっていう曲だよ。かなり古い曲なんだけど、これはニーナ・シモンっていう人が編曲したバージョン」

 お父さんとお母さんが大好きな曲。だれに言われるでもなく、わたしもこの曲を好きになって、いつでも手ぐせのように弾くようになっていた。でも、だれかに聴かせるのは初めてのことだったから、すこし調子に乗ってしまう。

 つたない英語で、鼻歌のように歌う。

〈My baby don't care for shows. My baby don‛t care for clothes. My baby just cares for me……〉

 目を閉じて弾いていたけれど、ちょっと目を開けてみると、呆然としているような顔のみなとが目に入り、われに返って弾くのをやめた。

「げふん、げふん」

 とちょっとわざとらしい咳をして、

「ま、こんなのかな」

 と言った。

 みなとはしばらく黙っていた。そして、しばらくして、急に目を輝かせながら拍手をした。

「すごい、すごいよ!」

「そ、そう?」

「うん、すごい! さっきの歌、なんて歌ってたの?」

「え? あ〜……」

 わたしはちょっと困った。何度も聴いた歌だから、音で歌詞をおぼえてしまったはいいものの、英語の授業は中学から始まるのだ。さっぱり意味が分からない……と思ってから、そういえば、と思いだした。

「たしか、お母さんが教えてくれたんだった。えーと。『わたしのベイビーはショーにも、服にも興味がなくて、わたしだけを気にかけてくれる』……だっけ」

 お母さん、ありがとう、と心のなかでつぶやいた。

「ふふ、いい歌詞だね」

 みなとはまた、にこりと笑う。すこしドキッとした。そのときまでわたしは、こんなにも素直な笑顔を見たことはなかった。開け放たれた窓から春の風が吹きこんできて、みなとの前髪がちょっと崩れる。

「わわ」

 といって、恥ずかしそうに前髪を直すみなと。指の先でぴこぴことやっている。それを見てわたしは、なんとなく微笑んだ。そのとき、みなとの背後に、もうひとつ影があることに気づいた。

「いい。いいね、君」

 そう言って、影はわたしに近づいてきた。肩くらいまで伸びている髪は、茶色に染められている。首から提げているネームプレートを見ると、どうやら学校の先生らしい。「音楽教諭 松川まつかわ」と書かれている。

 松川先生はさらにこちらへ歩み寄り、わたしの肩をやさしく叩いた。そして、

「吹奏楽部に入らない?」

 と笑いながら言った。

「えっ? いや、わたし」

「いや〜、今年の自由曲は、ピアノが入る曲にしようかと思ってたところで、ちょうどよかった! 君のスキルなら……ちょっと自由過ぎるから練習しなきゃだけど、じゅうぶん弾ける!」

「は、はい?」

 わたしは混乱した。だって、わたしはただ、ピアノを弾きたかっただけで……

「あ、あの!」

 突然の声。

 わたしも松川先生も、その声がした方向を向いた。

「あ、ごめん。気付かなかった。君は?」

「あ、わたし、五月みなと、っていいます。吹奏楽部に入りたくて……」

「うん、そうか! 経験者?」

「いえ、今からなんです」

「それはいいね! 無限の可能性じゃないか!」

「はい!」

 みなとは嬉しそうに笑っていて、なんだかわたしまで嬉しくなる。

「……と、いうわけだ」

 松川先生は、ニコニコしているみなとに背を向け、わたしの顔を見てニヤリとした。

「君たちふたり、吹奏楽部で決定だな」

「えっ、そんな⁉」

「ふふ、もう遅い!」

 先生がそう言うとともに、廊下にたくさんの気配があることに気づいた。

「ここ、音楽室は、吹奏楽部の練習場! 君たちはとっくに、包囲されているのだよ!」

 次々に、ぞろぞろと吹奏楽部員が入ってくる。みなとは呆気にとられたようにポカンとしており、わたしはどうすればいいかわからなかった。

 そうしてわたしたちはその場で、吹奏楽部員たちに紹介されたのだった。

「このふたりは、新入生! にもかかわらず、まだ部活体験も始まっていないというのに、自主的にやってきた、やる気にみちあふれた生徒だ! みんな、よくしてやってくれ!」


「……そんなことも、あったねえ」

「……うん」

 みなとはちょっと申し訳なさそうに肩をすくめている。

「うん、まあ、ピアノ伴奏ならどんとこいよ。いくらでもやっちゃる!」

 ふざけた口調でそう言うと、いくぶんか緊張もまぎれたと見えて、みなとは、笑いながら「ありがとう」と言った。

 でも、その笑顔は、どこか妙な感じがした。無理をして笑っているような、さびしいような笑顔。いつもの、みなとの笑顔ではなかった。

 みなと、まだあのときのことが気にかかっているのかな……

「そっ、それじゃっ!」

「えっ?」

 考え事をしているうちに、みなとは部屋を飛び出していった。

「ちょっと、みなと?」

 やや大きい声でそう言ったわたしの声だけが、むなしく響く。

 窓の外を見る。夕日はほとんど暮れかかっていて、あとは夜がやってくるばかりだ。野球部員たちも片付けを始めているようで、快打音も響いてはこない。どこからか虫の鳴き声と、鴉のカアカアが聴こえてくる。

「よし」

 短くつぶやく。あとちょっとだけピアノを弾いて、わたしも帰ることにしよう。鍵盤に手を置いて、Aの音を鳴らす。あの曲を弾くのはずいぶん久しぶりだ。でも、鍵盤に吸いこまれるように指が動く。

〈My baby don't care for shows. My baby don‛t care for clothes. My baby just cares for me……〉

 つぶやくように歌いながら、わたしは、あのとき「いい歌詞だね」といったみなとのことを思い出していた。輝くような笑顔。みなとの笑顔。わたしは、みなとの笑顔が大好きなのだ。


 * * *


 言っちゃった……

 どうしてこんなこと、と自分でも思う。

 ひとりでとぼとぼと、バス停までの道をたどっていく。鴉のカアカアが、頭のうえから聴こえる。ときおり風が吹くと、さっちゃんが弾くピアノの音が、風に乗ってここまで聴こえてくるような気がする。

 もうほとんど暗くなっている道のうえを、じっと眺めながら歩いていく。葉っぱや花びらが舞ったり、たまにはトカゲやなんかがサーッと駆けていくのを見られたりしてちょっと楽しい。でも、前、さっちゃんに言われたっけ。みなとは姿勢がわるいんだよ、って。

 それを思いだして、急に背筋を伸ばしてみる。痛、痛たたた……ああ、やっぱだめだ。わたしの背中はまた丸くなる。道の端っこをカエルが跳ねている。学校の近くを流れる川に帰っていくのだろうか。

 ……うん、そうだ。わたしも帰れば落ち着くかも。いったん帰ろう。それで、部屋でゆっくり考えてみよう。わたしは足を速める。バス停に着くと、運よく家へ帰るバスが来ていたので、急いで乗り込む。そして、わたしの定位置、いちばん後ろの、左側の席に腰掛ける。バスが動きだす。バスって大きいなあ。ぼんやり思う。なんでこんなに大きいんだろう……? そんなとりとめのないことを考える。夕日はすっかり暮れてしまった。学校のほうを見る。体育館の電気はまだ点いているみたいだけど、校舎の方はまっくらだ。さっちゃんももう、帰ってるのかな――

 バスが速度を増し、体育館の電気が引き延ばされるように見え始めたころ、わたしはリュックサックを抱きかかえて、うとうとし始めた。そうしていつしか、寝入ってしまった。


「みなと? みなとったら」

「へっ? あっ、あ、ごめん」

「もう、しっかりしてよ」

 ……あれ? わたし、なにしてたんだっけ……

「金管パートの集いでしょ!」

 左に座っている子が教えてくれる。ああ、そっか、金管パートで遊びに来てたんだった。ここはファミレスで、目の前にはジュースとフライドポテトが置かれている。左に座ってる子は……あれ? なんだか、顔がぼんやりしてる。なんか、変だなあ。

 わたしはわたしの手を見る。ええと、わたしは……わたしはたしか、ホルンパートの五月みなと。うん、そうだ。そのはずだ。じゃあ、左隣の子は……

「トランペットパートの高浦たかうら菫すみれ」

 そうそう。トランペットのスミレちゃん……って、え?

「みなと、なんか、はじめましてみたいな顔してるから、自己紹介しちゃった」

 そう言って笑っている。

「いや、ちょっと体調悪いかもで、ごめんね」

 額に脂汗がにじんでいるのがわかる。呼吸も乱れているような気がする。お腹が痛い。

 みんな、各々でなにか楽しそうに話しながら、ポテトをつまんだり、ジュースを飲んだりしている。なんだっけ? なんでこんなこと、してるんだっけ?

「いや〜、ありがとね、みなと」

「えっ……? な、なに、スミレちゃん?」

「みなと、付き合いわるいってみんなに思われてるよ」

「えっ?」

「だってさ、カラオケとか、打ち上げとか、いつも来ないし」

「ご、ごめんなさい、苦手で……」

「あはは、ごめんとかいいって。来てくれただけでうれしいよ」

 また笑いながら、ポテトを口に放り込むスミレちゃん。そうだ。スミレちゃんは、べつに悪い子ではないのだ。ただ、わたしとはちょっと波長が合わないだけで……それでたしか今日は、土曜日の練習の帰りぎわに、ほとんど無理やりみたいな感じで連れてこられたんだっけ……

「みなとちゃん、松セン、超むかつかない?」

 突然スミレちゃんが言った。

 松セン、たしか松川先生って、そう呼ばれてたっけ。なつかしい響きだ。

「う、ううん。合奏のときもしっかり指摘してくれるから、むしろ、助かるよ」

「ははっ、みなとらしいね。真面目ちゃんっていうか、そんな感じ?」

 ポテトでわたしを指さしながらそう言って、またひとくちに食べてしまう。

「だってさ、佳子かこなんて、めっちゃ泣いてたんだよ、ひどくない?」

 カコ……? ああ、トロンボーンパートの鈴石すずいし佳子かこちゃん。そうだ、そうだった。たしか今日は、合奏中に「練習をしてないだろ」と指摘された佳子ちゃんがひとりで吹かされて、それで、ぜんぜん上手く演奏できなくて……泣き出して、先生に「外で練習してきなさい」と追い出されたんだっけ。

 それで、みんなで励ますために金管パートの集いが開催されたんだった。そうだった。

「う、うん、恫喝、みたいなのはよくないよね」

 場の空気を読んで、そう言う。

「恫喝って。みなと面白いね」

 たしかに暴力的な指導はよくないと思う。でも、カコちゃんも、もっと練習すべきだったとも思う。だって、トロンボーンパートの練習場を通りかかるたび、ろくに基礎練習もせず、遊んでばかりいるのをわたしはよく見ていた……でも、ここで、どう振る舞うのが正解なんだろう。わたしにはよくわからない。

 ふと顔をあげると、いつの間にか机の上はきれいに片付いていて、スミレちゃんの手が差し出されていた。

「会費、三百円ね」

「あっ、はい」

 わたしは財布を取り出して、百円硬貨三枚をその手のひらのうえに置く。

「まいど〜」

 笑いながら、スミレちゃんは伝票を手にレジへ歩いて行く。

 先にお店を出よう。そう思って、出口へ向かい、ファミレスのドアに手をかける……と思った瞬間、わたしたちは、どこか別の場所を歩いていた。

 夕暮れの道に、涼しい風が吹いている。ああ、そうか、もう帰る時間だ。

 みんな、口々に何かを話しあっている。カコちゃんの顔にも明るい笑顔が浮かんでいて、ああ、元気になったんだ、よかったと思う。

「ねえねえ、みなと」

「わっ!」

 突然話しかけられてびっくりしてしまう。

「わっ、てなんだよ。今日のみなと、なんか調子悪そうだけど、大丈夫?」

「スミレちゃん……ありがと、大丈夫、へいき」

「ふうん、そ?」

「うん」

 また無言。足音と、前のほうを歩くグループのしゃべっている声だけが聴こえる。

 スミレちゃんと並んで歩いて、じっと黙ってるなんて、なんか、気まずい。べつに仲が良いわけでもないのだ。こんなとき、さっちゃんがたまたま通りかかったらなあ、と思う。さっちゃんならきっと、この場にいる全員と仲良くできるだろう。わたしにはわからない、その場のこなし方もわかるんだろう……ああ、いいな、さっちゃんは。

「ねえねえ、ふたりとも、来てよ〜!」

 そんなことをぼんやり思っていたら、前のほうからだれかが、身体中を使って手招きをするような身振りをして、呼んでいる。

 困って、スミレちゃんのほうを見ると、

「行こ?」

 と言って笑い、わたしの手を引いてくれた。

 スミレちゃんの手は冷たくて、わたしの体だけがずんずんと突き進んでいくような、不思議な感覚をおぼえた。すぐにわたしたちは前方集団に追いつく。

「なになに?」

 とスミレちゃん。

「佐里のこと話してたんだけどさ」

 と誰かが言う。

 えっ? さっちゃん?

「佐里がどうしたのさ」

「いや、かっこいいよねって」

「だってさ、松センに『ひとりで弾いてみな』って言われても、顔色ひとつ変えず、完璧に弾くじゃん。ヤバいでしょ」

 そう言ったのはカコちゃん。

 そうだ、佐里はいつでも、だれかと徒党を組んだりせず、淡々と演奏をしていた。でも、バンドのことをちっとも考えていない独りよがりな演奏ではなくて、完璧な調和のとれた演奏をしていた。それでいて、こうした休日の集いや打ち上げにもほとんど顔を見せず……言ってしまえば、部内で浮いた存在ではあった。でも、部内でほとんど存在感のないわたしとは違って、みんなの羨望を集めていた。

 そしてなぜか、佐里の部内で唯一の友人らしい友人といえば、わたしだけだったのだ。あの出会い以来、下校時は、だいたいふたりで帰っていた。とりとめのない会話を繰り返しながら。

 そうだ。佐里はかっこいいんだ。ひとりでもやっていける。でも、どうして、わたしを。わたしだけを、気にかけてくれるんだろう。佐里なら、だれともつるまなくていいはずなのに、こんな、わたしと。

「ね、そう思わない?」

 カコちゃんの声。

「え?」

「もう、訊いてたの? みなと。佐里ってかっこいいよねって」

 フォローするようにスミレちゃんが言う。

「えっ、さっちゃん?」

「「さっちゃん⁉」」

 とカコちゃんやスミレちゃんが驚いたように言う。

「へえ〜、ふたり、仲良いとは思ってたけど、それほどとは……驚きだなあ」

 スミレちゃん、ニヤニヤしている。

「……うん、さっちゃんはかっこいいよ」

 わたしは言う。

「とってもかっこよくて、こんなわたしにもよくしてくれて……」

「うんうん」

「付き合うなら、さっちゃんみたいな人がいいなって、思うし」

 ……自分で言ってから、しまった、と思った。

 え? えっ? なんでわたし、こんな。こんなこと言っちゃったんだろう。

 周りを見ると、空気が沈んでいるような感じがして、カコちゃんも真顔になり、スミレちゃんがこっちを見ていた。そしてしばらくして、

「そういうんじゃなくてさ」

 とだけ、カコちゃんは言った。

 誰かが、

「うわ、なんか、マジっぽくない?」

 とかひそひそ言っているのが聴こえる。

 わたしは手をぎゅっと握る。すずしい風が吹いているのに、手汗が止まらない。その場から動けず、じっとしている。集団は、わたしを残して歩いて行く。

「あ、ちょっと、ちょっと!」

 とスミレちゃんが言うのが聴こえる。スミレちゃんはわたしのほうを見て、顔の前で手のひらを立て、軽くお辞儀をして走っていった。

 ああ、ひとりになってしまった。なんとなくそう思う。近くの公園まで歩いて、ベンチに座って、日が暮れていくなか、じっと地面を見ていた。アリがなにかを運んでいる。なにを運んでいるんだろう? アリはすごい。自分の体の四分の一はありそうな重いものを、スイスイと運んでいく……でも、ときどき、途中で失敗して、荷物をひっくり返して、じたばたしているのもいる。ほかのアリは失敗せずに、ずんずんと荷物を運んでいくものだから、やがてそのアリはひとりぼっちになる。

 ああ、あれはわたしだ、と思う。次の授業が移動教室のとき、どこに行けばいいのかわからず、だれにも訊くことができないから、教科書を抱えたまま、廊下をぐるぐると歩いている。やがてチャイムが鳴って、廊下には誰もいなくなる。ただ、わたしの足音だけが取り残されて……手汗が止まらず、お腹がきりきりと痛む。どこにも行けず、なにもできない。ひっくりかえっているアリを、じっと見て、そんなことを思っていたとき、

「みなと!」

 と頭上から声がした。

 顔をあげる。そこにはスミレちゃんが立っていた。今は顔がはっきり見える。肩まで伸びた天然パーマの髪の毛 (いつか、自分でそう言っていたのだ) が、いつもよりいっそうグシャグシャになっていて、前髪も汗で額にはりついているらしかった。

 ここまで走ってきたのだろうか。でも、なんのために?

 スミレちゃんは笑っている。

「ほら、家の方向一緒じゃん、帰ろ?」

「う、うん」

 わたしは混乱した。言われるがままにベンチを立ち、スミレちゃんの横を並んで歩いた。

「今日は、来てくれてありがとね」

「いや、全然」

 さっきのできごとに言及するでもなく、ただそんな、社交辞令のような会話が続いた。そしてしばらくしたころ、

「わたし、こっちだから」

 とスミレちゃんが言った。

「あ、うん。またね」

 去りぎわ、スミレちゃんはわたしのおでこを人さし指でつついて、

「じゃね」

 と軽く手のひらを振りながら歩いて行った。

 いったい何だったのだろう。なぜわざわざ戻ってきて……いや、ただ単に、家の方向が一緒だったというだけのことではないのか。そうだ、そんなに深く考える必要はない……わたしはまた、ひとりでとぼとぼと家路をたどる。そうして家に着くと「ただいま」と言う準備を口のなかで整えて、ドアを開いた。

 気付けばわたしは、制服を着て、トイレにいた。あれ? ここは――学校のトイレだ。なんでこんなところにいるんだろう。すぐに個室から出ようとする。扉に手をかけようとしたわたしの動きを、外から聴こえてきた声がさえぎった。

「……でさ、マジなんだって」

 誰かがしゃべっている。きっと、今出て行ったら変な空気になるだろう。話し終わったら、みんなトイレから出て行くだろうから、それまでじっとしていよう。わたしは息をひそめる。

「あの、ホルンパートのみなとって子いるじゃん」

「ああ、あの、目立たない」

 えっ? わたしの話をしてる? 嫌な予感がする。手汗がにじんでくる。お腹が痛い。ドアの向こうで話しているのが誰なのかはわからなかった。でも、わたしの話題が出てくるなんて。よい話であるはずがない。そう思った。

「あの子さあ、レズなんだって」

「レズ?」

「そ、佐里のことが好きらしくってさあ」

「うわ、マジ? ライクじゃなくて、ラブってこと?」

「そ、佳子が言ってたの。マジっぽかったらしいよ」

 頭のなかがサーッと冷えていくのがわかった。レズ? レズって? ……でも、話の内容から、わたしが佐里のことを好きだといったときのことを話題にしているのはわかった。それも、ライクではなくラブ。授業で習った。一般的な好き、ではなくて、愛情をこめた好き。

 じっさいのところ、どうなんだろう。それを思うと、不思議と、多少冷静な気もちが戻ってきた。さっちゃんは、出会ったときからかっこよくて、なぜかわたしのことを、それもわたしだけを気にかけてくれてるみたい。さっちゃんのことを思いうかべる。ピアノを弾いている姿や、帰り道で話しているときの姿。

 ……今まで気づいていなかった。その表情や、しぐさ。頭のなかで思いうかべると、どれも、なんだか輝いていたように思える。なんといえばいいのか、ほかの思い出に比べて、さっちゃんとの思い出は、ちょっとビビッドだ。きらきらしてる。

 わたし、わたしは……たしかに、さっちゃんのことが、好きなのかもしれなかった。

 でも、その事実とこの状況とは別だ。わたしは、まさに話題の渦中にいるらしかったし、好ましい感情を向けられているわけではないのは明らかだった。

「やめなって、別に、言うほどのことでもないじゃん」

 あれ? この声は、スミレちゃんだ。外でしゃべっている集団のなかに交じっているらしかった。

「え? なに、どうしたの?」

「みなとが佐里のこと好きなのなんて、どうでもいいでしょ」

「だから、それがキモいって話してんじゃん」

「そんな話、別にしたくないし」

 ドア越しでも、なにか空気がピリピリしているのがわかる。スミレちゃんは、わたしをかばおうとして言ってくれてるのだろうか? でも、だとしたら、なぜ?

「あ〜、ちょっとご機嫌斜めだね、スミレ。失恋でもしたの?」

 別の子が言う。

「うるっさいなあ」

 スミレちゃんの、不機嫌そうな声。

「いいから、お昼食べに行こうよ」

「あ、うん、そうだね」

「スミレも機嫌直したら来なよ〜」

 笑いながら、ふたりか三人か、わからないけど、出て行ったらしかった。わたしはしばらく様子をうかがって、もはやなんの音も聞こえないことを確認してから、ドアを開く。

 個室からちょっと顔を出し、右、左、と横断歩道を渡ろうとするときのように確認していたら、まだそこに残っていたらしいスミレちゃんとばっちり目があった。

「あ、あの」

 喉につっかえたようにして、言葉が出てこない。空気が乾いているようで、息苦しい。

「ありがとう……」

 やっと絞り出した言葉のうしろで、スミレちゃんは、なにを思っているのかわからない妙な顔のまま、ひとこともしゃべらず、トイレのドアを開け、出て行ってしまった。


 ピンポーン……はい、つぎ、停まります。運転手さんの声。

 ハッ、と顔をあげる。しばらく眠ってしまっていた。もうすでに真っ暗な窓の外を見て、よかった、わたしの降りるバス停まではもうすこしある、と安堵する。

 ……それにしても、いまさらあのときの夢を見るなんて。

 ひさしぶりに、中学時代の夢を見た。あのあと、わたしはいろんな人から冷ややかな目で見られていることが耐えられなくて、けっきょく部活をやめてしまう。それが原因で、音楽室にも近寄れなくなって、大好きだった楽器とも、距離を置くことになってしまった。高校生になっても、吹奏楽部には入らなかった。授業のときにかぎって、音楽室へ行くことはできたが、それ以外の時間に近寄る気にはならなかった。

 だから、さっちゃんがピアノを弾きはじめたときはうれしかった。なぜなら、中学時代、わたしが吹奏楽部を辞めたあと、同時にさっちゃんも音楽から距離を置いたからだ。部からのヘルプがかかったときだけ、演奏に参加していたらしいけれど――なにしろ、さっちゃんがいるのをいいことに、松川先生は二年連続でピアノが入る曲を自由曲に選んでいたのだ――わたしのために、大好きなピアノから距離を置くなんて、とんでもない。なによりわたしは、ピアノを弾いているさっちゃんを見るのが大好きなのだ。

 ひとりで音楽室まで行くのはちょっとつらかったけれど、今日はひさびさに、ピアノを弾くさっちゃんを見られた。それだけでも、うれしいことだった。

 ……そうこうしている間に、次はわたしの降りるバス停だった。車内はもう、人がまばらだ。わたしは「次 降ります」のボタンを押して、荷物をまとめた。

 しばらくしてバスが停まり、わたしはパスケースをタッチして、バスを降りた。

 そこから十分ほど歩くとわたしの家だ。このあたりを歩くと、否応なく中学生のころのことを思い出してしまう。ちょっと歩くと公園がある。ベンチに座っていたらスミレちゃんがやってきた、あの公園だ。もうすでにまっくらで、人っ子ひとりいない。どこからか虫の声がするだけで、月の暗い初秋の夜は、恐ろしいほど深い闇だ。

 特に理由はなかった。でも、なんとなくそうしたい気分になって、公園に入り、ベンチに腰かける。地面を見ても、そこには暗やみがあるばかりで、もしかするとアリやなんかが歩いているのかもしれなかったが、なにも見えない。仕方ないので、頭上を見あげる。雲が流れていって、一瞬、隠れていた月が現れ、また隠れた。空も、見ていても仕方ないみたい。そう思って、また地面を見る。

 吹奏楽部を辞めたあとも、さっちゃんは変わらず、いっしょに帰ってくれた。わたしとのつきあいを続けることで、自分も無視されたりするかもしれなかったのに、さっちゃんはそんなこと、気にしなかった。

 ある日、わたしは、さっちゃんと並んで帰っていて、急に吐き気を催したことがあった。当時はすさまじいストレスがかかっていて、それが限界値に達したのかもしれない。わたしは急いでこの公園のトイレへと走ったけれど、間に合わなくて、そこらで嘔吐してしまった。手も、顔も、制服も汚れた。でも、そんなわたしを見て、怒るでも、呆れるでも、嫌がるでもなく、さっちゃんはただ、わたしの手をとって、ハンカチで口もとをぬぐって、すぐ近くの自分の家まで連れていってくれた。お風呂を貸してくれた。制服を洗ってくれた。そこまでしてくれたのに、

「ごめんね、無理させちゃって」

 と、なぜか、さっちゃんが謝っていた。

 わたしはさっちゃんの部屋着を借りて、絨毯の敷かれた床に座ってぼうっとしていた。もうそれ以上、なにかをしようという気は起きなかったし、なにもしなくてもいいのだとさえ思われた。そんなわたしの横で、なにもせず、さっちゃんはただ黙っていた。

 しばらくして、日が暮れかかったころ、わたしは立ち上がった。

「……帰らなきゃ」

 荷物をまとめて、まだ湿っている制服に着替えようとした。

「いいよ、みなと。それ着ていってよ」

「いや、でも、申し訳ないよ」

「いいんだって」

「……うん、じゃあ、そうする」

 そう言って玄関へ向かうわたしに、さっちゃんが突然、うしろから声をかけた。

「あの、あのさ」

 いつもの声ではなく、なにか焦っているような、興奮しているような声音だった。

「みなと、お腹が空いたら、ごはんを食べなきゃいけないし……眠かったら、眠らなきゃいけない」

「……?」

「その、つまり、なにが言いたいかと言うと」

「……うん」

「だから、立ち向かっていかなきゃいけないんだよ。いや、ちがうな。ええと」

「ふふ、ゆっくりでいいよ」

 さっちゃんがそんなふうに、混乱しながらものを言うのは珍しかったから、ちょっと愉快な気もちになって、そう言った。

「うん、ありがと……つまり……つまりさ、わたしなら、力になれるよ」

「え?」

「みなとのための、力になれる」

 さっちゃんは、真面目な顔でそう言った。

 わたしは、ただ頷いて「じゃあ、明日も」といって、家を出て行った。

 いつもそうだ。いつも、さっちゃんは、わたしの力になってくれている。だから、だから……わたしは。

 ベンチから立ち上がる。また雲が流れていって、月が姿を見せた。ちょっと明るくなった道のうえを、しっかりした足取りで帰っていく。家まではもうすこし。わたしは、右足を踏み出した。


 * * *


 お風呂から上がって、長い髪の毛をタオルで巻き、キーボードを叩きながら、ぼんやり考えごとをしていた。

(みなと、いったい、どうしたんだろう?)

 あれ以来、部活や音楽室や楽器どころか、音楽そのものを避けているふうでもあったのに、どうして歌うなんて……それも、体育館のステージで。

 しかし、ここ数年、みなとが自分から何かをやりたいということなんて皆無だったから、自分から何かを言いだす――それも、音楽をやりたいと言う――なんて。それはなにより、わたしにとってはうれしいことだった。

 なんにしても、みなとがやりたいというのなら、わたしは全力でやるまでだ。わたしはみなとに力を貸す。みなとの力になる。ただ、それだけ。

 そう考えたとき、中学生のころ、みなとを家に入れたときのことが頭のなかにわきあがってきた。たしか「わたしならみなとの力になれる」とか言ったんだ、わたし。自分のことながら、なんという気障なせりふだろう。ああ、恥ずかしい……でも、みなとはうん、とも、いいえ、とも言わなかった。

 ……結局、みなとはわたしのこと、どう思っているんだろう?

 指は、なんだか物悲しい和音を鳴らしてしまう。D、F、A――れ、ふぁ、ら、と歌いながら、部屋のなかで和音がぷかぷかと浮かんでいるような気がする。

 そもそも、どうしてわたしは、あの子にここまで固執しているんだろう? 腕を組んで、ちょっと考えてみる。

 だいたいわたしは、生来、人づきあいがうまい方ではない。小学校時代だって、知り合いはいたけれど、休日に遊ぶほどの友達はいなかった。一度など、今度遊ぼうよというから待ち合わせ場所まで行ってみたら、だれもおらず、一日待ってもだれも現れなかったことすらある。そんな、いたずらにかけられるような対象だったわたしを変えてくれたのは、みなとだった。紛れもなく、あの子だったのだ。

 あの子が、わたしの演奏するピアノを聴いて「いい歌詞だね」と微笑んでくれたときのことが、いまでもはっきりと思いだされる。

 わたしは、もちろん音楽が好きだから、ピアノを弾くのだ。それは、いまも昔も変わらない。でも、あのときまでは、だれかに聴かせるということをしたことがなかったから、みなとの微笑みを見て、わたしの頭のなかに、ピアノを弾く理由がひとつ増えた。

 ――ああ、今後は、この子のためにも、ピアノを弾こう。

 そう思った。

 急に顔が火照ってくるような気がした。

 ああ、そうか。ずっと長いあいだ、気がつかなかった。

 なんで、どうして、みなとが吹奏楽部を辞めたあと、わたしもしばらく音楽から距離を置いたのか。当時は、なんとなくそうしたと思っていた。でも、じつは、たぶん……みなとのいないバンドのためにピアノを弾いても、仕方がない。そう思ったのではないか。

 つまりわたしは、はじめてみなとの笑顔を見た時点で、もう、すっかりやられてしまっていたのだ。そんなことに、何年も経つまで気がつかなかった。

 A、C#、E――ら、ど#、み。照れ隠しのように、キーボードを叩く。素直な和音。なんだかわたしはうれしくなる。

 精一杯練習しよう。この曲を、今までに何度弾いたか。何百回か、何千回か、わからない。これ以上、練習の余地もないのかもしれない。でも、精一杯弾こう。みなとのために。

 わたしの指が鍵盤のうえを踊っている。この音も全部、みなとのものだ。そう思うとなんだか、胸のつかえがとれたような気分になった。全部全部、みなとのもの。あの子のために、ピアノを弾こう。

 夜はだんだん更けつつあった。一時間後、お母さんに怒られてヘッドフォンをつけてからも、わたしはキーボードを叩き続けた。やがて疲れて、寝てしまうまで、わたしの指は踊り、みなとのための音が、いつまでもわきだしてくるのだった。


 翌朝、わたしは、みなとから手渡されていた例の申請書を書いた。

「ピアノとヴォーカルのデュエット、2―A五月みなと、2―C桃川佐里、演奏曲は一曲、時間の希望は特になし……」

 それを真ん中からきれいに折りたたみ、ファイルにはさんで、鞄に入れた。

「行ってきま〜す」

 秋の早朝、いつもより足取りが軽い。あらゆるものが、生きているような気がした。生きものだけじゃなく、空も地面も、全部が生きていると思った。ほとんど寝ていなかったし、客観的に見れば、わたしの精神状態はちょっとおかしいのかもしれなかった。ナチュラル・ハイというやつだ。でも、いい。それで、あの子の力になれるなら。そう思った。

 バスに飛び乗って学校へ向かう。いつもは憂鬱な学生でいっぱいのバスも苦にならない。

 教室に着くと、あたりをきょろきょろと見まわして、生徒会の生徒を捜す。

「あ、いたいた」

 わたしは机と机のあいだをさっさとすり抜けていって、

「あの」

 と言った。

 生徒会の子は、本を読んでいた顔をあげて、わたしのほうを向いたまま、本に栞をはさんで閉じた。

「なに? 桃川さん」

「え? わたしの名前」

「知ってるよ、そりゃ、同じクラスでしょ」

「そ、そんなもん?」

「そんなもんでしょ。それに……」

「それに?」

「や、なんでもない」

「えっ?」

「で、なに?」

「ああ、そうだった、これ」

 件のプリントを手渡す。

「ああ、これは……わたしの担当じゃないよ。文化祭担当に渡さなきゃ」

「あ、ああ、ごめん」

 と言って返してもらおうとした。でも、

「いや、渡しとくからいいよ」

 といって、その子はプリントを引き出しに入れようとした。

 でも、その手を止めて、プリントをまた手のうえに戻して、上から下まで読み始めた。

「あの〜?」

 あんまり長いあいだ眺めていたから、どうしたのか、もしかして不備でもあったのかと思って、心配になる。

「えっ? あっ、ごめん。いや、ちょっとびっくりして」

「びっくり? ああ、文化祭でピアノとボーカルのデュエットとか、珍しい、かな」

「いや、そう、じゃないんだけど……まあいいや、がんばってね、桃川さん」

「あっ、ありがとう!」

 わたしは自分の机へと向かい、授業の準備をし始める。

「やっぱり、覚えてないでしょ」

 生徒会書記、高浦菫が小さい声でそうつぶやいたのは、もちろん佐里の耳には届かなかった。

 ……佐里は昔から、みなとのことだけを見てたもんね。

 ――それにしても、あのふたりがデュエットかあ……とちょっと思いを巡らしてみる。しかし、まったく想像がつかない。いったい、なんの曲をやろうというのだろう? ……まあ、わたしの仕事は、とりあえずこのプリントを、しっかりと提出しておくこと。それだけ。あとはふたりの仕事だ。

 菫は、心のなかでそう呟いて、また本を読むことに専念しはじめた。


 * * *


 毎週水曜日の放課後、佐里とみなとは音楽準備室に集まって練習をした。吹奏楽部の練習がない日は、わざわざ放課後に音楽室の近くへとやってくる人なんてほとんどいないから、ふたりの練習を聴いているものはほとんどいなかった。ときおり、だれかがピアノの音が聞こえるのに気づくことはあったが、そこまで気にも留めることはなかった。

 この時間はふたりだけのものだった。みなとが歌い、佐里はピアノを弾く。ときには、外がすっかり暗くなっていることに気がつかず、音楽準備室の灯りが消えていないことを不審に思った先生に「はやく帰れよ〜」と注意されることもあった。

 みなとは、以前はホルン担当だったし、それ以前に歌の練習をしたりしていたこともなかったから、たしかに練習は必要だった。しかし、驚くべきはやさで――上手い下手はともかく――こなれた歌い方をできるようになったので、佐里は驚いた。

 練習が終わったあと、ふたりはあのころのように、いっしょに帰った。ふたりでバスに乗り、ときには例の公園のベンチで語り合った。時が過ぎるのは早い。ふたりにとって、下校のとき語らえる時間はほとんど一瞬だったし、文化祭までのわずかな期間も、まばたきをするほどの速さで過ぎ去っていった。

 秋はだんだんと深まり、九月の終わりにはまだ半そでを着ていたのに、朝晩はしっかりとブレザーを着込んでいなければ耐えられないほどの温度になった。外を吹く風も冷たくなり、風に乗って落ち葉が舞うようになったころ、本番の朝を迎えた。

 その朝、ふたりはバス停で落ち合った。

「おはよ」

「おはよう、さっちゃん」

「いよいよ、だね」

 ふたりとも、人前で演奏するのはずいぶん久しぶりだったから、緊張していた。

「うん」

「大丈夫! あんなに練習したんだから」

「うん、わたし、信じる」

「信じる?」

「信じるっていうか、信じてる。さっちゃんを」

 佐里はドキッとするのを感じ、

「うれしいこと言ってくれるねえ」

 と言った。

「おっ、来た来た」

 バスがやってくる。あれに乗ればすぐに学校へ着く。もう後戻りはできない。

「行こうか?」

 佐里がみなとの手をひきながら、そう言った。

「うん、行こう」

 みなとは頷きながらそう言って、ふたりはバスに乗り込んでいった。


 ふたりの出番は午後一時半から。昼食後に始まる「午後の部」のトップ・バッターだった。しかし、そのあとには吹奏楽部や軽音楽部の演奏がひかえており、やや早い時間でもあることから、おそらく前座扱いされているとのであろうという事実を否定することはできなかった。

 出番前、特に衣装などはないから、ふたりとも、いつもの制服を着ている。佐里は長い髪を後ろでくくっているいつもの格好だし、みなともやっぱり、短い髪に、前髪をピンで雑にとめていて、おでこが出ていた。

 舞台裏で、ふたりして、家で包んできたおにぎりを食べる。佐里はツナマヨとわかめ。みなとはしそを二つ。

「みなと、ふたつともしそなの?」

 と、ちょっと眉をひそめながら、佐里が言う。

「え? うん、好きだから」

「そっかあ、好きかあ……いいね」

「いいでしょ?」

「うん、めっちゃいい」

 そして、どちらから言いだすでもなく、ふたりはおにぎりをひとつずつ交換した。体育館の舞台裏はやたらと寒くて、おにぎりもちょっと硬かった。

「いや〜、ちょっと寒いね、みなと」

「うん、でも、へいきだよ」

「そ? ならいいけど」

 みなとが腕に巻いた時計を見る。

「あと十分」

「まじかあ……もうすこしじゃん」

「深呼吸しよ、さっちゃん」

「ん」

 ラジオ体操の要領で、深呼吸を繰り返すふたり。

 そのうち、腕に「進行」と書かれた腕章を巻いた生徒がやってきて、

「えーと、桃川さんと……五月さん?」

 と言った。

「はい」

 と佐里が応える。

「そろそろだから、スタンバっててください」

 とだけ言い残して去っていく。

「じゃ、やっちゃろう!」

 佐里は笑う。

「うん」

 とみなとは緊張したような面持ちで応えた。

 やがて、アナウンスがあった。

「お待たせしました。ただいまより、午後の部を開催いたします……次に出演しますグループは、ピアノとボーカルのデュエットです。二年生の五月みなとさんと、桃川佐里さんのふたりで、ジャズ・スタンダード『マイ・ベイビー・ジャスト・ケアス・フォー・ミー』を演奏していただきます。それでは、どうぞ」

 まばらに起こる拍手。やっぱり、観客はまだ外で食事したり、席にいるとしても、吹奏楽部などを待っていたりするのだろう。でも、やるしかない。

 佐里はみなとの手をつかんで、

「よし、行くよ!」

 と言った。

 みなとの手をぐい、と引っ張る。

「……みなと?」

 でも、みなとは動かない。まだ緊張が続いているのだろうか?

「大丈……」

 と言いかけたとき、みなとがさっと顔をあげた。

「うん、行こう!」

 そう言うと、みなとは逆に佐里の手をぎゅっと握って、勢いよく壇上へと駆けあがっていった。

 パーッと照明が輝いて、ふたりとも一瞬、目を閉じてしまう。そしてまた目を開くと、そこには、照明を反射してきらきらと輝く、真っ黒いグランドピアノがあった。

 ここはまさに、ふたりだけの舞台だった。みなとも佐里も、客がいることなど、頭から吹き飛んでしまった。

 みなとはマイクの前に立ち、佐里はピアノの前に座る。そして、佐里の指と、ピアノから。軽快なイントロが流れだした。それは、ふたりがはじめて会ったときと同じ旋律。ただ、これまでの、数年間の重みが増したピアノの旋律が、みなとの耳に入ってくる。

 みなとが歌いだす。

〈My baby don't care for shows. My baby don‛t care for clothes. My baby just cares for me……〉

 佐里はわが耳を疑った。練習のときよりずっと、歌声に深みが増している。なんて言えばいいだろう。われながら変だなあとは思うけれど、喉に金管楽器を入れこんで歌っているような、そんな声だ……と佐里は思った。

 曲はたったの三分半ほどで終わる。順調に、だんだんと進行する……

 あ、あれ?

 佐里はふたたび耳を疑った。

 歌詞が違う? いや、そんなはずは。練習中、みなとが歌詞を間違えたことなんて……

 手許で鍵盤を叩きながら、耳ではしっかり、みなとの歌を聴く。

 ……やっぱり、勘違いじゃない! 歌詞が違う……

 みなとは、ほんとうに歌詞を変えて歌っていた。本来、この曲に登場する代名詞は「he」。つまり、この曲における「My baby」は男性であることが、歌詞中ではっきりと示されている。しかし、みなとは……「he」ではなくて「she」と歌っている……なんど聴いても、まちがいない。みなとは「she」と歌っている。

 佐里は、昔、母親から聴いたことを思い出した。

「この曲はねえ、ニーナ・シモンも原曲から歌詞を変えて歌ってるの。歌う人や時代によってちょっとずつ、歌詞がちがったりするのよ」

 ああ、そうか。であれば、これが、みなとにとっての――

 そう思いながら、佐里の指が、最後の鍵盤を叩く。

 ハッと鍵盤から顔をあげる。客席はしばらくシーンとしていたが、どこからかひとりの拍手が聴こえ、やがてそれはまばらな拍手となった。その拍手をバックにして、みなとは佐里のもとへと近づく。前髪がくずれて、汗で額にはりついている。そして、佐里の耳もとで、

「きみだけを」

 と言った。

 すると、佐里に背を向け、ステージを下りていく。

「あ、待って」

 声にならない声が、喉から出る。

 佐里の足が、みなとを追う。

 拍手はすぐに止んで、客たちの雑談が聞こえ始めた。舞台裏では、みなとが満足そうな笑みをうかべて、待っている。

「み、みなと、あんなところで……」

 と佐里は言った。

「ふふ、あんなところで、なに?」

 佐里はうつむいて、みなとは笑っている。そのまま固まっているふたりの様子を見て、進行係は「なんだろう?」と不思議そうな顔をしている。

 そのうち、次に出演する吹奏楽部の部員たちがやってきて、壇上への道をふさいでいるふたりに、

「あの」

 と言った。

「あっ、すみません」

 と佐里。みなとはなおも笑っていて、

「行こ!」

 と言って、佐里の手を引っつかみ、外へと走りだした。

 野外には秋の風。そよそよと落ち葉が舞う。ふたり分のローファーが、落ち葉を踏むザクザクという音をたてる。

「アハハ、アハハ……」

 みなとが笑っている。佐里は、みなとのあんな笑顔……満足そうな、いたずらをしたあとの子どもみたいな顔、はじめて見た、と思った。でも、それもみなとの一部なんだ。そう思うと、やっぱり笑みがこぼれてきた。

 そうしてふたりは手を取りあって、秋の風が吹く道を、息が切れるまで走り続けた。もうじき秋も終わる。冬がやってきたら、雪が降るかもしれない。そしたらまた、雪が降る道を走ろう。ふたりで走ろう。走り疲れたら、ピアノでも弾こう。歌ったり、たまには楽器を吹いてみるのもいいかもしれない。そうしよう。きっと、そうしよう。

「はあ……はあ」

 ふたりとも、息も絶え絶えと言う様子で、地面にへたり込んだ。

「こんな走ったの、いつぶりよ」

「わ、わかんない」

 さっきまで声をあげて笑っていたみなとが、いつものようなオドオドした態度に戻っている。佐里は、じっとみなとの顔を見た。そして、口の端に米粒がついていることに気づいた。そっと指をのばして、米粒をとる。

「え、えっ? なに?」

「みなと、口の端に米粒ついてたよ」

「……え? そ、そんな。じゃあわたし、米粒つけたまま……?」

「歌ってたってこと」

 みなとは顔を赤くして恥ずかしがっている。さっきまで、堂々たる歌を聴かせ、大胆にもステージ上で告白したのと同じ人物だとは思えない。

「ま、きっと、客席からは見えなかったよ。暗かったし」

「そうかなあ……?」

「うん、きっと。だから、米粒つけたまま歌ってたのを知ってるのは、わたしとみなとだけだよ」

「そっかあ……なら、いいか」

「うん、そうでしょ」

 これからどうしよう? 体育館に戻って演奏を聴くでも、音楽準備室へ向かってふたりで遊ぶでも、学校を抜け出してどこかに行くでも、それは自由だ。でも、ふたりともまだ息が戻っていなから、しばらくはここから動けないだろう。これからどうするか。五年ぶんの積もる話を、ふたりでしたあとでも、決めるのは遅くないな。

 佐里はそう思った。空にはうろこ雲が泳いでいる。また秋の風が吹いて、体育館から吹奏楽部の演奏が聞こえだした。そうしてふたりは、そんな空の下で、手をつないでいた。

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きみだけを/告白 伊藤充季 @itoh_mitsuki

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