第5話

 翌朝、まだ薄暗い時間に叩き起こされると、父が険しい顔で俺を睨んでいた。

「今から大事な来客がある。おまえは奥の物置にでも隠れていろ。無様を晒すなよ」

 それだけ言い捨て、ろくに朝食も与えずに俺を追い払う。その“来客”が誰なのかは明白だ。昨夜の晩餐に参加していたアンシャイネス伯爵や取り巻きの貴族たちが、改めて何か話をしに来るのだろう。

 父は彼らに気に入られたい一心で、屋敷の不備を必死に隠そうとしている。もちろん、この倉庫暮らしの息子の存在は最大の汚点。そのあからさまな態度に少し胸が痛むが、慣れすぎてしまった自分が嫌になる。

 無理やり閉じ込められた物置には、埃だらけの棚や古い衣装箱が積まれている。隙間から外を覗くと、果たして伯爵とエレオノールの乗る馬車が門をくぐっていくのが見えた。

(こんな扱い、いつまで耐えればいいんだ…)

 悔しさと空腹が混ざり合い、胃がキリキリする。けれど、今ここで抜け出して場を荒らせば、それこそ父の怒りが自分に向かうだけだ。じっと時が過ぎるのを待つしかない。

 何か物音がする度に棚の裏で息を殺しながら、窓の外を伺う。やがて遠くから伯爵の声が微かに聞こえてきた。

「……この屋敷の管理、いかにも杜撰ですな。あれほど資金援助を提案したのに、どこへ消えたのやら」

 伯爵の揶揄するような低い声に、父が愛想笑いを浮かべているのが目に浮かぶ。

「い、いえいえ、なにぶん辺境なもので。ご安心ください、必ずや…」

 言い訳に終始する父。腰が引けているのが手に取るように分かる。これじゃあ、さらに印象を悪くするだけだ。

 その時、廊下のほうから靴音が近づき、物置の扉に鍵がかかる音がした。どうやら俺がうっかり出ていかないように閉じ込めたらしい。

(ここまでされるなんて、徹底してるな…)

 力なく苦笑するしかない。ふと、埃の積もった衣装箱を動かして腰を下ろすと、昨日の疲れが一気にこみ上げてきた。作業のせいで腕も痛む。

 それでも、ほんの少しだけ胸をよぎる期待がある。あのラスボス令嬢――エレオノールが、なぜか俺に興味を持っていた気がする。彼女が伯爵と一緒にいるのなら、もしかして何らかの救いの手が差し伸べられるかもしれない。根拠はないが、彼女を見ていると無性にそんな思いが込み上げてくる。

 そんな都合のいい期待は裏切られるだろうか。気を抜けばネガティブな考えに飲まれそうになるが、どうにか踏み止まる。今の俺ができるのは、じっとここで待って、隙を見計らうことだけだ。

 しばらくして廊下が静かになった頃、扉の向こうに誰かが立っている気配を感じた。控えめなノック音がトン、と鳴る。

「レオン様…いらっしゃいますか…?」

 小さな声で呼びかけてきたのは、メイドのサリーだった。どうやら鍵がかけられているのは承知の上で、こっそり来てくれたらしい。

「サリー? 俺はここだ」

「今、お食事を持ってきました。継母様には内緒ですが…」

 サリーが鍵の隙間からそっと小さな包みを差し入れてくれる。パンと少しのチーズ、そして水筒が一つ。こんな程度でも、今の俺には十分すぎる救いだ。

「ありがとう、助かる」

「今日は伯爵様がすぐにお帰りになるようで、屋敷内の大掃除は中断みたいです。今なら、あまり見つからずに外へ出られるかもしれません」

「外に…出ていいのか?」

 サリーの言葉に耳を疑う。父の命令を無視して出歩いたら、後でどんな仕打ちを受けるか分からない。

 だが彼女は意を決した顔つきで続ける。

「このまま閉じ込められていたら、また虐げられるだけです。……あまりにもひどいですよ、レオン様への仕打ちは」

 その瞳に宿る憐れみが、俺の心をざわつかせた。ここで黙って耐えるより、少しでも情報を得ようと動いたほうがいいかもしれない。

「分かった。ありがとう、サリー」

 俺はパンをかじりながら、水筒の水で喉を潤す。どうにか力が湧いてきた気がする。

 サリーの協力で扉の鍵を外し、物置を抜け出す。廊下は静かだが、声のするほうへ耳を澄ますと、一部屋だけ人の気配があった。そこが父と伯爵たちが話をしていた部屋だろう。

 そっとドアに近づき、壁際で耳を当ててみる。

「――どうかエレオノールが退屈しないよう、我が息子(むすこ)を話し相手にでも…と考えたのだが」

 聞こえてきたのはアンシャイネス伯爵の低い声。対する父は焦ったように言葉を継いでいる。

「おお、そ、それはもちろん光栄ですが…うちの息子はまだまだ未熟でして…あはは…」

 恐ろしく歯切れが悪い。まさか伯爵のほうから、俺をエレオノールの友人役に推そうとしているのか? それなのに父は嫌そうに拒絶している。

(やっぱり、父は俺を認めたくないんだ…)

 心がきしむ。伯爵としては自分の娘のことを少しでも慮っているのかもしれない。エレオノールが孤立しているのは想像に難くないからだ。

 だが、父にとって俺は厄介者。体よく追い払いたい存在。ここで話をこじれさせれば、また何か不利益が起きるのかもしれない。

 やがて部屋の中で椅子が軋む音がして、伯爵が短く溜め息をつくのが分かった。

「……まあよい。ここは一旦引き上げるとしよう」

 重苦しい空気のまま、会談は終わったようだ。足音がドアに近づく前に、俺は息を潜めて物陰へ身を滑り込ませる。

 伯爵とエレオノール、そして取り巻きの騎士らしき男たちが連れ立って廊下を通り過ぎる。エレオノールは歩きながらも、ひととき俺がいる方へ視線をやったように見えた。でも、俺の姿には気づいていないのか、そのまままっすぐ歩み去っていった。

「……チャンス、逃したな」

 小さく呟きながら、目を伏せる。もし伯爵が本気で「友人関係を築いてほしい」と思っているのなら、俺さえこの家から抜け出す勇気があれば、状況は変わるかもしれない。

 けれど現実問題として、父と継母の支配からどう逃げる? 金もコネもない。この国では貴族の子息といえど、守ってくれる人がいなければあっという間に野垂れ死にしてしまう。

 苦い思いを抱えながら廊下を戻っていると、不意に父がドアから出てきた。思いっきり鉢合わせになり、息が詰まる。

「おまえ…どこをつき歩いている。物置に閉じ込めておいたはずだぞ」

 父の顔には嫌悪がありありと浮かんでいて、そのまま鞭でも振りかざしそうな剣幕だ。俺は身構えたが、意外にも彼は深く息を吐き、苦々しげに首を振るだけにとどまった。

「さっき伯爵が、おまえのことを話題にしてた。それがどういう意味か分かるか?」

「……ええと…」

「エレオノール様の友人役だと? 余計なちょっかいを出すな。あの子は高位貴族の令嬢、うちなんぞが関わっていい相手じゃない」

 父は嫉妬と恐怖が入り混じったような声色だった。下手に彼女に近づけば、大貴族の逆鱗に触れかねない。そう思い込んでいるのか、あるいは自分が恥をかくのを恐れているのか。

「俺だって…勝手に話を進められたわけじゃ」

「黙れ!」

 容赦なく平手打ちが飛んできて、頬が火照る。反射的に痛みのあまり涙が滲むが、声は殺し込んだ。

「いいか。おまえは黙ってろ。妙な期待を持つな。今日のところはそれで終わりだが、変に動けば痛い目を見ることになるからな」

 そう警告して、父は荒々しい足音で去っていく。いつものことだが、今回は妙に焦りが混ざっているように感じた。

 一人廊下に取り残され、じんじん疼く頬を押さえながら、俺は唇を噛む。あの伯爵が提示した“友人”という話。もしかしたら、あれが俺の救いになる可能性だってあるのだ。

(そう簡単に諦めてたまるか…)

 父を出し抜いて、自由を掴み取るにはどうすればいいのか。方法はまだ見えないが、一歩を踏み出さなきゃ何も始まらない。

 たとえこの屋敷で虐げられようとも、俺の人生は俺のものだ。それを邪魔する家族なんて、本来いないほうがマシ――不謹慎だが、そう感じてしまうほどだ。

 そして何より、エレオノールの孤独そうな瞳が頭から離れない。彼女に闇堕ちなんかさせたくない。それがゲームの記憶であろうとなかろうと、今の俺が出した結論は変わらない。

 頬の痛みを抱えながら、自分を奮い立たせるように小さく拳を握る。伯爵の求めるものが何であれ、きっと俺の運命を変えるきっかけになるはずだ。

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