第2話 ランチの約束

 翌日、同じ時間に藤堂がトイレの前を通ると、今度はちゃんと「清掃中」の看板が出ていて、中では早坂がせっせと洗面台を拭いていた。

 藤堂は立ち止まり、早坂の姿を見つめた。昨日と同じように一生懸命な様子に、自然と表情が柔らかくなる。


「おはようございます、早坂さん。今日は看板を出していますね」


 藤堂は温かな声色で話しかけた。その声に気付いた早坂は、雑巾を置いて振り返る。


「あっ! 藤堂さん! はい! 今日は忘れずに看板を出しています!」


 早坂は藤堂の顔を見て、嬉しそうに笑った。

 無邪気な笑顔と幼さの残る話し方。藤堂はただ、早坂の純粋さそのものに特別なものを感じていた。


「看板のことを気にしていたんですね。早坂さんの仕事ぶりはとても素晴らしいですよ」


 藤堂は拭き上げられ水滴一つ残っていない洗面台を見下ろしながら言った。


「実は今日は、わざとこの時間にここを通ってみたんです。早坂さんにまた会えるかなと思って」


 驚いた顔をする早坂に、藤堂は優しい微笑みを返した。


「僕に会いたかったんですか?」


 早坂は不思議そうに、しかし嬉しそうに首を傾げた。


「僕も、また藤堂さんが来てくれるかなって、藤堂さんに会えたらいいことがありそうだなって思ってました。いえ、藤堂さんに会えたこと自体がいいことなんだと思います!」


 早坂は手をパタパタさせながら言った。その仕草がまるでしっぽを振る人懐こい大型犬のようで、藤堂の口元も自然に緩んでいた。早坂の存在そのものが、藤堂の心を温めた。


「早坂さん……私もそう思います。あなたに会えること自体が、私の一日の中での特別な瞬間になっているんです」


 それから藤堂はふと思いつき、言葉を続けた。


「そうだ、お昼休みに一緒にお弁当を食べませんか? 屋上の庭園は静かで眺めもいいんです」


 高層ビルの屋上庭園は、普段エグゼクティブたちが利用する特別なスペースだった。


「屋上庭園! 僕、一度も行ったことがないんです。だって、あそこに入るには部長以上の社員証が必要なんです。だから、藤堂さんでも入れないですよ……」


 早坂はもじもじしながら言った。彼は藤堂のことをエグゼクティブフロアに入れる秘書か何かだと思っていたようだ。32歳という藤堂の若さだけ見れば、そう思うのも無理はないだろう。しかし彼は、大企業である桜商事の経営企画部長なのだ。社員証にもそう書いてあったはずなのだが、漢字の苦手な早坂には読めなかったのだ。

 藤堂は思わず優しく微笑んだ。早坂の純粋さが、また一つ彼の心を温めた。


「大丈夫ですよ。実は私、経営企画部の部長なんです。でも、早坂さんにはそのまま『藤堂さん』って呼んでほしいな」


 藤堂は胸元の社員証を外し、ゆっくりと漢字を指さした。


「ここに書いてある漢字、難しいですよね。私も昔は読めない漢字がたくさんありました。一緒にお弁当を食べながら、ゆっくりお話ししませんか?」


 普段は部下たちに厳しく接する藤堂だが、今はただ早坂を気遣う優しさに溢れていた。


「経営企画部長……!」


 早坂はパッと目を見開いて驚いた顔をした。経営企画部長がどのようなどのような仕事をするのかはわかっていないようだが、「部長」という職位は早坂もよく知っていた。


「他の部長さんたちは、みんなおじさんなのに!」


 早坂の素直な言葉に、藤堂は思わず笑い声をあげた。


「わかりました、藤堂さん。お弁当を食べながらお話ししましょう! 僕、いつもは購買で安いお弁当を買うんです。藤堂さんはどうしますか?」

「私も購買で買いましょう。それでは12時10分に購買で待ち合わせをしましょうか。そうだ、もしものときのために連絡先を交換しておきませんか?」


 藤堂は胸ポケットからスマホを取りだすと、メッセージアプリを開いた。


「メッセージアプリは使っていますか? QRコードを読み取れば簡単に友達登録ができますよ」


 藤堂が訊ねると早坂はうなずいて、同じようにメッセージアプリを開いて藤堂のQRコードを読み取った。藤堂のメッセージアプリの画面に「はやさかまこと」が友達登録された旨が表示される。


「わあ、ありがとうございます!」


 早坂は嬉しそうにスマホの画面を確認し、それから大切そうに作業服の胸ポケットに戻した。


「早坂さんと一緒のランチ、本当に楽しみです」


 藤堂が静かに、優しい声で言うと、早坂はうんうんと何度もうなずいた。


「僕も、藤堂さんとのランチ、すごく楽しみです!」


 早坂は目をキラキラさせてそう言った。

 藤堂は柔らかな笑みを浮かべて早坂を見つめていた。

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