8―5 フェーニックス・ウント・ゲザング 不死鳥と歌声

 錆びた金属が軋むようなメカニカルな合成音声と共に、暗闇から一人の女が現われた。緑色のべリーショートの髪の下に、不気味な笑いを浮かべた闇のように黒い仮面を着けている。そろり、そろりと歩きながら、指先のクラレ・デス・アルプトラウムス悪夢を呼ぶ鉤爪を舐めている。

魔羅マーラ……なのか?」

シャッテンファントム闇の幻影……」

 香輝の声に応える代わりに、仮面女はドーム内を闇から闇へと駆け巡り、鋭い爪でゾンダーゾルダートの兵士たちを切り刻んでいった。赤と黒の迷彩模様の布が、いくつもひらひらと舞い落ちた。

 四つん這いになって尻を高く上げ、仮面女は、にゃーお、と鳴いた。

「やあ、綺麗なお嬢さん。もう立ち直ったのかい? あんな事をされたのに」

 揶揄するように奇左衛門が声をかけた。

「立ち直ってなんかいないわ。私の体と心に付けられた傷は、一生、消える事はない」女は仮面を脱ぎ捨てた。顔のほとんどの部分が醜い傷痕と火傷に覆われている。左目のあるべき所には冷たいレンズの光があった。絶世と言えるほどに美しかった魔羅の面影は、もはやない。「でも、新たな覚悟を決めた。どんな目に遭おうとも、その傷を背負って前に進み、敵を討つと。ガルヴァキスの幽闇ゆうやみの女豹を、舐めるな!」

 ドゥルシュシュナイデンデ貫き切り裂くドゥンケルハイト、の声が空気に溶けるや否や、闇が闇を突き抜け引き裂いた。僅かに残っていたゾンダーゾルダートの兵士たちは、すべて魔羅の餌食となった。

 魔羅は緑色の炎が立ち上るクラレ・デス・アルプトラウムスの切っ先を、真っ直ぐに奇左衛門に向けた。

「ならば私も言わねばなるまい。僥倖である! と」奇左衛門の顔には、一切、笑いの気配はなかった。凍えるように冷たい目をしている。「これで、もう一度君を殺せるのだからな」

 二人の間に起こった出来事を、恋音以外の隊員たちは知らない。

「もう使いこなしてるんだね、魔羅。ボクの最新作、パワード光学迷彩スーツ、エーヴィゲ・フェーニックス!永遠の不死鳥!

「どういう事だ、忍夢」

 眉を寄せて香輝が問う。

「ボクは裏切り者だと言ったでしょ。ゾンダーゾルダートを裏切ったのさ。なんてね、ウソ。投降して寝返ったフリをして反攻の機会を窺ってたんだ。こんなバケモノ共とまともに戦ったら、勝ったとしてもこっちもただじゃ済まないだろうからね」

「魔羅のあれは、いったい……」恋音は魔羅の悲惨な姿を真っ先に見ている。「左目や声帯だけでなく、手足もすべて失ったはずだが」

「ゾンダーゾルダートのご立派な設備を拝借してボクが密かに開発した魔羅専用のバトルスーツだ。体の欠損部分はバイオテクノロジーとロボット工学を融合させた技術で補った。まあ、一種のサイボーグだね。爪の先まで破氣を淀みなく流すのに苦労したけど、叔母さんが手伝ってくれたから上手くいった」

「なんで魔羅の為の作業を楽夢さんが手伝うんだ。嘘をついてやらせたのか」

「違うよ。楽夢叔母さんに敵とか味方とかいう概念はないんだ。あるのは、あくなき研究への情熱のみ」

 恋音は小さく息を吐いて首を振った。

「さて、キザ姉さん」香輝がニヤリと笑って奇左衛門の方を向いた。「どうやらゾンダーゾルダートは、あんた一人になってしまったようだ。また逃げ出すのか」

 奇左衛門の肩が揺れ始めた。

「ふ、ふふふ、ふはははは」

「なんやオバハン、また狂うたんか。楽にしたるわ」

 海王は干しイカを一本、口から引き抜いてヤリイカに変形させた。奇左衛門に狙いを定める。

 だがその時。奇左衛門は一点の曇りもない自信に満ち溢れた声で高らかに言い放った。

「よく聞け、皆の衆。実は指揮官が一番強い、というお約束を忘れたのか」

 シュニッターの隊員たちの間に緊張が走った。毎度毎度の見事な逃げっぷりから想像するに、奇左衛門はかなりの実力者に思えた。

「ていうかキザ姉さん。なんであんたは混乱してないんだよ、ゴーグルを着けてるのに」

 香輝が腕組みをして問うた。

「忍夢くんのゴーグルは量産が難しくてね。数が足りないから、やむなく私は普通の暗視ゴーグルを使ってるんだ。僥倖である!」

「そうなんだよね。このお姉ちゃん、うまいことボクの策略から逃れちゃった」

 忍夢はテヘペロの顔をした。

「我が最終奥義を見よ」

 奇左衛門は両腕を体に引きつけて腰を落とし、体を震わせている。

 こんなとこでうんこする気いか、と呟いた海王の顔に、ふざけた色はない。

「みんな、防御を固めろ」香輝の声が飛ぶ。「何が来るか分からないぞ」

「あいつは足を重点的に鍛えてる」恋音が叫んだ。「おそらく足技だ」

「ボム・ジア・トードス……」

 必殺技らしき言葉と共に、奇左衛門はいきなりドームの出入り口に向かって猛烈にダッシュした。

「あーっ、逃げたで、どこが最終奥義やねん。ヴルフシュピース・デス・ティンテンフィッシャース!」

 ヤリイカが空気を切り裂いて奇左衛門に迫る。だが、背中に目が付いているかのように、奇左衛門は器用に避けた。

「ボム・ジア・トードス。皆さんさようなら、ね」

 魔羅は呆れたように首を振った。

「足を鍛えてたのって……そういう事?」

 げんなりした顔で恋音は奇左衛門の見事な逃げっぷりを眺めた。

「確かに、足技ではあるな」

 香輝が呟いた。

アオトマーティッシェス自動フェアタイディグングス防衛ズィステームシステムシュティーフェル起動

 命を感じさせない冷たい声が流れて、出入り口が一瞬で閉じた。奇左衛門は硬いドアにモロに顔面をぶつけて跳ね返り、受け身を取る暇もなく一回転して倒れた。ゴーグルが割れて軍帽と共に転がっている。緑の草原に、鮮やかなあかい髪が大輪の花を咲かせた。

「うわあ、痛そうやな」海王は鼻に皺を寄せた。「おーい、オバハン、生きとうか?」

 しばらく倒れていた奇左衛門は、ゆっくりと上体を起こした。周囲を見回している。

「何? なんなの、ここは。真っ暗で何も見えない」

「おいおい、キザ姉さん」香輝は首を振りながらゆっくりと奇左衛門に近づいていった。「奥義で逃げ損なったからって、今度は私は誰? 大作戦か」

「その声は……温泉で出会った香輝さん?」

 立ち止まった香輝は、闇の中の奇左衛門をじっと見つめた。森の妖精のように涼やかな声、そして艶やかな紅い髪。

「まさか、キサラさんなのか?」

 動揺の色を顔に浮かべて、香輝はよろめくように数歩、後ろに下がった。

「ああ、やっぱりそうなのね。ねえ香輝さん、私の妹を知らないかしら。一緒に温泉に来たはずなのに見当たらないの。リミっていうの」

 香輝は、やや俯き加減に厳しい顔をした。

「キサラさん。俺たち、温泉でなんの話をしたか覚えてますか?」

「ええ、もちろん。秘湯を目指した私と仲間たちは、道に迷って、道に迷って……」

 キサラは目を泳がせた。

「野獣と遭遇して、妹さんと仲間を一人失った」

 恋音が魔羅に視線を送った。魔羅は眉を上げて自分を指差した。恋音が頷く。

「ふ、ふふ、何を言ってるの。リミはちゃんと生きてる。ほら、私の傍に。リミ? リミ、どこにいるの、リミ!」

「死んだんだ、あなたの妹は。野獣に喰われて」

「嘘よ。香輝さん、どうしてそんな酷い嘘をつくの? リミ、ねえリミ、隠れてないで出てきて。しょうがない子ね。意凛、リミはどこなの? ……意凛?」

「意凛も死んだよ」恋音が悲痛な面持ちで話し始めた。「あんたは意凛に僕を殺せと命じた。ゾンダーゾルダートとして精神改造された意凛は命令に逆らえないと知った上で。そのせいで僕らは決闘になった。意凛は……わざと僕に負けて死んだ。二人は分かり合えるはずだったのに。あんたが殺したんだ」

「は、ははは、あなたたち、どうして私を騙そうとするの? 嘘、嘘、嘘よ」キサラの目から涙が溢れた。床を見つめて肩を震わせている。「……そうじゃない。嘘つきは私。本当は分かってる。リミは死んだ。意凛や隊のみんなも私に命じられて戦って、戦って、戦って死んでいった。死んでいった。死んで……いった……う、う、うあーーーーー!」

「キサラ!」

 香輝はキサラを抱きしめた。キサラは香輝の腕の中で暴れた。でも、香輝は放さなかった。

「ああ、なぜ、なぜこんな事に……」

 キサラは頭を抱えた。

「優し過ぎる君の心は、大切な妹や仲間を失った悲しみを受け止めきれなくて砕けてしまったんじゃないだろうか」香輝は優しく語りかけた。「それでも君は戦う事をやめようとはしなかった。障害者として誇りを持って生きたお兄さんを侮辱する連中を許せなかったからだ。そんな無理を押し通したから歪みが生じたんだ。それが奇左衛門という奇矯な人格を生んだ。俺はそう思う」

「奇左衛門である間だけ、私は悲しみを忘れられた……はずだった」

「忘れたんじゃない。ましてや、なくなったりはしない。見えないフリをしていただけだ」

「……そうね。そして私は」キサラは唇を強く結んで俯いた。「別人格になっていたのだとしても、多くの過ちを犯した」

「その事に気付き後悔したとしても罪が消える事はない。命をなくした者たちが蘇るわけでもない。でも」香輝はキサラの深紅の髪を優しく撫でて、真っ直ぐに自分の方を向かせた。「これからは俺がいる。俺が君の傍にいる」

「香輝?」

「俺にも君と同じくらい、けっして許される事のない罪があるんだ。異星人に騙され自分の正体を知らなかったとはいえ、死すべきではない沢山の命を奪った。それを償うだなんて不遜な事は言わない。償えるとも思わない。だから、二人で背負っていこう。二人で、共に背負って生きていこう、キサラ」

「ずっと私と一緒にいてくれるの?」

「ああ、そうだ。いつまでも傍にいて、君の歌を聴いていたい」香輝は仲間たちの方を振り返った。「いいだろ? みんな」

 海王は咥えた干しイカをブラブラさせている。恋音はせっせと髪を梳き、魔羅は眉を寄せた渋い顔をして指先の爪で頭を掻いている、忍夢はメガネを弄った。夜月は口元に笑みを浮かべて頷いた。

 反応はそれぞれだ。だが、引き留めようとする者はいなかった。それが香輝にとっての、何よりの祝福だった。

「僥倖である、と言いたいところだけど」キサラは前歯のLEDを点灯させて香輝の顔を照らした。「ちょっとマッタケ。香輝、奇左衛門の時にあなたの資料を読んだのを思い出した。まだ十九でしょ? 私を何歳だと思ってるの」

「二十六歳のぴちぴちギャルだろ。射程圏内だ」

 香輝は力強く拳を突き出した。

「それは設定なの。本当は二十四、だった。今年の誕生日はもう過ぎたから二十五。だとしてもあなたより六つ上。それでもいいの?」

「そうか、それはちょっと……どうしようかな……なんてね。ウチの母ちゃんも二つ上だった。カイン・プロブレーム!問題ないさ

「いじわる……」

 キサラは香輝にしがみついた。嗚咽し始めたキサラを香輝はそっと包み込んだ。

「泣け、キサラ。泣けるだけ泣くんだ、力の限り泣き喚け! 俺がすべて受け止めてやる」香輝は腕に力を込めた。「でもけっして忘れるな、その悲しみを、後悔を……寂しさを。死んでいった者たちの為に」

 キサラは香輝の腕の中で泣き続けた。子供のように無垢に。そして、誠実な心で。

「ようやく、あんたにこれを返す時がきたようだ」

 恋音は意凛のレーザーブレード搭載型秋影刀をキサラに手渡した。キサラは目を閉じて、しっかりと胸に抱いた。

フォアベハルト警告、ガルヴァキス絶滅準備完了』

 再び声が聞こえた。ドームが激しく揺れ始めた。

「これってマズいよ、夜月」

 いつも余裕を感じさせる忍夢が頬を引きつらせている。

「みんな、手を繋げ!」夜月が叫んだ「キサラ、あんたもだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る