5―5 ディー・シュヴァイゲンデ・ディーヴァ 沈黙の歌姫

 清らかに透き通った優しく典雅な旋律が、打ち棄てられて廃墟となったマンションの中に遠く流れて消えていく。竪琴の一種、リュラを爪弾いているのは、コンクリートの壁を背に座っている恋音れんとだ。

 恋音の目の前には、ゾンダーゾルダートの女兵士が横たわっている。その瞼が、ピクリ、と動いた。

「よう、目が覚めたか」

 兵士は恋音の姿を認めて、一瞬、驚いた顔をしたが、襲いかかってはこなかった。上体を起こして周囲を見回している。

「私はどうなったの? あなたと戦っていたはずなんだけど」

「そうだよ。建設途中で放棄されたこのマンションの屋上で僕らは戦っていた。でも、足下が崩れて落下したんだ。その時、君は鉄骨に頭をぶつけて意識をなくした」

 恋音は上を指差した。剥き出しの鉄骨が見える。その向こうには青空が広がっていた。

「なぜ殺さなかったの? チャンスじゃない」

「さあ、なんでだろ。戦闘態勢じゃない女の子を攻撃するのは、なんか違う気がした。ていうか、君こそ目を覚ましたのになぜ襲ってこない。いつもなら問答無用で飛びかかってくるのに」

 シュニッターとゾンダーゾルダートは、日々、戦い続けている。

「私たちゾンダーゾルダートは、涼森隊長の命令には絶対に逆らえない。殺せと言われれば殺す。たとえそれが自分にとってかけがえのない大切な人だったとしても。でも、今の私は命令を受けた覚えがない。だから、あなたを攻撃する理由がない」

 恋音は、弾けたように笑った。

「なんだよそれ。頭を打って命令を忘れました、ってか」

 女兵士は笑わない。

「え、マジで?」

「それに。助けてくれたんでしょ、私を。なんとなく、だけど覚えてる。落ちてきた瓦礫の下敷きになりそうになった私は、あなたに引きずられて……」

「まあ、そうだけど」

「ありがとう。あなたに感謝します」

 恋音は天を仰いで首を振った。

「どうなってるんだ。ゾンダーゾルダートは感情のない廃人兵士じゃなかったのか」

 女兵士はコンクリートの床に視線を落として、一つ息をついた。

妖牙谷あやかしがたに楽夢らむがガルヴァキスからの離反と同時に国衛軍に持ち込んだ新種の寄生虫を利用する精神改造技術によって、私たちゾンダーゾルダートの兵士は恐怖を感じなくなった。そして標的への猛烈な攻撃欲求が抑えられない。しかも上官の命令には絶対服従」女兵士は辛そうに眉を寄せた。「だけど、心をなくしたわけではないの」

「そうなのか。意外だ。ずっと君たちを誤解していたんだな、僕らは」

「私たちもガルヴァキスの事を正しく理解していなかったようね。冷酷非道の食人鬼。そう教えられて信じてた。それなのに、敵である私をあなたは助けてくれた」

「成り行きだ」

 恋音は両手を軽く上げた。

 女兵士は恋音の顔をじっと見つめている。

「なんだ?」

「私は、瓜虎うりとら意凛いりん

「そうか。僕は……」

「病み上がりのオイテルペ=恋音れんと、でしょ?」

「おや、有名になったもんだね。こんなに素敵な女の子に名前を知られてるなんて」

「あなたもなかなかの男前よ、恋音さん」

「恋音でいい。僕も意凛と呼ぶから」

「うん、分かった。早速だけど恋音、これからどうするの? 戦いの続きをやる?」

「バカ言うな。そんな気分じゃない。それに、このエリアの敵を排除しろ、という命令を受けてるけど、今の意凛は、どうやら敵じゃない」

「それじゃあ、他の戦闘地域へ?」

「行くべきなんだが。君との戦闘で破氣が尽きた。行っても役に立たない。強いね、意凛」

「恋音こそ。いくら深く踏み込んで攻撃しても、全部かわしてカウンターを狙ってくる」

「鍛えられてるからね、デーモネン・コマンダンティン鬼隊長に」

「流風舞空の刃=夜月。そんなに恐い人なの?」

「いや。アオフガーベ任務には厳しいけど、普段はちょっと天然の、わりと普通の女の子だよ」

「それも意外だな。戦場での彼女はまさに鬼神だもの。何度か殺されかけた」

「夜月に狙われて生きてるなんて、意凛はやっぱりすごいね」

 意凛は、はにかむように笑った。

 無骨な戦闘服の上からでも、意凛の体はしっかり鍛えられているという事が分かる。なおかつ、メリハリの利いた女らしいボディラインも隠しきれていない。そう、戦闘服の上からでも、はっきりと、ボディラインが……。

「さて、どうしようか」よからぬ想像をしてしまった恋音は、意凛から目を逸らして、ごまかすように話し始めた。「他の隊員か基地と連絡を取って撤収したいところだが。通信機は意凛の高周波レーザーブレードで真っ二つだ」

「あ……」意凛は自分の手を見て声を上げた。超高密度の収束と高周波変調によって凄まじい切れ味を発揮するレーザーブレードを搭載した秋影刀のつかが、しっかり握られている。今は刀身が起動されていないので、ただの短い棒にしか見えないが。「武器を奪わなかったの? セオリーでしょ、敵を無力化しておくのは」

「そうなんだけど。失神してるのに意凛はそれを握りしめて放そうとしなかった。大事なものなんだろ? 無理やり取り上げる気にはなれなかった」

「そう、とても大切なの。隊長がくれた。剣術の達人である君なら有効に使ってくれそうだな、と言って、自分が使っていたものを私の手に握らせた」

「隊長……涼森奇左衛門か。いくら倒しても懲りずに仕掛けてくる。しつこいギャルオバサンだ」

「今ではあんなふうに、ちょっとおかしい……ええっと、ひょうきんな人になっちゃったけど、かつてはとってもまじめで爽やかで優しかったのよ」

「まじめで爽やか? あいつが?」

「幼稚園時代からの親友だったリミちゃんのお姉さんなの。入学が決まっていた音楽大学をキャンセルして、高校卒業と同時に引退して国防大学に入っちゃった。軍人なんてぜんぜん務まりそうにないから、周りの人はみんな驚いてた」

「音大ねえ。そんな感じはしないけどな」

「小さな頃から奇跡の歌姫として名を知られていたのよ。世界中の著名な音楽家から共演のオファーが来て、断るのが大変だったみたい」

「涼森……あ、なんとなく記憶にあるよ。夜月に誘われて香輝と三人でコンサートに行った。会場は港嶺こうれいコンツェルトハウスだ。アウーなんとかハーモニカ、みたいな名前のオーケストラをバックに、オペラのアリアなんかを中心にしたプログラムだった」

「もしかして、アウグスティヒア・フィルハーモニカー管弦楽団?」

「ああ、それそれ。そのハーモニカ。颯爽としながらも妖艶な魅力に溢れた、素敵なお姉さまだったのを覚えてる。僕が十三歳の時だから、彼女は二十歳か。あれ? 計算が合わない」

「あのコンサートのチケットを取るのは、十億円の宝くじ当てるより難しい、って言われてたのよ? のちに『アルテミスの花びら』の呼び名で伝説的に語られる歌姫が、人気絶頂の穂関ほせき優翔ゆうとが指揮する名門中の名門、アウグスティヒア・フィルハーモニーとの共演で開いた電撃引退公演だったから」意凛は興奮気味に目を見開いている。「どうやって手に入れたの?」

「ヴェヒターの一人にね、名前は言えないけど、クラシック音楽界の実力者がいるんだ」

「そうなんだ。ラッキーね」

「そんなにすごい音楽家だったお姉さまが、何をどう間違えて軍人になっちゃったんだ?」

「彼女が高三になったばかりの春の事だった、と私は聞いている。老人とか障害者とか、社会の負担にしかならない奴らは処分するべきだよな、と言ったクラスメイトと口論になったの。それからしばらく経った頃、ガルヴァキスは私が倒す! と宣言して、軍人になる為の勉強と鍛錬を始めた。非生産者排除を唱える一部の人たちの間で、ガルヴァキスがヒーロー扱いされている事に我慢ならなかったみたい」

「ちゃんと一本、筋の通った人なんだな。あんなふうに、かなりおかしい……ああ、ええと、とても個性豊かで、本気か冗談か分からない掴み所のないオバギャルだけど」恋音は少し俯いて、顎に手を当てた。「でもあいつ、たまに寂しそうな目をするよね。なんでだろ」

「妹をガルヴァキスに殺されたからよ」

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