4―3 ヴァルム・ヌーア? どうして

 波月は、ゆっくりと瞼を開いた。

 ノイエ・メンシェン=ガルヴァキスと名乗る集団に重度障害者入所施設『ストレリチアの郷』を襲撃されて、施設長である波月も攻撃を受けた。口に何かを詰め込まれてベッドの足に括りつけられている。2020年が明けて間もない、寒さ厳しい1月の夜だ。でも布団を着せられているので、体はさほど辛くはなかった。

 夢の中のごとく不明瞭な月明かりに支配された視界の中で、成人したかどうか分からないぐらいに見える若い男女が大きな黒い袋を担いで運び出していくのがなんとなく見えた。救助を要請した国衛軍は敗北したようだ。

 袋の中身はおそらく施設の入所者たちだ。もう、生きていないに違いない。ガルヴァキスの食料にされるのだから。

 波月は入所者一人一人の顔を思い浮かべた。瞼に力を込めて必死に堪えたが、涙を止める事はできなかった。

 指揮を執る少女の背中は、重い荷物を背負うにはあまりにも小さいと思えた。いつか見た、小さな背中。記憶がチカチカと瞬いている。冬よりも冷たい何かが、胸の内に浮かんでは消えた。

 寂しそうな目をしたあの子は、どうして私を殺さなかったのだろう。世間の人々から冷血な食人鬼と怖れられている連中なのに。気絶させて縛るより命を奪う方が彼女にとっては簡単で早かったはずだ。

 どうして。

 ふと、彼女に対して、かつて同じ問いかけをしたような気がした。そして、同じ言葉をかけられた事があるという、確信にも似た感触が胸を掠めた。

 どうして。

 あの時と同じく、理由の分からない涙が滲んだ。あの時?

 どうして。

 『ストレリチアの郷』から調達した物資をすべてトラックに積み終わった事を確認した香輝は、運転席のステップに足を掛けた恋音れんとの肩を叩いた。

「帰りも俺が運転するよ」

「え、でも」

「外を見ながら帰りたいんだ」香輝は笑顔を見せた。「荷物と一緒に詰め込まれてばかりでは気が滅入る」

 香輝はナビシートで足を組んだ夜月を横目に見た。

 ひと仕事終えたというのに、達成感を味わっている様子はない。

 十五年以上、一緒にすごしてきたが、未だに正体が知れなかった。

 どうして。

 仲間として頼もしく、親しい友人でもありながら、少しも夜月を理解できていない事を香輝は寂しく感じた。

 いつの日か、本当の夜月と出会えるのだろうか。

 瞼を開くと、トラックの運転席で香輝が笑っていた。

「どうした。居眠りしてるなんて珍しいな」

 夜月は、一つ息をついた。

「夢を見た。お前と初めて会った時の」

「ああ、夜の緑花ろっか公園か」

 嘘ではない。ただし、思い出したのは香輝よりもむしろ母の波月の事だった。夜月を守る為、刃物を持った相手に自分の身を晒した。

 必死に抱きしめられた時の温もりを、安らぎを、夜月は今も覚えている。その瞬間に母の髪飾りから聞えた、ちりーん、という鈴のは、十五年が過ぎた今も、まだ耳の奥に残っていた。

「分からないな」

 香輝が呟いた。

「何が分からないんだ」

 夜月は前を向いたまま尋ねた。その顔には、なんの表情も浮かんでいない。

「前から思ってたんだが。夜月、お前はアルテ・メンシェンに対して甘いところがある」

「そんな事はない」

 冷たく抑えた声で夜月は答えた。

「そうかな。さっきだって、施設長の女を殺さずに気絶させた」

「あの女は一つの施設の管理を任されていた。有能な人材なのだろう。来るべきガルヴァキスの未来の為に必要だと判断した。我々は趣味で人を殺しているのではない」

「髪飾りの鈴のを聞いた瞬間にやいばを止めたように見えたが」

 香輝は一瞬、鋭い目をした。

「……偶然だ」

 夜月の反応は僅かに遅れたが、声に変化は見られなかった。

「いいか夜月。二十世紀最後の年に起こった『始まりの日』からもうすぐ二十年が経過する。来年の夏、お前は二十歳になり、名実共にウンゼレ・ケーニギン我らの女王陛下としてガルヴァキスを統率する立場になる。目指すべき未来を我々に指し示さなければならない。迷いは禁物だ」

「迷いはない」

 一点を見つめたまま、夜月は動かなかった。

 香輝は黄色い髪をくしゃっと弄りながら長い息をついた。

「これは友人として言うんだが」

 続く言葉を待つように、夜月は視線だけを香輝の方に向けた。

「俺はお前が心配だ。迷いは身を滅ぼす。お前には、いつまでも友人として傍にいて欲しい」

 夜月が微笑むと、右の頬に微かなえくぼが浮かんだ。

「それを言う為に運転手役を買って出たのか、シュテルフェアトレテンダー・コマンダンテ副隊長なのに」

 通常、シュテルフェアトレテンダー・コマンダンテは荷台で他の隊員と共に待機する。運転はしない。不測の事態に素早く対処する為だ。

「とにかく俺は、お前に無事でいて欲しいんだ。だから、必要な時は遠慮なく頼れ。そして、迷うな」

「心に留めておくよ」

 夜月は迷わない。人類を導くべき存在、ノイエ・メンシェン新たなる人類=ガルヴァキスとして生まれたのだから。使命を負う者としての自覚が揺らぐ事はなかった。アルテ・メンシェンの両親に育てられていた頃の自分は、とうの昔に捨てた。

 それなのになぜ、母の髪飾りから聞えた鈴のが今も耳に残っているのだろう。

 どうして。

 目を細めて、陽が昇り始めた空を見上げた。

 夜月は、迷わない。

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