3―3 メンシェンフレッサー 食人鬼
波月はしばらく実家でのんびりとすごした。父も母も夜月に会えた事がたいそう嬉しかったようで、毎日、一緒に遊んで、欲しがる本やCDを次々に買い与えたりしていた。波月は少しずつ心身共に落ち着きを取り戻していった。
一ヶ月ほどが過ぎたある日、高校の同級生だった
会場は、かつて港嶺市で暮らしていた外国人たちの邸宅が点在する一角にあるレストランだ。それ自体も歴史的建造物を改装して店舗として利用されているものだ。当時のままの面影を色濃く残す木造建築は、長い時を越えてきた静謐な空気に満ちていた。
「わあ、波月ちゃんの子供の頃にそっくりだね」
小学校から高校まで一緒だった絵美が夜月を見ながら声を上げた。絵美とは互いに恋愛相談などをしていた仲なので、感慨深いものがあるのかもしれない。
「ほんとにね。私は高校からしか知らないけど、切れ長の賢そうな目が似てる」
祐子も同意した。高校では絵美と共に生物部で一緒だった。今は中学校で国語の教師をしている。
「二人とも元気だった?」
波月が声をかけると、絵美と祐子は顔を見合わせた。
「まあ、元気ではあるけど」
「何事もない、とは言えないよね」
「どうしたの?」
波月は眉を寄せた。
「波月ちゃんと同じだよ。二人とも離婚したばかりなの」
絵美の言葉に、波月は漠然とした不安のようなものを感じた。
先日、職場の同期で親友の海歌と電話をしたときの言葉が蘇ってきた。
――離婚届が役所の窓口に積み上がっとう。
海歌によると、中央区役所に勤めている大学時代の先輩がそんな話をしていたという。四年前の『恋の花吹雪』と同様の勢いで『別れの木枯らし』が吹き荒れている、と。しかも、離婚届を提出してくるのは、恋の花吹雪の時に婚姻届を出したカップルがほとんどらしい。
身近な例で言っても、同時期に結婚した同級生が三人ともそろって離婚しただなんて、少々不気味ではないだろうか。
「子供がいたよね?」
波月が問うと、二人は頷いた。
「施設に預けた」
「私も」
何でもない事のように答える絵美と祐子の顔に、後悔や悲しみの色は見えなかった。
「どうして……」
戸惑いを感じて波月は問うた。
「なんというか、急に可愛いと思えなくなっちゃった」天気の話でもするように軽い調子で、絵美は珈琲を飲みながら言う。「熱が冷めたみたいに興味がなくなったの。それどころか、一緒にいるのは間違っている気がした」
「そうそう、私も」
自分の子供に対する興味がなくなった? 波月には信じがたい事だった。
「どこに預けたの?」
「うーん、なんだったかな」
「
「ああそうか。祐子と同じ所に預けたんだよね。この子、どうしようかなあと思っているところへタイミングよくダイレクトメールが来て、すぐに連絡した。無料で引き取ってくれたよ」
「そんな、不要品じゃあるまいし」
波月の笑みは苦味を含んだものになってしまった。
「不要品みたいな感じだったなあ、最後の方。いつまでも家に置いておくのは邪魔だから、早く片付けたかった」
「うん、そうだね」祐子は絵美に同意した。「使わなくなったテレビと一緒で、場所を取るだけなのよ。しかも、いろいろ世話をしなきゃならないでしょ? 私、何やってるんだろうって思った」
離婚した元夫婦の子供を引き取っているのは九院。海歌はその話もしていた。
――別れの木枯らしで離婚した親は、どっちも子供を引き取らへんねんて。ほんでな、
養殖で大量生産された子供が箱詰めされて九院の倉庫に積み上がっていく。そんなイメージが浮かんで、波月は気分が悪くなったのを覚えている。本能的な怖さを感じたが、具体的に口にすべき言葉を思いつかなかった。
――なんかプログラムされとうみたいやと思わへん? 一時期にドバっと結婚、出産。三歳が近づいた頃、一斉離婚。子供はみんな同じ施設が引き取っとう。
まさか、自分もプログラムの一部なのだろうか。波月は不安を拭えなかった。いつか夜月を手放す日が来る?
有り得ない。夜月だけは、何があっても私が育てる。波月は自分に言い聞かせるようにそう思った。
「もう一つ事件があった」絵美が少し暗い顔を見せた。「私のおじいちゃんが殺された」
「殺された? 強盗か何かなの?」
「食人鬼、ガルヴァキス」
祐子が苦々しげに補足した。絵美は涙ぐんでいる。
「ホームレスが食べられた、という話なら何かで見たけど」
「ああそうか、波月は遠くにいたからよく知らないんだね」絵美に代わって祐子が説明を始めた。「老人や障害者の施設なんかを襲って入所者を連れ去る事件が時々発生しているの。自分たちの事をノイエ・メンシェン=ガルヴァキスと名乗ってる。新たなる人類、って意味だね。ホームレスを狙う食人鬼と犯人は同じじゃないかって噂になってる。だから絵美のおじいさんはおそらく……」
「おじいちゃんは歳を取るにつれて我儘放題になって家族はみんな困ってた。だから掠われたって聞いて、正直ほっとした気持ちがあったのは否定しない。でも」絵美が声を上げて泣き始めた。「小さな頃から可愛がってくれたんだよ? なんでそんな目に遭わなきゃいけないの」
波月も何度か会った事がある。ひょうきんで面白いおじさんだった。声は上げなかったが涙が滲んだ。周囲でテーブルを囲んでいる客たちが遠慮がちな視線を送ってくるのを感じたけれど、どうにもならなかった。
人が人を喰らう。悪魔のような所業だ。ガルヴァキス。どんな恐ろしい奴らなんだろう。
傍らで本を読んでいる夜月に視線を送った。夜月は振り向いて無邪気な笑顔を見せた。右頬のえくぼが可愛らしい。この子を守らなければならない。そんな思いを新たにした。
しばらく静かな食事が続いた。でも徐々に気分は回復して、笑顔が見られるようになっていった。
「ねえ波月。仕事はどうするの?」
祐子に尋ねられて波月は言葉に詰まった。正直、まだ考えていなかった。いつまでも実家に甘えるわけにはいかない事は分かっていたけれど。
「新卒じゃなくなっちゃったしねえ」波月は小さく息をついた。「三十歳も見えてきた。いい仕事、あるかなあ」
「まだ二十八でしょ。なんとかなるよ」
絵美は高校卒業から十年経った今でも明るくて前向きだ。おかげで少し元気が出たかもしれない。
「教育大の同級生に、障害児たちが通う特別支援学校に配属されている子がいるんだけどね」祐子が真剣な顔で話し始めた。「デイサービスなどの施設を利用したいのに、介護職員が足りないのを理由に断られることがあって困っている、という話を、保護者たちからよく聞くらしいの」
「へえ、そうなんだ」
自分には関係ないと波月には思えた。夜月に障害はない。
「特にレスパイトのやりくりが大変なんだって」
「レス……? ごめん、分からない」
波月は訊き返した。
「いいの。知らないのが普通だから。障害者なんて自分には関係ないと思っている人が多い。いつどこで誰が障害者になったり障害児を産むか分からないのに」
祐子は少し憤っているようだ。波月は心が痛むのを感じた。
「正直に言って私もそうかもしれない。意識が足りないのかな」
「ああごめん、波月」祐子は手を振った。「責めてるんじゃないの。知って欲しいとは思うけど。障害児の親ってね、なかなか心も体も休まる時がないの。それは事実。そんな親に休息を取ってまた頑張ってもらう為に、一時的に入所施設に子供を預けるのがレスパイト」
「大変そうだね」
絵美が呟いた。
「他人事じゃないんだってば。障害児は産んだ親が全責任を負って育てるべき、じゃないと私は思う。障害を持った子は一定の比率で生まれてくる。だから、偶然その家に生まれただけなの。それを生んだ親が代表して育ててくれているのだという事を理解して欲しい。たまたま自分は直接の担当にならなかった、それだけの事だよ。障害児が生まれなかった親にも守り育てる責任の一端はある」
これまで全く触れた事のなかった世界だが、波月は少し興味を持ち始めた。隣で小さな椅子に座っている夜月を見つめた。もしもこの子が障害児だったなら。誰もがそういう想像力を持つ必要があるんじゃないだろうか。
「ねえ祐子、介護って資格がいるの?」
波月が尋ねると、祐子は口元に笑みを浮かべて説明を始めた。
「とりあえずは資格なしで始められる。そして現場で働きながら様々な資格を取っていけば仕事の幅が広がるし責任のある立場を目指せる」
「私にできるかな」
「できると思う。だから勧めてみようと思ったの。高齢化が進んでこれから需要が伸びる業界でもあるしね。障害児だって増えていく」
「どうして増えるの?」絵美が祐子の顔を覗いた。「医療はどんどん発達するのに」
「だからよ。以前の医学レベルなら命を落としていた子が生き延びられるようになってきた。でも、そういう子は障害を負いやすい」
「だったら助けないで死んでくれた方が……ごめん」
「残念な事だけど、少なからぬ人々が本音ではそういう感覚を持っていると思う」祐子は寂しそうに目を伏せた。「でもね、命に優劣はあるのかな。それに、障害児の親が子に向ける眼差しは、健常の子に対するものと変わらないという事実を知れば、考えが違ってくると思うんだけど」
「そうだね」波月は食人鬼の話を思い出していた。「ホームレスだからって殺されて食べられてもいいわけじゃない。老人や障害者だから生きなくてもいいんじゃない。それぞれにきっと喜びがある。それは十分に生きる意味になる」
「よく分かってるじゃない、波月。やっぱり適任かもしれない。改めて訊くけど。どう、介護やってみない? 知り合いの施設を紹介できるよ」
「そうね。考えてみる」
夜月はずっとおとなしかった。普通はぐずるのではないだろうか。親の長話など子供には苦痛でしかないはずだ。
トマトジュースを飲みながら、オレンジ色のリュックに入れて持ってきた本を熱心に読んでいる。大人でも理解が難しそうなタイトルのついているものだ。
自宅にも二歳の女児が読むとは思えない本がたくさんある。理系の大学の図書館を彷彿とさせた。特に宇宙に関する書籍が多い。いずれも夜月自身が選んだものだ。絵本や児童書には見向きもしない。まるで精神が既に成人しているかのようだった。あるいは恐ろしく知能が高いか。
誇らしく思う一方、正直に言うと不安でもあった。将来はいったい何者になるのだろう。障害者や老人など、特別に助けを必要とする人たちに対して優しい子に育ってくれるといいのだけど。
「夜月ちゃん、何読んでるの?」
絵美が話しかけると、夜月は顔を上げて右の頬にえくぼを浮かべた。
「トランジット法、視線速度法、重力マイクロレンズ法、タイミング法、アストロメトリ法などの様々な手法で、系外惑星を見つける方法を解説した本です」
大人の女たち三人は顔を見合わせた。
波月たちはすっかり高校生だった頃に戻ってつい話し込んでしまった。二次会、三次会へと突入し、夜月を寝かせる時間が気になり始めた頃、またの再会を約束して名残を惜しみながら、波月は旧友たちと別れた。一年のうちで最も昼の長い季節であるにもかかわらず、とっくに日は暮れていた。
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