クロノカフェの特異点はハチミツ色

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第1話

新宿の高層ビル群から伸びる細い路地を、高校三年生の伊月颯太は自転車を押しながら歩いていた。スマホの地図アプリに表示されたピンの位置を確認するたび、眉間にしわが寄る。卒業アルバム用の街角スナップを撮影する課題で選んだこのエリア、確かに古い商店街の名残があるものの、人通りはまばらだ。


「ここから西に200メートル……って、この塀の向こうじゃないか」


錆びた鉄パイプで組まれた仮設柵の隙間から覗く路地裏。コンクリート壁に蔦が絡まり、午後三時だというのに薄暗い。カメラのレンズキャップを外す指先に、なぜか冷や汗がにじむ。


シャッター音が路地に吸い込まれる。その瞬間、風もないのに蔦の葉がざわめいた。颯太が首をすくめると、視界の端を白い影が横切る。


「猫……?」


カメラを構え直すと、古びた看板が写り込んだ。手書きの文字がかすれているが、「珈琲 時計台」と読める。木製のドアには真鍮製の鳩時計がぶら下がり、奇妙に精緻な彫刻が施されている。


「こんなとこにカフェあったのか」


ドアノブに触れた瞬間、鳩時計が突然動き出す。ガラス玉のような目が赤く光り、機械仕掛けの羽根がばたつく。颯太が後ずさりすると、ドアはひとりでに開いた。


店内は想像以上に広く、天井まで届く本棚が迷路のように連なっている。ヴィクトリア朝調のシャンデリアが柔らかな光を放ち、どこからかヴァイオリンの調べが聞こえる。だが最も驚いたのは客席の様子だった。


窓際の席で白髪の老人がチェスを指している。相手はチョーク色の肌の青年で、瞳が猫のように細長い。奥のカウンターでは着物姿の女性が煙管をくゆらせながら、手元で何やら光る粉を混ぜている。


「いらっしゃい」


声のした方を見上げて息を飲んだ。階段の踊り場に立つ女性は、まるで古い絵本から抜け出てきたような出で立ちだ。黒いレースのエプロンドレスに銀髪、左目に付けた単眼鏡が青く輝いている。


「初めてのお客様ね。階段に気をつけて」


足元を見ると、木製の階段ではなく、浮遊する石板が螺旋状に連なっている。颯太が震える足を乗せた途端、石板がきしみながら上昇し始めた。


二階に着くと、女性は氷のように冷たい指先で颯太の顎をそっと持ち上げた。単眼鏡の奥の瞳が、星空のように渦を巻いている。


「あら……面白いわ。あなたの時間の糸、ねじれているもの」


本棚の陰から現れた三毛猫が颯太の足元にすり寄る。女性は猫の首輪にぶら下がった砂時計をひねりながら微笑んだ。


「当店の名物ブレンドはいかが? 記憶を研ぐ『モナ・リザ・スマイル』か、未来を見通す『ダ・ヴィンチ・ティアーズ』がお薦めよ」


と、その時、階下から金属音が響いた。女性の表情が一瞬凍りつく。階段を駆け下りると、チェス盤の上で黒のナイトが暴れ回っていた。老人が杖で抑えようとするが、駒は鎧をまとった騎士へと変貌しつつある。


「また始まったわね」女性がため息をつき、エプロンのポケットから銀のティースプーンを取り出す。「ご新規さん、残念だけど今日は閉店よ。でも──」


女性が颯太の手に冷たいものを握らせた。見れば氷砂糖のような結晶が掌で微光を放っている。「お土産よ。迷った時には舐めるの」


次の瞬間、背中を押されるような衝撃と共に視界が歪んだ。気がつくと颯太は路地裏の入口でしゃがみ込み、スマホの画面に「バッテリー低下」の表示が点滅していた。


「夢……?」


立ち上がるとズボンのポケットに違和感。取り出した氷砂糖が夕日を受けて虹色に輝いている。近くのコンビニで充電したスマホのアルバムフォルダを開くと、そこには写っていないはずのものがあった。


蔦絡まる壁の前で、鎧姿の騎士と銀のスプーンを構える女性が宙に浮かぶ一瞬。写真の端には三毛猫のしっぽが写り込み、砂時計の首輪がくっきりとしていた。


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