零落女神と同居する学生退魔師の話

@sakamune

第1話

「おっはよー! 朝だよ『お兄ちゃん』!」


 健康的な朝は元気な妹が優しく起こしてくれる所から始まる、……等と言う格言は存在しない。


 そもそもその存在は「妹」ではないし、「人間」ですらない。そして「優しく」と言うのは「充分な助走を付けた上で放たれるダブルニードロップ」の事を指す訳が無いので、結局の所ミリレベルでかすりもしていないのである。


 陶器の如き白い膝が空を舞う。

 だが目標へとその攻撃が到達する前に、対象は毛布を右足で蹴り上げて刺客の視界を隠していた。


「フッ……!」


 それと同時に両肘を煎餅せんべい布団に叩き付けて上体を起こし、即座に体幹を安定させて右、左、右、の三連正中線突きを放ち、左下段蹴りによる脚払いを掛ける。


 牽制とはとても言えない重さの拳打に加え、正面からすねし折るような蹴りを受け、毛布に包まれた刺客は部屋の反対へと吹き飛んだ。

 処分予定の古箪笥が音を立てて破壊され、木片やら埃やらが空中に散乱して日光で輝く。


「痛たたた……。これは流石と言うべきかしら、それとも少しは手加減しなさいと言う方が?」


 ニードロップを防がれ、殺人的な連打を浴びせられたにも関わらず、被せられた毛布の中から平然とした様子で一人の女が顔を覗かせた。

 夜を紡いだような黒髪、月の光を閉じ込めたが如き輝く白い肌、その二つに人外の美貌を兼ね揃えた妙齢の美女である。


「……ハァ。手加減は充分にした、気を全然通さずに打ったのだからお前には実質的なダメージは無いだろう。それで、人の寝込みを襲った言い訳は何か在るのか?」


 残心を忘れずに油断なく構えていた男は倦怠感を溜息として吐き出し、非難の眼差しを女へと向けた。


「幾ら神と言っても、居候してる家主に恩を返さないのはどうかと思ったのよ。だから男のロマンの一つである「妹に朝起こして貰う」と言うイベントを体験させてあげようと思った次第かしら」

「……そんなロマンはゴミ箱に捨てちまえ。それに――」


 男は伸びをして全身の間接を伸ばし、爽やかな朝日が差し込む窓を開ける。


「――今のお前は神ではなく淫魔だろうが」


    §――――――――§


 諸君らは知っているだろうか? この世界が「物理法則」と言う実に薄く脆い膜に保護されている事を。

 共通の認識、普遍的な思考の束、我々が「概念」と呼ぶ形而上学的な存在は、物質世界には実在しない。とある世界でもかつてはそう「だった」。


 概念とは情報の集積によって成される。多数の人間がなぞった情報はその非物質的質量を増し、微力ながらも物質世界へ与える影響を強めるのである。言霊とはその一端であろう。強力な情報媒体である「声」で情報を発信する事は自然とそうなるように概念が補強してしまうのだ。


 物理法則と言う薄い膜に覆われた物質世界、その薄い膜が破られれば途端に概念は物理法則を侵し、実体を持つに到る。実体を持つ概念とは何か。それは「神」である。


 自然現象や自然その物、人間の周りに関わる事物を昇華した存在が原型に近い神であり、それ以外の神を含めて考えたとしても彼らは概念その物と言って差し支えの無い存在だ。

 故に、物理法則の膜が破れれば世界に神が顕出けんしゅつする事となる。しかし神が居る世界であっても、多くの人間はその真実を知らずに歴史を進めて行く。


 これはそんな世界の話である。


    §――――――――§


「……さっきの話だけど」

「むぐぐ。うん?」

「神ではないと言う言葉には少し傷ついたわ」

「そうは言っても事実は変えられんだろ。本来の神格から零落れいらくして妖怪に、それも何故か西洋の夜魔に成ってしまったのだから」

「事実だとしても認めたくない物は在るのよ……。それはそれとして、食べながら話すのはおよしなさい。幾ら零落おちぶれていようと、元神との相席としては無作法ではなくって?」


 爽やかな朝、質素な一軒家の居間に並べられた卓袱台を挟んで二人の男女が居た。


 男の方、筋肉の鎧に覆われた立派な偉丈夫である。幾度も修羅場をくぐり抜けてきたことによる風格――或いは単純にいわおの如き体格がその身を包む学生服とミスマッチさを見る者に感じさせる。

 女の方、此方は夜を感じさせる美女だ、それも人並み外れた。事実として人の身からは外れている為、客観的評価として「人並み外れた」は正しい。

 女が陽光をわずらわしげにしながら男へと注意すると、男はそれに返答した。


「時間は有限だ、だからこそ食事の時間は短く済ませなければならん。……それに正直言って、おれはお前が本当に『月読命つくよみのみこと』だとは信じていないぞ」


 胡乱うろんな目付きで目の前の女を見ながらも、箸を止める事はない。


「それについてははなは遺憾いかんだけれども信じて貰うしかないわ。私を信仰しおそれ敬うべき唯一の信徒に疑われてしまっては戻る霊格も戻らないもの」

「誰が信徒だ、誰が」


 アンニュイに明後日を向いて溜息を吐く月読を男は半眼で睨んだ。


「所で公英きみひで、そろそろ学校に行かなければならない時間ではないかしら?」


 公英と呼ばれた男は食卓に並べられていた最後の沢庵を口に放り込み、ちらりと時計を見る。


「っと、本当だな。ごっそさん。それでは己は学校に行くから大人しくしていろよ」

「言われなくとも好き好んで日中に出歩いたりしないわよ」


 まるで幽鬼のような事を言うが、本来の神格が月を神格化した夜をべる神であり、現在の姿が夜魔だとすれば妥当な答えだろう。


「行って来る」

「ええ、行ってらっしゃい」


 極自然に挨拶を交わす二人、彼らが出会ってからまだ三日目の事だった。


    §――――――――§


 主人公英ぬしひときみひでは退魔師である。

 何らかの事件に巻き込まれたりして成ったのではなく、そう言う家柄なのだ。

 そんな彼が怪異の一つでもある夜族と同居を始める事となったのは二日前からである。


 公英の通う八咫やた市立高校はその特性上、秘匿ひとくされているとは言え学校側が怪異の存在を認めており、怪異対応委員等と言う奇怪な役職が存在する。

 しかもこの役職、学生の身分でありながら奨学金と言う名の給料まで出る上に、出席や成績等が甘くなると言う利点も在る。


 だが実際の所は学生ではなく学校に有利な条件であり、これは学校側からすれば学内の厄介事を解決してくれる人員を格安で雇うのとほぼ同じ事なのだ。

 霊脈の重なる位置に建てられた学校は怪奇現象の類が起こり易く、それに対応する者を用意するのは当然の備えと言える。


 その怪異対応委員である公英は一ヶ月前に遭遇した怪異との戦いで借りていた家が燃えてしまい、学校の伝手つてで古い一軒家に住む事となった。

 そして、引っ越してきた家に在った「月弓尊」と刻まれた石から現れた月読と出会ったのである。


 信仰無くして神は無し、物質世界に神が存在するこの世界であっても、知られていなければ神は現世うつしょあらわれない。

 圧倒的に知名度や信仰心が足りなければ顕現する事も難しく、更に時として零落してしまう事すら在るのだ。


 脅威にはならないと判断したのか、或いは仮にも最高神と共に生まれた筈の神が夜魔になってしまい放心しているのを見て哀れに思ったのかは置いておくとして、公英が月読を滅さずにおいたのは確かである。


    §――――――――§


「はい、そんじゃ今日の授業は終わりー」


 終業の鐘の音と共に、教壇に立つ教師がそう言う。

 ざわざわと生徒達は帰宅や部活の準備をし始め、公英も帰ろうとするがそこで教師に声を掛けられた。


「そうだ主人、『新しい本が入った』から頼むって司書さんが言ってたぞ」

「分かりました、有難う御座います」


 公英は返事をして図書館棟へと歩き出す。新しい本が入った、と言うのは新たな怪異が発生したと言う事を示す符丁であり、詳しい情報を管理しているのは図書館――市立高校では珍しいむねが独立したタイプ――に居る一人の女性司書だ。

 学生達にあの図書館は出るぞと言われていたりもするが、怪異をはらったり使役しえきしたりする力を持つ者が定期的に集まり、更に一般開放されていない区画には魔道書グリモワールやら憑喪神つくもがみやらが在るので冗談にもならない。


 閑話休題。

 今回の怪異ではまだ具体的な被害は出ておらず、発見もされていないようである。発見していないのに存在を察知出来たのは学校に張られた結界に何らかの干渉が在ったからだ。

 つまり、生徒にちょっかいを出して来る危険性が在るから気を付けろ、とのお達しが公英にされた訳だが……、この程度の事ならば態々わざわざ呼び出さずとも次の集会で話せば良い事である。

 胡散臭い司書には「君に話すのが吉だと占いで出た」とタロットを混ぜながら言われ、公英は嫌な予感を禁じ得なかった。


    §――――――――§


「お帰りなさい。あら、妙な縁を結ばれているわね」


 帰宅して直ぐに月読から言われた台詞を聞き、公英はがくりと肩を落とす。


「押し付けられたな……、と言うか分かるのか?」

「ええ、これでも神だったのよ。た所、『成った』ばかりの怪異みたいだわ」


 妙に似合う割烹かっぽうのまま出迎えた月読はそう言うとそのまま掃除へと戻る。公英が家の中を見回してみれば、今朝までと比べて格段に綺麗になっていた。


「……最近の神は家政婦も兼業なのか?」

「ここで感謝の一言が出て来ないようだと女の子に嫌われるわよ。……わたしが住んでいるのだからこの家はやしろも同然、綺麗にするのは当然でしょう?……と言っても貴方に任せていたのでは何時まで掛かるか分からないし、私が自分でやった方が綺麗になるもの」

「そうか、……まぁそれは良い、有難う。しかし電気製品の使い方が良く分かったな。と言うよりそもそも、何故『月読が女』なんだ?」


 手際良く掃除機を掛けていた月読へ公英が疑問を投げ掛ける。

 千年以上前から在る書物に記された神が何の不自由も無く掃除機を使っているのはおかしな事のように感じられたからだ。そして、一般的には月読命は天照大御神の弟神とされている。


「あら、長くこっち側に関わっている割には意外と知らないのね。神と言うのは人の思念が形作る物、現代に於いては現代人の思念を取り入れてるのだから常識もそれに順ずると言う訳」

「ふむ、言われてみれば古代とは価値観等も違うだろうし、そう言う物か」


 言語と言う物は移ろい行く物であり、古語と現代語では同じ言葉でも指す意味も違えば発音も違ったりする。方言のように同じ地域でも微妙に差異が生まれてしまうと言う事も在り、人間の持つ普遍的情報媒体である「言葉」の揺れは神を変化させるのに充分な要因となる。


「それと記紀にも古事記にも月読命わたしは男性神とは書かれていないわ、単に剣をいていたから男神だとされているだけ。おまけに最近は女性体の方が信仰を集め易いからって元が男性神でも可愛い少女として顕現する事も在るって話よ」

「んなアホな」

「これが実は効率的だったりもするのよね。古くは巫女やシャーマンに代表されるしろを通して現世に影響を及ぼし、畏怖や畏敬の念を信仰心として回収する方法が在るけれども、自分が巫女としての役割を果たせばそれで済む話だもの」

「……いやいや、それが出来るならもっと以前からやっている筈だろ」


 公英が言う通り、もしも全ての神が巫女と神の役割を出来たのなら地上にもっと神は多く存在し、今とは違う様相を示していた言だろう。

 しかし力の一端を依り代に降ろすのにも大量の信仰心が必要であり、媒介を通さずに顕現する事は簡単に出来る事ではない。


「そうよ、こんな事が出来るようになったのは極最近の話なの。だって以前はそんな事をしたら評判が下がって存在が劣化してしまったでしょうからね」

「……もしかして」

「そうよ、そう言う事。『可愛い女の子が神様やっててもおかしくない』だなんて下地が出来たから可能となったのよ。そして、強い力で畏怖を集めるよりも弱い力と可愛らしい姿で信仰を集められるのならそっちの方が余程効率が良いでしょう?」

「……頭痛のする話だな」

「当然だけどこれは極一部に限られた話だから余り気にしなくて良いわ。寵愛で信仰を得るなんて、プライドの高い大抵の神は二の足を踏むに決まっているじゃない」


 掃除を終えた月読は台所に立った。はたから見れば新婚夫婦のように見えるかもしれないな、と思いつつ、公英は道着に着替える。

 そこで恥ずかしさ等を感じない辺りが「枯れている」と数少ない友人に言われる所以ゆえんなのかもしれない。


「少し稽古をしてくる」

「そう。食事の用意が出来たら呼ぶわ」


 月読の返事を聞きながら公英が庭へと出ると、パトカーのサイレンが遠くで唸っていた。

 感じていた嫌な予感が公英の中で確信へと変わって行く。


    §――――――――§


 月読が公英にこうも尽くすのには訳が在る。神は信仰無くして存在出来ず、零落した神とてその頸木くびきから逃れる事は出来ない。「存在出来ない」と言っても現世に限った話であり、化生にちた神の場合は最後に残る「元々は神だった」と言う概念が朽ち果てるのみではあるが、それは彼らの尊厳に懸けて決して認められない事だ。


 故に月読は信仰を欲する。大した力を持つ訳でもない夜魔が畏怖や畏敬を手に入れる方法など限られており、そんな方法を取っても通り過がりの悪魔祓いに浄化されるのが落ちである。或いは公英がその拳足を振るう方が早いかもしれない。

 何にせよ、月読に公英から離れると言う選択肢は無い。そして重要な事として、公英が月読より強いと言う事が言える。零落神と言えど所詮は夜魔に過ぎない月読が退魔師に勝てる道理も無く、つまりは公英の御機嫌取りに走るしか月読が信仰を得る方法は存在しないのだ。


 元神としては余りにも涙ぐましい話であり、当人達は薄々理解しつつもお互いにその部分には触れようとしていない。因みにこの奉仕活動は月読の意思でのみ行われており、淫魔として必要な分の精気は月光浴で補える為に夜伽まではその範疇に無い。


    §――――――――§


 ――――次の日の朝、テレビでは公英達の住む八咫市で起きた殺人事件についてのニュースが流れていた。


「矢張り、か」

「あらあら、押し付けられた事関係みたいね」

「だろうな。これは小隊を組んでの要警戒レベルだろうから、恐らく先に任命されていた己が指揮を執る事になる。それを見越して押し付けられたな」


 昨日の夕方頃に起きたその事件は死傷者七名、重傷者一名を出した辻斬り事件として報じられている。死者の内六名は八咫市立高校の生徒で、ゲームセンターから帰る所を襲われたようである。丁度その場に居た警官二名が止めに入るも一名が死亡し、もう一人も一時意識不明の重体となっていた。


 しかし奇妙な事に人通りが極めて少ない道路と言う訳でも無かったのに犯人を見た者は居らず、現在も逃走中なので気を付けるようニュースキャスターは言っている。


「警官含めてこれだけの人数が死んでいて目撃者無し、って事は隠形おんぎょうの使い手かしら?」

「一夜明けて見付かってないと言う事は霊視や奇門遁甲きもんとんこうに引っ掛かってないと言う事だから、多分そうだろう」


 人間の中には霊能力者、または異能者と呼ばれる者が存在し、彼らは人の身で在りながら異能をそなえる。

 生まれ持った血統の業か或いは偶然に目覚めた才能の発露か、時として修行を積む事によって手に入れる事も有るが、兎も角として常人と比べて異能者の数は圧倒的に少ない。

 霊視とはそのまま霊的な視覚によって怪異やその痕跡を捉える事であり、奇門遁甲とは中国の占術の一つだ。

 魔を調伏ちょうぶくするのでなくとも戦いに於いて相手の情報を知る事は重要であり、それを専門とする者も居る。


「厄介ね」

「ああ、だが目撃者は一人居るぞ」

「……生き残った警官?」

「そうだ。口が利けないにしても目覚めていないにしても心を読む等でなんとかなる」


 読心は他と比べても特殊な異能であり、その能力には制限が掛けられている事が多い。

 本人に同意無く心を読むのは倫理的にどうなのかと言う問題が在るが、下手に時間を食えば更なる殺人に繋がるのでこのような場合は特例として扱われる。


「目撃者、ねえ……」


 公英の言葉を聞いて月読は少し考える様子を見せた。


「何か気になる事でも在るのか?」

「ええ、その警官は何故生き残れたのかが少し。一瞬で事が為されたと言う事は、犯人は最初から警官含めて狙っていたかしくは余程の手練てだれって事だと思うのだけど」


「辻斬りって事は刃物を使っての犯行だろうからな。素人が出刃包丁をいきなり振り回しても往来で全く気付かれずに狙った数人を殺せる筈も無い」

「でもだとすると異能者が跡を辿れない位の隠行の使い手で、更に一瞬の内に数人を斬り殺せる腕前を持っている事になるわ。『成った』ばかりの怪異に出来る事とは到底思えないわね」


 月読の出した結論に公英も眉をひそめる。現在の情報から類推すると矛盾が生じ、それを無視したとしても難敵であるのは間違いないからである。


「己の因縁を見ての判断だったよな? もう一度視てくれるか」

「分かったわ。……あら? これは……」


 眼を凝らして公英を見詰める月読が不思議そうな声を上げた。


「どうした、『成り立て』と言うのは間違いだったか?」

「いえ、縁が重なっているのが見えるわ。一本が『成り立て』だとすると、もう一本は数百年はているって所かしら。成り立てとの縁に絡み付くように古い方の縁が交わっているみたい」

「二重に? ひょっとして……」

「敵は二種類居る、と言う事ね」


 月読が断言し、公英は空を仰ぐ。基本的に個で完結している怪異は、群れる事は在っても手を組む事は無い。しかし例外は存在し、そのような場合はほぼ間違いなく単体よりも厄介だと言う事が知られていた。


    §――――――――§


なばり巳鈴みすず、ね……」


 警戒ではなく捜索隊に回された公英は病院からの帰り道でひとちる。隠巳鈴とは今回の犯人の名前だ。


 八咫高校一年生、公英の一つ下の学年の女生徒であり、この一週間は登校していなかった。

 その理由は虐めを受けていたからであり、彼女を虐めていたグループは殺された六名の女子高生達と一致する。

 入学して間も無いのに虐めが行われていたのは主犯格と中学校が同じだった為であり、以前から続く物だった。


「凶器は日本刀、どうも此方が『古い方』臭いな。……だとすれば憑喪神、いや妖刀か? それなら成り立ての割りに卓越した剣技なのにも説明が付く」


 憑喪神とは日本の民間信仰に於ける観念であり、要するに妖怪の一つだ。

 憑喪とは本来「九十九つくも」、長い時間や多様な万物を指し、つまり長く年月を経た器物に魂が宿ると言うアニミズム的な存在である。

 刀も霊格が高まれば憑喪神となり、斬る事に特化したり、以前の使い手の動きを持ち主に再現させたりと言った能力を発揮するようになる。

 妖刀はその中でも特殊な物の事を言い、強い力を持つが代わりに持ち主に災いを招く事が多い。


「だが警官が生き残れた理由は分からないな……、隠が何に『成った』かを知る糸口が其処に在る筈なんだが」


 公英が独り言を呟くのは考えを纏める為でもあるが、制服の襟に付けた録音機に考察を残して置く為の行動だ。

 これは怪異対応委員の義務で、交戦した怪異の情報を残す事により次の機会や同系の怪異への対策を取り易くすると言う事を目的としていた。


 身の丈百八十センチメートルを超える筋肉質な男がブツブツと呟きながら歩く様は控えめに言って不気味であり、唯でさえ学生服を着ていても堅気ではなさそうな雰囲気をかもし出している為に周囲からは人の姿が消えて行く。

 人気が無くなった事に公英が気付いたのは日が沈み掛け、西日が周囲を紅く染めてからだった。


黄昏たそがれどきか……、綺麗だが、嫌な時間だ。まるで全てが血に濡れたようで、こんな時は――」


 公英が向けられた殺気の方向をにらむと、建物の陰から一つ現れる物が在る。

 返り血で赤茶けた制服、ぬらりと夕陽を刀身に映した日本刀。

ざんばらな髪の間から狂気に浸かった瞳が公英を見詰めた。


「――化物が良く出る」


    §――――――――§


 黄昏を古い言い方に変えると「たそかれ」、これは「誰そ彼」と書く。昼と夜の狭間に在り、顔の区別も付かないこの時間帯は、人とあやかしの交差する「逢魔おうまとき」である。


「あのぉ、そこの人。今、わたしの名前を呼びました……よね?」


 少女の姿をした化物――隠巳鈴――は遠慮がちに、しかし狂気を隠さずそう言った。


「お前が」


 隠巳鈴だな、公英がそう言い終える前に隠が嬉しそうに声を上げる。


「やっぱり呼びましたよねぇ! わたしを探してる人が沢山居て怖いんですけど、ゾロゾロ集まってる人に聞くのはもっと怖いから一人で居る人に聞きたかったんですよぉ……」

「……読心か」


 先祖に妖怪が混じっている事は稀に有る話であり、其処から先祖返りしてしまう事も異能者や怪異の発生原因としては珍しい物では無い。

 心を読むと言う事から、隠には先祖にさとりが居たのだろうと公英は見当を付けた。


「はぁい、以前は空気が読めないってイジメられてましたけどぉ、心が読めるようになったので大丈夫ですぅ……。あ、もう殺しちゃったから関係無いんでしたっけぇ?」


 隠は間延びした口調でそう言うとゲタゲタと笑い出した。


「発狂済みだな」


 確認するように公英は言う。事実として隠は気が狂っていた。

 それが化物になったからか、心が読めるようになったからか、それとも人を殺してしまったからかは判断が付かないが、人間の隠巳鈴は既に死んだのだと公英は理解する。

 人に危害を加える怪異が目の前に居る、だとすれば為すべき行動は決まっていた。


「怖い怖い、どぉしてわたしを殺そうとしてるんですかぁ……。――――あの、そんな事より飲み物持ってませんか? 喉が渇いて、渇いて、仕方ないんです。ねぇ、あなたの」


 隠は突如として正気に戻ったかの如く明瞭めいりょうに喋り出したが、その眼は中空を見詰めており焦点は定まっていない。


「『血を吸わせろ』て下さい」


 隠の声にしゃがれ声が重なり、ゆらりと刀を上段に構えた。


「妖刀か……!」


 刀身の中央に普通の刀には無い特殊な刃紋、蛇の眼にも見えるそれが西日に照らされ不気味に輝く。


    §――――――――§


「シャアアッ!」

「ハッ!」


 ばね仕掛けのような大跳躍をして斬り掛かろうとする隠に向けて公英は通学鞄を投げ付けた。

 空中にて一閃、鞄は真っ二つとなり周囲に教科書やノートがばら撒かれる。


りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!」


 公英が九字を切ると、風に舞う紙片の中から呪符が飛び出し、四方へと飛んで地面に張り付き結界を成した。


『陰陽術か! ぬぅ、小癪な真似を。しかし貴様を殺してしまえばこの程度の結界……』


 罅割ひびわれた声が隠ののどから発せられる。


「ならさっさとやるんだな、急がないと他の退魔師が集まるぞ」


 公英が挑発すると隠は刀を構え直し、身体を前へ浅く倒した。


『ほざいていろ。貴様の動きなど手に取るように分かる、じっくりと血を啜ってからでも充分よ』


 そう言うと同時に隠は走り出し、公英に刀を振るう。

 袈裟けさけから入り横一文字、平突き、払い、縦一文字。

 人外の体力によって斬撃は嵐のように連続し、並の人間で在ればその場には物言わぬ肉片が転がるのみだっただろう。

 しかし、公英には当たらない。


「……体軸の揺れ、フェイントの甘さ、斬り返しの不慣れ具合。剣の達人の動きではないな」

『馬鹿な、何故当たらぬ!』

真逆まさか、読心と隠形で隙を突いただけと言う落ちか? にしても余りに雑過ぎる、正面からの戦いには向かないだろうに」

『無視を、するなぁぁあ!』


 上段からの大振りな一撃。そのふところへ公英はするりと入り込み、掌底を打ち込んだ。


やかましい」

『げはぁあッ!』


 鉄球が地面に落ちたような重い音と共に隠の身体はくの字に折れ曲がり、あか吐瀉物としゃぶつを撒き散らしながら十メートル以上も吹き飛ばされる。

 ただの一撃で五十キログラム近い物体を弾き飛ばしてみせながら、公英は油断無く構えて残心ざんしんを解いてはいなかった。


    §――――――――§


 公英の学んだ武術は土師臣はじのおみ流と言う名の古武術であり、これは相撲の原型である「角力すまい」に由来する。

 相撲取りの肉体は分厚い筋肉の上に脂肪を重ねており、それ故に重い。

 自明の理として筋肉量は突きの威力に直結するが、体重も深く関係する。


 作用反作用の法則を思い浮かべれば分かり易いが、殴る時にはしっかりと地面を踏み締めていなければ衝撃が相手に伝わり難くなってしまう。

 軽い物と重い物に同じ力を加えれば重い方が動き辛いのが当然であり、反作用として出る衝撃を抑え込むのには自重が重い方が有利なのである。


 そして又、地面を踏み締める脚力は体重が重い程鍛えられる。

 瞬発力を鍛える為に人を背負ったままスクワットをする事が有るが、百キログラムの人間は五十キログラムの人間と比べて二倍の負荷を日常的に掛けている事になる。

 故に腰の入った力士の突っ張りは極めて強力であり、身長百八十三センチメートル、体重百十二キログラムの公英の掌底は隠の身体を吹き飛ばしたのだ。


「立て。物質世界寄りの肉体とは言っても、けいを篭めていない一撃を腹に入れただけで死ぬ筈も無い。吐いた血も自分の物ではないだろう?」


 公英はそう言って倒れたままの隠の元へ歩いて行く。

 陸に打ち上げられた魚のように隠は震えていたが、近付く足音に反応しておもむろに立ち上がった。


『血……、血が足りぬ。これでは……』

「身体を操れない、か? 剣士の動きを再現する事も出来ない妖刀でも血を欲しがるのだな」


 揶揄からかうように公英が言うと、妖刀に操られた隠はやや焦った様子を見せながら憎々しげに公英を睨む。


『馬鹿め……、お前はこの娘が覚だと思い込んでいるようだが、精々自分の間違いを後悔して死ぬのだな』

「何?」


 妖刀の語る言葉に公英が眉をひそめると同時に、黄昏時は終わりを告げて辺りは暗くなった。

 夜が、来る。


    §――――――――§


 ざわりと隠の影がうごめいた。


「ッ!」


 公英の足下から隠の吐いた血が刃となって襲い掛かり、咄嗟とっさに後方に避けるものの制服の一部が斬り取られる。


「ふ、ふふ、ふふふ」


 夕日に赤く染められていた隠の顔は、日が沈み切る事で本来の色へと戻った。即ち、死人と同じ蒼白い顔へと。


「お前……」


 公英が相手を見極めんと目を細める。身体の主導権を握っているのは妖刀ではなく、隠本人。薄っすらと笑うその口元に、白い牙が覗いていた。


「寒いなぁ、とっても寒いんですよ。秋だからかな、きっと山奥では熊が冬眠の準備の為に魚が滝を登って龍になるって言いますけどあれは鯉でしたっけ? そうですとても欲しい物が在るのできっとこれは恋に違いありません、血が身体が寒いので暖まる飲み物が飲みたい喉が渇いた血が、血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい」


 隠はブツブツと呟きながら手に持った刀で左手首を何度も斬り付ける。


「チッ……」


 厄介な事になるのを感じた公英が走り寄ろうとするも一瞬遅く、隠の腕の傷口から闇が噴き出た。


「あああ!! ィィイイイ!!」

「ッ!」


 両の掌それぞれで弧を描き、黒色の血煙を掻き分ける。

 血の煙幕を退けると、一直線に公英の胸元へと切っ先が迫っていた。

 半身になりながら刀の横腹であるしのぎを叩いてらす事で避けるが、その動きを読んでいた隠は即座に引き戻して次の動作へと入る。


「シィィヤァァァアッッ!!」

「なっ……!?」


 妖刀に操られていた先程までより速く鋭い剣嵐けんらんが公英を襲い、瞬く間に制服が傷だらけになっていった。

 一般的な人間の反応速度は約0.2秒と言われており、異能者が読心で動きを読んだとしても反応がそれに付いて行く事は出来ない。


 妖刀に操られた隠は人ではない。それ故に心を読みながらも戦う事が出来たが、しかし完全に化物になった訳でもなかった。

 誰そ彼時は人と妖の交差する時であり、曖昧な存在が許容されるあやふやな時間でもある。だからこそ隠は壊れ掛けていたとしてしても人の姿を保てていた訳だが、夜になり、化物としての欲求である血の渇望が強まった。

 最早、完全に怪異の一つと成り果てたのである。


蛇蛇蛇蛇蛇蛇ジャジャジャジャジャジャッ!」


 重なる連撃は血の華を咲かせるも、それでも公英は致命の一撃を避け続ける。幾ら速くとも、幾ら心が読めようとも、剣技がつたなくては何処かで必ず失敗が生じる。

 人外の体力によって振るわれた剣閃が百を超えた頃、隠は力のコントロールをし損ない小さな隙を作ってしまった。


其処そこッッ!」


 鉄柱を思わせる太い脚から放たれる足払いから入り、顎を吹き飛ばすような右の裏拳、中指の第二関節を用いた中高一本拳による小手打ちが決まり、双掌による諸手突きが隠の胸骨を叩いた。


「カハッ」


 再び、隠は車と衝突でもしたかのように吹き飛ぶ。

 しかし隠は空中で姿勢を整え二本の足で地面に着地、追撃へと移ろうとしていた公英はピタリとその動きを止めた。


「血……筋力……そしてその再生能力」


 目の前でべきりべきりと音を立てながら砕けた骨や裂けた肉が治る様を見て、公英は敵が何かを理解する。


「鬼、いや吸血鬼か」

「……じゅるる」


 隠は刀に付着した血を舐め取り、蒼白い肌とは対照的に紅い口内を見せてにたりと笑った。


    §――――――――§


 吸血鬼ヴァンパイア、説明の必要も無い位に有名な化物であり、人間を食らう怪物である。

 日光に焼かれ、銀に弱く、流水を渡れない、それでも吸血鬼は強力な化物だとされる。


 その理由は変身を代表とする特殊能力や、血を吸った相手を支配下に置く力、強い不死性に加え急速な治癒力を持つ事、……そして怪力だ。

 真剣を握った事が無くとも、刃の付いた鉄の棒として振り回せばその暴力はいとも容易く人体を細断する。


「そうか……、『成り立て』が覚並の読心を持つ理由はその妖刀だな」


 血が拭われた事で再び蛇の眼のような刃紋を見せる刀を睨んで公英が言った。

 怪異が持つ特別な能力の強さは霊格の高さによりおよそ見当が付ける事ができ、「成った」ばかりの吸血鬼では精々「霊視から隠れる」位の隠形が関の山である。


「この子は『ひと蛇目かがめ』って言うんですって、素敵な名前ですよね、私の名前にもへびが入ってますけどこんなに可愛くありませんし、私も血が欲しいのは同じですけど、そう血が飲みたい、私を虐めてた人の血も美味しかったけどあなたの血も美味しいしああそうそう先程あなたにも虐められましたね血が飲みたいから美味しいんでしょうかだったら私が血を飲まないといけませんよね」

「……」


 公英は隠を無視し、目をつむった。

 先程から隠は公英と会話をしていない、思考を読んで整合性の無い考えを延々と口に出しているだけだ。


 人は理解の出来ない物を恐れ、それらに名前を付ける事で一応の理解としようとして来た。

 その為に超常的な存在が生まれたが……、公英は言葉の通じない化物相手に怯えを一切見せていない。

 恐怖は良く飼い慣らせば危険を察知するレーダーとなるが、怯んでしまえばそれは隙となる。

 公英は退魔士としては十七歳の若輩者でこそ在るものの、実体験としてその事を知っていた。


「あれあれあれ、何だかあなたの考えてる事が良く分からないです、怖い、怖いよ……。心が読めなくちゃ虐められちゃう……」


 相対しながら瞑想状態へと入った公英に隠が動揺する。


「……」


 明鏡止水、若くしてこの領域に達する者は稀である。


「あなたにも虐められる……血が美味しい、飲みたい、喉が渇いた。……あ、ああああああ!!」

「……ッ!」


 錯乱した隠が斬り掛かるも、吸血鬼の身体能力だけでは公英の技量には届かなかった。


 武術と言うのは効率的な攻撃や防御の方法だけではなく、予備動作の短縮と隠匿と言う技術の集合でもある。

 振り回すだけの剣であれば公英に取っては見切る事も容易く、心が読まれなければ剣撃と剣撃の間に有る隙を突く事も大して難しい事では無い。


「ガフッ!」


 三度目の掌打。

 吹き飛ぶ隠に対して公英は――追撃をしなかった。


「む……」


 自らの打ち込んだ両腕、その手首を見ると動脈が斬られている。

先程の一撃で肺に溜まった血、隠はそれを公英の攻撃に合わせて操り、カウンターとして血の刃で斬り付けたのだ。


    §――――――――§


「ごほっ、ごほ。今あなた焦りましたね? そんなに血が溢れてちゃもう沢山は動けないですよね、美味しそう、良いですよ、あんまりこぼしちゃ勿体無いからすぐに終わらせてあげます食べたい来て下さい下さい下さい下さい」


 隠はそう言って、鞘へと静かに刀を収めた。しかし右手は柄から離さず、抜刀を準備した姿勢のままぴたりと止まる。


 居合いあい、鞘から刀を抜き放つと同時に相手を斬る技術であり、座った状態や短刀等の近い間合いへの対処法として用いられる特殊な剣術である。

 抜刀時の剣速からさも強力な剣技であると喧伝けんでんされる事が多いが、実際は片手で抜く為に両手打ちに威力で勝る事はない。


 では居合が強いと言うのは間違いかと言えば、必ずしもそうはならない。

 納刀状態が構えで在るが故に「待つ」側として有利であり、剣筋が想定し易いと言う欠点も剣速の速さに補われる為に攻め辛い。

 これに対して刀よりもリーチの短い短刀や拳で攻めようとするのが如何いかに困難なのか、更に相手が心を読む事が出来ればどれだけ厄介なのかは想像にかたくない。

 そして出血が長く続けば戦闘内で発揮出来る力は段々と減る為に公英は決着を急ぐ事を強いられている、その事を気の狂った吸血鬼は本能的に理解していた。


「ふぅー……」


 公英は静かに息を吐き出し、戦いを終わらせる為に気を練り上げる。

 武息ぶそく調息ちょうそくと呼ばれる呼吸法は練功の基本であり、丹田たんでんと言う仮想臓器を通して外界から自身の中へと気を溜め、そして練る事でその密度を増す。

 公英はゆったりとした動作で脚を大きく開き、腰を落としながら両拳を地面へと垂らした。


発勁はっけ用意よい……」


 その構えは力士が力を溜める姿勢だ。


「残ったッッ!!」


 爆発音にも似た音を立て踏み締めたアスファルトにクレーターを作り出し、公英は隠へと突進した。

 震脚しんきゃくによる急加速で砲弾のように迫り、右腕を突き出す。動きを予測していた筈の居合は間に合わず、白刃が鞘から抜け切る前に公英の掌底が隠に届いた。


 四度目の衝突――は起こらない。

 触れた瞬間に隠の身体は影へ、血へと変わり、本物は握っていた一ツ蛇目のみ。渾身の一撃は変り身を打ち砕くのみであり、大きな隙を生んだ。


「――――ったぁぁああああッ!!」


 影の中から隠がおどり出て、公英の背中へと素手で貫手ぬきてを放つ。

 吸血鬼の膂力りょりょくは人のそれを大きく超え、対象が人間なら拳を放てば内蔵が破裂し、手刀で首を切り落とす事を可能とする威力である。

 人体を容易く貫通する槍に対して、公英は。


フンッ!」


 まるでそうなる事を予測していたかのように、よどみなく踏み込みの衝撃を殺し、回し蹴りで迎え撃った。

 硬い生木が圧し折れるのにも似た音が暗闇に響く。


「え」


 果たして負けたのは吸血鬼の抜き手であった。


 気功の技術の中には硬気功と呼ばれる物が在り、これは肉体の頑強性や強靭性を高める。

 化物の怪力や不死性が神秘によって保証されるとすれば、人間も又、神秘によってそれを超える事が可能となるのである。

 そして、此処には神秘を武技に束ねた超人が居る。


「……土師臣はじのおみ組討くみうちかた


 公英が跳んだ。

 土師臣流は「野見宿禰のみのすくね」と言う日本書紀に記されている最古の相撲を取り行った人物を祖とする武の一門であり、彼と戦った当麻蹴速たいまのけはやの勝負は蹴り技の応酬であったとされる。

 故に、その流れを汲む土師臣流は現在の相撲のルールとは異なり、蹴りを主体とする武術なのである。


「あ、あああ……」


 隠が砕けた右手を抱えながら空を見上げると同時に、 夜になった事で電灯が一斉に点く。逆光を背にした公英の影が隠の目に飛び込んだ。


 人体の中で最も体重が掛かっているのは足の裏、そして骨で言えば踵骨しょうこつだ。其処へ鍛え上げた筋肉の瞬発力と体重百十二キログラム、発勁と震脚を用いた跳躍により生まれる位置エネルギー、前方宙返りの遠心力、そして練り上げられた気をとお浸透勁しんとうけいを組み合わせれば――――化物すらも一撃でたおす「踵落とし」となるのである。


いかッッ!!」


 隕石が落ちて来たかのような壊滅的な音が周囲を震わし、人の形をした雷が吸血鬼を蹴り潰した。

 脚撃の衝撃波はそのまま地面へと伝わり、衝突地点から数メートルに渡って陥没させる。


 直撃を受けた隠の身体は弾け飛び、完全に滅びた事を確認して公英は残心を解いた。

 人払いの結界が在っても今の音では無駄だろうな、と思いながら傷だらけの制服を引き裂いて手首の止血をし、登録してある連絡先へと電話を掛ける。


「……己だ。結界を張ったのはそっちでも確認してるだろうが、隠を仕留めた。処理班を寄越してくれ」


    §――――――――§


「お疲れ様、お風呂が湧いているから血とか汗を落として来たらどう?」


 公英が帰宅すると、家事を終えた月読が割烹着を脱ぎながらそう言った。


「……只今。何かお前が居るのに既に慣れ始めている自分が居る」

「人間は適応する生物だからでしょうね」

「そう言う事じゃ無いんだがな……まぁ良いか」


 公英が風呂から上がり、夕食を終えると、月読は食器を片付けながら今回の敵について聞き始める。


「ふうん、覚を妖刀が操っているんじゃなくて吸血鬼が読心能力の在る妖刀を支配していた訳ね」

「ああ、往来で辻斬りをしても目撃者が居なかったのは読心で周囲の人間の注意が逸れる一瞬を狙ったんだろうが、「成り立て」が妖刀を支配するなんて余程相性が良かったに違いない」

「そう言えば、その隠って子が吸血鬼に目覚めてしまった理由は分かっているの?」

「いや、未だだ。血筋に混じっていたと言う事は無いようだが、吸血鬼の場合はそれ以外の増え方がメインだしな。……と言っても首筋に血を吸われた痕は無かった気がするが」


 吸血鬼の恐ろしい点は、血を吸って殺した相手を同族にしてしまう所にも在る。

 条件が限定されているとは言え、他の怪異と比べれば容易く増える化物は驚異だ。


「何にせよ、自然発生した物じゃないって事よね」

「そう、何かしらの原因が在って然るべきだ。放って置けば同じ事が起き兼ねない……、まぁそれを探るのは己じゃないがな」


 公英はそのように語り、お茶の入った湯呑を傾けた。


「あら、果たして本当にそうかしら? 今回の吸血鬼を倒したのは貴方、だとすればその『原因』と一番因縁を結んでいるのは貴方かもしれないわよ」

「……成程な。と言う事は己がその原因とやらと将来的に接触するのか?」

「私は未来を司る神じゃないから分からないわ、単に信徒の縁を読んだだけよ」

「誰が信徒だ、誰が」

「掃除洗濯食事に風呂、これだけ付いてて対価は一人分の信仰心と食費だけ。良い選択だとは思わない?」


 公英の言葉に対して、月読は涼しい顔で矢鱈やたらと所帯染みたセールスポイントを挙げる。

 神としてのご利益りやくを挙げられない所が実に哀れみを誘う。


「ふ~む……、シルキーか何かか?」

「うぐっ」


 シルキーとはイングランドの伝承に在る妖精であり、絹のドレスを纏った女性の姿で家事をしてくれる存在だ。因みにシルキーは対価を要求しないので、月読は妖精以下の可能性も在る。


「哀れな……」


 公英の生温い視線が元女神で現住み込み家政婦に刺さった。


「ちょっと、そんな眼で私を見るのは止めて頂戴」

「まぁその、アレだ。感謝はしているぞ?」

「情けを掛けられた……!?」


 フォローと見せ掛けた追い打ちによって月読はショックを受ける。


「さて、明日も学校行かなくてはならんしそろそろ寝るか。月読、ひしがれてないで其処を退け。布団が出せん」

「冷たい……、と言うか貴方、学校行けるの? さっき見た時は全身傷だらけだったじゃない」


 隠から受けた刀傷は手首の傷を除いても両手の指では数え切れない程在ったが、しかし月読の目の前に居る公英の身体は別に包帯で覆われてはいなかった。


「あれか? どれも皮膚までしか届いていなかったから内功練って塞いだ」

「平然と言うわね……」


 呆れたと言う表情で月読は言う。戦乱の時代ならば兎も角、現代に於いてその域まで達している人間の数は少ない。


「これ位は出来なければな。それでは寝る、お休み」


 自室へ布団一式を運びながら公英は就寝の挨拶をした。


「……お休みなさい、良い夢を」


 元月の神だと言う夢魔は色気も素っ気もない家主に多少呆れつつ、その夢見を祈る。

 夜空を見上げれば、そこには弓の如き三日月がぷかりと浮かんでいた。

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零落女神と同居する学生退魔師の話 @sakamune

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