第1章 第9話

   1


 サキが働かせてもらっている呉服屋柿崎。


 サキがいつものように木の引き戸を開けると、畳の香りとともに柔らかな光が差し込んだ。店内には色とりどりの反物が整然と並び、奥の棚には見事な帯が飾られている。


 サキはカウンターの向こうで帳簿をつけていた志乃に声をかけた。


「志乃さん、ちょっと相談があるんですけど」


「ん?」志乃は顔を上げ、細いフレームの眼鏡を軽く押し上げる。


「何かあったのかい?」


「今度、お店のことをSNSで発信しませんか?」


「……SNS? なんだいそりゃ」


 志乃の眉がピクリと動いた。サキは軽く頷いて続ける。


「実はこの前、市役所の人と話したんです。商店街を活性化させるには、まずお店を知ってもらうことが大事だって。そのために、SNSを活用するのがいいってアドバイスをもらいました」


 志乃は腕を組み、静かに溜息をついた。


「若い子が写真を撮ってるやつだろ……私はね、一時の流行に乗るのは好きじゃないんだよ」


 はっきりした口調だった。


「そもそも、昔からのお客さんはSNSなんて見ないだろうし、若い子が来たってすぐ飽きてしまうよ。一時的に話題になったところで、結局続かなければ意味がないんだ」


 サキは食い下がった。


「でも、今のままだと新しいお客さんに、店のことを知ってもらう機会すらないですよね?」


「本当に着物が好きな人は、流行なんて関係なく来てくれるものさ」


 志乃の言葉には揺るぎがなかった。確かに、長年通ってくれる常連はいる。着物の価値を理解し、丁寧に選んでいくお客も少なくない。それはサキも知っている。でも――。


「……今の若い人たちは、着物のことを知る機会すらないんです」


 サキの手が、無意識にカウンターの上に置かれていた帯に触れる。柔らかな絹の感触が、彼女の言葉を後押しするようだった。


   2


 翌日の午後、サキは店の帳簿整理を終えると、スマホを手に取った。


 昨日の志乃とのやりとりが、ずっと頭に残っている。


(少しでも店の魅力を知ってもらうには、やっぱりSNSで発信するのがいい)


 そう思いながら、サキはカウンターの向こうで伝票の整理をしている志乃に声をかけた。


「志乃さん、昨日の話なんですけど……やっぱり、店内の写真を撮らせてもらえませんか?」


 志乃は縫いかけの反物を横に置き、細いフレームの眼鏡を押し上げる。


「まだ言うかい」


「はい」サキは真剣な顔で頷いた。


「一度で諦めるくらいなら、最初から言いません」


 志乃はしばらくサキを見つめ、それから小さく溜息をついた。


「……あんた、本当に頑固だね」


「よく言われます」


「好きにおやり。でも、仕事を疎かにするんじゃないよ」


「ありがとうございます!」


 サキは軽く頭を下げると、さっそくスマホを取り出した。


 まずは店内の全体を撮ろうと、入口近くからカメラを向ける。しかし、どこを切り取れば一番魅力的に見えるのか、すぐにはわからなかった。


「んー……」


 カメラ越しに見ると、思った以上に店内が暗い。外からの光が優しく差し込んではいるものの、奥に置かれた反物は影になってしまっている。


 近づいてみようと歩を進め、帯の並ぶ棚の前でスマホを構える。しかし、どうしても写真がのっぺりとしてしまう。せっかくの繊細な模様や色合いが、上手く映えない。


(少しでも雰囲気を伝えられれば、興味を持ってくれる人がいるかもしれない…)


 サキは角度を変えたり、ライトの位置を調整しようとしたりするが、なかなか思うようにいかない。


 着物の艶や、帯の繊細な刺繍をどうすれば綺麗に見せられるのか。


 志乃がどれほどの時間をかけ、どんな思いでこれらの品を扱っているのかを思うと、適当に撮るわけにはいかなかった。


「……難しいな」


 サキはスマホの画面を見つめ、小さく呟いた。


   3


 閉店後の店内に、スマホのカメラ音が静かに響く。


 サキは今日の仕事を終えると、すぐに撮影の準備を始めた。もう何日も試行錯誤を繰り返しているが、思うような写真は撮れていない。


(少しでも、魅力が伝わる写真を……)


 そう思いながら、今日も帯の並ぶ棚の前でスマホを構える。


「んー……」


 どうしても光の加減が上手くいかない。店内は柔らかな明かりに包まれているが、写真にするとどこかぼんやりしてしまう。


 すると、後ろから小さな溜息が聞こえた。


「……しょうがないねえ」


 振り向くと、志乃が腕を組んで立っていた。


「そんなんじゃ、せっかくの着物の艶が伝わらないよ」


 そう言うと、志乃はスッと手を伸ばし、畳まれていた着物の端をふわりと広げた。


「ほら、この角度から光を当てると、もっと綺麗に見える」


 言われた通りの位置から撮ってみると、確かに着物の艶や繊細な刺繍が際立って見える。


「……すごい」


「こんなのは当たり前さ」


志乃は少し得意げに言うと、さらに続けた。


「若い子向けに写真を撮るなら、着物だけじゃなくて、かんざしや和風の小物も撮ったらどうだい」


「え?」


「着物を着る習慣がない子たちが見るんだろ? だったら、いきなり着物だけ見せたって、ピンとこないんじゃないかい?」


 そう言うと、志乃は棚からいくつかの小物を取り出し、並べ始めた。赤い絹の巾着袋、細工の美しいかんざし、繊細な刺繍が施された半襟――どれも、着物と合わせると映えそうなものばかりだった。


 サキは驚きつつも、思わず笑みをこぼした。


「志乃さん、手伝ってくれるんですね」


「別に、手伝うとは言ってないよ」


 志乃はそっぽを向きながら言った。


「ただ、適当な写真を撮られて店の印象が悪くなるのは嫌なだけさ」


 そう言いながらも、志乃の手は自然と着物の襟を整え、陽の当たる角度や位置を微調整していた。気づけば、より美しく見えるように工夫を始めている。


 サキはその様子を見ながら、心の中で小さくガッツポーズをした。


(志乃さんも、きっとわかってくれるはず。この店のことを、もっとたくさんの人に知ってもらいたいって気持ちを)


 少しずつ、けれど確かに、サキは志乃の気持ちが動き始めているのを感じた。


   4


 撮影がひと段落し、サキはスマホの画面を見つめながら微笑んだ。


「……やっぱり、志乃さんの目にはちゃんといいものが見えてるんですね」


 志乃は着物の襟を整えながら、ちらりとサキを見た。


「なんだい、いきなり」


「だって、最初は流行なんてすぐに去るって言ってたのに、今はこうして、どうやったら着物が綺麗に見えるか、一緒に考えてくれてる」


 サキはスマホを置き、改めて志乃の方を向いた。


「私は知識がないから、どうすれば着物がよく見えるのか分からない。でも、志乃さんは分かってる。だったら、それをもっと多くの人に伝えられたら素敵じゃないですか?」


 志乃は一瞬言葉に詰まり、黙ったまま考え込む。


 店を長く続けてきた分、流行の移り変わりも見てきた。人が一時的に興味を持っても、すぐに忘れてしまうことも知っている。


 だが、目の前のサキは、ただ流行に乗せたいのではなく、この店の魅力をしっかり伝えようとしている。


 サキはそんな志乃の様子を見ながら、少しだけ身を乗り出した。


「実は、アンナが商店街でイベントをやろうとしてるんです」


「……イベント?」


「はい。お祭りみたいなものですね。でも、ただの賑やかしじゃなくて、ちゃんと商店街を盛り上げたいって考えてるんです」


 サキは少し間をおいて、ゆっくりと続けた。


「それで思ったんです。この町の古い町並みって、着物がすごく映えると思いませんか?」


 志乃はサキの言葉に少し目を細めた。確かに、この町には昔ながらの建物が残っている。けれど、そこを歩くのは普段着の人ばかりで、着物姿の人はほとんど見かけない。


「だから、イベントで着物体験ができるようにしたらどうかなって。着物を着たことがない人にも、気軽に試してもらえる機会になればって」


 サキは真剣な眼差しで志乃を見つめた。


「それで、着物を着た人が古い町並みで写真を撮れるようにしたら、すごく素敵な思い出になると思うんです」


 志乃は腕を組み、考え込むように視線を落とした。


「……考えさせておくれ」


 そうぽつりと呟いた声は、いつものぶっきらぼうな調子だったが、どこか先ほどまでとは違っていた。


 サキは、その言葉にそっと笑みを浮かべた。


   5


 翌朝、サキが店に入ると、いつもは棚にしまわれている着物が数枚、畳の上に丁寧に広げられていた。


「……志乃さん、これ……?」


 サキが驚いた声をあげると、奥から志乃が顔を出した。


「昨日言ってたイベントに使う着物さ」


 志乃は当たり前のように言いながら、着物の裾を軽く整える。


「どんな柄が今の若い子に受けがいいのか、あんたにも一緒に考えてほしいんだよ」


 サキは思わず目を見開いた。昨日の時点では、まだ悩んでいたはずの志乃が、もう行動を起こしている。その意志の強さに驚くと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……ありがとうございます、志乃さん!」


 思わず嬉しそうに言うと、志乃は「べつに礼を言われるようなことじゃないよ」とぶっきらぼうに答えたが、その口元はどこか穏やかだった。


 サキはさっそく広げられた着物を見て回った。淡い桜模様のもの、モダンな市松模様、少し洋風な花柄のもの……どれも素敵だ。でも、若い子に響く柄となると、どうだろう?


「うーん……これなんか、写真映えしそうですよね」


 サキは青と白の市松模様の着物を指差す。志乃は「なるほどね」と頷きながら、サキの視線の先をじっと見つめた。


「まあ、他にもいくつか用意しておこうかね」


 そう言いながら、志乃は腕を組んだ。そして、ふとサキの方をじっと見て、少しだけ口元を持ち上げる。


「当日はどれくらい人が来るかわからない。私一人じゃ手が回らなくなるかもしれないからね」


「えっ?」


「だから、あんたも一人で着付け体験ができるように、しっかり練習しなさい」


 サキは一瞬、言葉を失った。


 でも、それはつまり――志乃が本気でやるつもりだということだ。


 サキは緊張しつつも、力強く頷いた。


「はい!頑張ります!」


 着物を手に取りながら、サキの胸は期待と少しの不安で高鳴っていた。

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