第1章 第8話

   1


 夕焼けに染まった帰り道、アンナは自転車を押しながら歩いていた。考え事をしている足取りは重かった。


――市役所に行っても、結局、何も変わらなかった。


 地域振興課の課長は、ほとんど取り合ってくれなかった。たった一人、若い職員が話を聞いてくれたけれど、それでどうなるわけでもない。期待していたわけじゃない。でも、何もできなかった事実が、思った以上に胸にのしかかっていた。


「俯いて元気がないな」


 ふいに声をかけられた。顔を上げると、町内会長の大石が立っていた。腕を組み、じっとこちらを見ている。


「市役所に行ったんだってな」


「……なんで知ってるの?」


「市役所から連絡があったんだ。俺は町内会長だぞ」


 大石は鼻で笑った。アンナは無言のまま自転車のハンドルを握りしめる。彼の次の言葉は、予想がついていた。


「で、どうだった?」


「……ダメだった」


 アンナは悔しさを滲ませながら言った。


 大石は、さも当然とばかりに頷く。


「だろうな……」


 それだけ言うと、タバコを取り出して火をつけた。紫煙を吐き出しながら、ぼそりと続ける。


「俺も昔、何度か掛け合ったことがある。でもな、市役所は結局、駅前の開発とか、大規模な工事の話しか興味がねぇ。こんな田舎の町のことなんか、どうでもいいんだよ」


 アンナはムッとした。


「そんなの、おかしいよ!」


「おかしかろうが、これが現実だ」


 大石は静かに言った。


「何も変わらねぇさ。何もしなけりゃ、余計にな」


「……だったら、何かしようよ」


 思わず口をついた言葉に、大石はじろりとアンナを見た。


「……何もしなきゃ、変わらないよ」


「変わらなくったって、別にいいさ」


 大石は肩をすくめる。


「こんな町でも、暮らしている人がいる。それが一番なんだ。何かを変えようとすれば、余計な面倒が増える。今のまま、何も変えずに静かにしてるのが一番だ」


アンナは唇を噛んだ。今のままが一番?


――そんなわけない。


 確かに、大石の言うことも分かる。町を変えるのは簡単なことじゃない。面倒も苦労も増える。だけど、それでも。


 このまま、何もしないままでいいの?


「……そんなの、私は嫌だね」


 小さな声だった。でも、大石にははっきり聞こえたらしい。


「ほう?」


 彼は薄く笑った。アンナは、ぐっと自転車のハンドルを握りしめる。


「私は、何かやる。この町を変えたい」


 何をどうすればいいのかは分からない。でも、何かをしないと、町はどんどん沈んでいく。自分自身も、ここで暮らしていく意味を見失ってしまう気がする。


 大石はそれ以上何も言わず、ただタバコの煙をゆっくりと吐き出した。


 アンナは踵を返し、自転車にまたがる。


――何か、やらなきゃ。


 ペダルを踏み込み、チエとサキが待つ自宅に向かって走り出した。大石はアンナの背中を見守るように見送った。


   2


 朝日が町を照らし始める頃、アンナは自転車の荷台に新聞を積み、ペダルを漕ぎ出した。冷たい風が頬を撫でる。でも、その寒さよりも、胸の奥に燃える小さな熱のほうが勝っていた。


――市役所が動かないなら、自分たちでやるしかない。


 何をどうすればいいのかは分からない。でも、何もしなければ何も変わらない。だったら、まずは動いてみよう。


「おはようございまーす!」


 若葉住宅の玄関先で新聞を手渡す。受け取ったのは、腰の曲がった富田という苗字のおばあさんだった。


「アンナちゃん、いつも悪いねぇ」


「ううん、それよりさ、おばあちゃん」


 アンナは自転車を停めると、思い切って切り出した。


「この町を楽しくするには、何をしたらいいと思う?」


 富田はぽかんとした顔をして、それから笑った。


「そりゃあ、人がたくさん来れば、にぎやかになるけどねぇ。でも、もう無理だよ。商店街もシャッターばっかりでしょ」


「でも、昔はお祭りとか、いろいろやってたんでしょ?」


「そりゃあね。盆踊りもあったし、子ども会があれば運動会もあった。でも、今はそんなのやる人がいないよ」


 そう言って、富田は新聞を握り締める。


「今のままでも、まあいいんじゃないかねぇ。静かでさ」


――また、その言葉だ。


 アンナは喉の奥に言いたいことをぐっと飲み込んだ。無理に否定しても仕方がない。ここは、もう少し話を引き出さないと。


「じゃあ、おばあちゃんは何か好きなことある?」


「好きなこと?」


「うん。例えば昔やってたことで、楽しかったこととか」


 富田はしばらく考えて、ふっと笑った。


「昔はねぇ、みんなで集まって、よく裁縫をしたもんだよ。帯を縫ったり、子どもの服を作ったり……」


「へえ、それって楽しかった?」


「そりゃあねぇ。手を動かしながら世間話して、たまには隣の家の奥さんと張り合ったりして」


「それ、今やっても楽しいんじゃない?」


「まさか、こんな歳で……」


 富田は笑った。でも、その表情は少しだけ柔らかくなった気がする。


「ありがとう、おばあちゃん! じゃあ、配達の続き行ってくるねー!」


 アンナは自転車を走らせながら、考えた。


――やっぱり、みんな昔は楽しかったことがあったんだ。


 次の配達先では、将棋が好きな寺田のおじいさんに話を聞いた。


「将棋? いやぁ、もう相手がいなくなっちまったよ」


「でも、誰かとやると楽しいでしょ?」


「まあな。昔はよく集まったもんだが……」


 また、過去の話。けれど、目を細めて懐かしむその表情には、確かに楽しさの名残があった。


――きっと、みんな本当は寂しいんだ。


 無理だとか、今さらとか言いながらも、心のどこかでは「人との繋がり」を求めている気がする。


「よーし……!」


 アンナは自転車のペダルを踏み込んだ。今はまだ、誰も取り合ってくれない。でも、きっかけさえあれば──。


   3


 お昼のお弁当の配達が一段落し夕刊の配達までの時間、アンナは再び富田の家を訪れた。


「おばあちゃん、さっきの話だけど……」


 玄関先で顔を覗かせると、富田はちょうど縁側で手を動かしていた。何かを縫っている。


「ん? なんだい、アンナちゃん」


「それ、何作ってるの?」


 富田は手を止め、膝の上に広げていたものを見せた。小さな端切れを縫い合わせ、丸く形を整えている。横にはいくつか完成したものが置かれていた。


「これはね、お手玉だよ」


「お手玉?」


 アンナは初めて見るそれを手に取った。可愛らしい和柄の端切れが綺麗に縫い合わされ、手のひらに収まる小さな袋状になっている。振ると、かすかにシャラシャラと音がする。


「中に何が入ってるの?」


「小豆さ。さっきアンナちゃんと裁縫の話をしたろ? 懐かしくなって作ってみたんだよ」


「へぇ、可愛い! これ、おばあちゃんが作ったの?」


「まあねぇ。昔は近所の子どもに作ってやったけど、もう使う人もいなくなっちまってね」


 富田は苦笑しながら、手元の針を動かした。


「どうやって使うの?」


「お手玉を知らないかい? ほら、こうやってな……」


 富田は手慣れた様子で、お手玉を三つ手に取り、器用に放り投げながら片手で受け取る。ポン、ポン、ポン……軽やかに弾むお手玉の動きに、アンナは目を輝かせた。


「すごい! おばあちゃん、めっちゃ上手じゃん!」


「ははは、昔は五つくらいできたんだけどね」


「ねえ、これ、もっとみんなに見せたらいいのに」


「……見せるって、誰に?」


「例えばさ、お手玉の遊び方を教えたり、誰かに作り方を教えたり!」


 富田は驚いた顔をした後、すぐに首を横に振った。


「いやいや、そんな大げさなもんじゃないよ。ただの暇つぶしさ」


「でも、めっちゃ可愛いし、こういうの欲しい人、いると思うよ?」


 アンナはお手玉を手に取り、じっくり眺めた。小さな和柄の端切れが、一つ一つ丁寧に縫い合わされている。素朴だけど、温かみがある。


「ねえ、おばあちゃん。これ借りても良い?」


「そりゃもちろん。欲しかったらアンナちゃんにあげるよ」


 富田は苦笑しながらも、ほんの少しだけ目を細めた。


――教えるのは無理だとか、意味がないとか言ってるけど、本当は嬉しいんじゃない?


 アンナはそう感じた。


「私は、これすごく可愛いと思うよ!」


 はっきりと言うと、富田はちょっとだけ照れくさそうに笑った。


「……まったく、今どきの子は変わってるねぇ」


 その言葉には、少しだけ前向きな響きがあった。


   4


 昼下がりの柔らかな日差しの中、アンナは再び寺田のおじいさんの家を訪れた。玄関先で呼びかけると、障子の向こうから渋い声が返ってくる。


「なんじゃ、アンナちゃんか」


 奥からゆっくりとおじいさんが現れた。今日も小さなちゃぶ台の上には将棋盤が広げられている。


「おじいちゃん、今日の詰将棋やってるの?」


「いや、今は独りで将棋の研究中じゃ。相手がおらんからの」


「じゃあさ、みんなで将棋を教えたり、大会とか開いたりしたらどう?」


 アンナが提案すると、寺田のおじいさんは苦笑いした。


「前にも呼びかけてみたがな、なかなか人が集まらんのじゃ。若いのは将棋なんか興味ないし、じいさんばあさんばっかりじゃ、やる相手も限られる」


 アンナは腕を組み、考え込んだ。そのとき、おじいさんの視線がふとアンナの持っている鞄に向いた。


「ん? アンナちゃん、その荷物はお手玉かい? 懐かしいな」


「これ? 富田のばあちゃんが作ったお手玉だよ。可愛いでしょ?」


 お手玉を見せると、じいさんは「ほぉ」と興味深げにうなずいた。


「お手玉あそびならばあさんが得意じゃ」


 そう言って奥へ声をかける。


「おい、ばあさん! ちと来てみぃ!」


 しばらくして、寺田の妻がのんびりと部屋から現れた。


「なんだい、そんな大きな声出して」


「今でもお手玉できるか? ちょいとアンナちゃんに見せてやれ」


「お手玉?」


 アンナが寺田のおばあさんにお手玉を手渡すと、懐かしそうに眺める。


「富田さんのお手玉だね。相変わらず綺麗にできとる。あたしゃ作るより、投げる方が得意でね」


「投げる……?」


 アンナが首をかしげた次の瞬間、ばあさんは手にしたお手玉を次々と宙に放った。


 1つ、2つ、3つ……7つ目が宙に舞い、お手玉はまるで紐で繋がれているように、おばあさんの手と空中を滑らかに行き来する。


「おぉーっ!!」


 アンナは思わず声を上げた。


「すごいすごい! ばあちゃん、めっちゃ上手じゃん!」


「はは、まあね。昔はこれでよく遊んだもんさ」


「ねえ、おじいさん。将棋だけじゃなくてさ、お手玉も一緒にやったらどう?」


 寺田のじいさんが眉をひそめる。


「一緒にやるって、どういうことじゃ?」


「例えばさ、将棋をやる人もいれば、お手玉で遊ぶ人もいるって感じでさ。それぞれが好きなことをやれば、みんな集まりやすくなると思うんだよね」


 アンナの提案に、じいさんは腕を組んだ。


「ふむ……確かに、将棋だけじゃ人は限られるが、他の遊びもあれば、人も集まるかもしれんのう」


「そうそう! ほら、お手玉だけじゃなくて、もっといろんな遊びを集めれば、みんな楽しめるんじゃない?」


 アンナは勢いよく話しながら、確信を持った。将棋、お手玉、それだけじゃなく、もっといろんな遊びを組み合わせたら、人が集まるきっかけになるかもしれない。


――こうやって、町の人たちの得意なことを集めていけば、何か面白いことができるかも!


 アンナの胸の中に、新たなアイデアが膨らみ始めていた。


   5


 夕暮れが町を橙色に染める頃、アンナは夕刊の配達を終えて自転車を押しながら帰路についていた。心の中は今日の出来事でいっぱいだった。


――将棋、お手玉、それからほかにもたくさんあるはず。みんなの好きなことを集めれば、きっと楽しいことができる!


 そんなことを考えながら歩いていると、ふいに声がかかった。


「おい」


 立ち止まって振り向くと、そこにはいつもの無愛想な顔をした大石が立っていた。


「大石さん?」


「今日はやけに楽しそうだな」


「え?」


「何かいいことあったのか?」


 アンナは鼻で笑われるのを覚悟して、胸を張って言った。


「みんなでさ、文化祭みたいな楽しいことができたらいいなって思ってる!」


 大石は目を丸くし、アンナを見つめた。


「文化祭?」


「そう! 例えばさ、公民館を借りてフリーマーケットとか、ワークショップとか。お店を出すってなると準備が大変だけど、負担が少なくて、みんなが楽しめるようなイベントなら、やれるんじゃないかなって」


 大石は無言のままタバコに火をつけた。アンナは続ける。


「富田のばあちゃんが、お手玉を作っててね。それを売ったり、教えたりできるかもしれないし」


「富田のばあさんのお手玉ね」


「あとは寺田のじいちゃん! 将棋が好きなんだけど、対局する相手がいないんだって。だから、ちょっとした将棋大会とか開いて、町の人が集まる場を作れたらなって思うの!」


 興奮気味に話すアンナを、大石は黙って見ていた。


「……最初はみんな大石さんみたいに、無理だって言ってたけど、話してみたら少しずつ興味を持ってくれてさ。だから、もっといろんな人に話してみようと思うんだ!」


 アンナの目は真っ直ぐだった。


 大石は煙を吐き出しながら、しばらく黙っていたが、やがてぼそりとつぶやいた。


「……本当にやるつもりか?」


「うん!」


 まっすぐに見つめるアンナの顔を見ると、大石は「ははは!」と笑った。


「……お前、本当に面倒くさいやつだな」


「えー!? それどういう意味!?」


 大石はタバコの吸い殻を携帯していた灰皿に入れると、ポケットに手を突っ込む。


「……やるなら、手伝ってやる」


「え?」


「女の子が三人で、できるわけがねぇ。少しは大人の手も借りたほうがいい」


 アンナは驚き、そしてぱっと笑顔になった。


「やった! ありがとう、大石さん!」


「勘違いするなよ。町内会のためだ」


 そっぽを向く大石の顔は、どこか呆れつつも、とても嬉しそうだった。

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