第2話 白昼夢
純白のウェディングドレスは、花嫁の夢を包み込む。でも時々、その白さは不気味な輝きを放つことがある。
私がそれに気づいたのは、ブライダルフォトスタジオ「エターナル・モーメント」に転職して三ヶ月目のことだった。新人カメラマンの河野美咲。この仕事に就いたのは、人生の節目を写真に収められる喜びに魅かれたから。でも、その想いは徐々に恐怖へと変わっていった。
「河野さん、今日の最後のお客様よ」
ヘアメイクの田中さんが、花嫁を連れてきた。控えめな化粧が綺麗な花嫁。スタジオの照明に照らされて、ドレスが眩しく光る。
「では、始めましょうか」
私はカメラを構える。ファインダー越しの花嫁は、どこか儚げな表情を浮かべていた。
「もう少し左を向いていただけますか」
シャッターを切る度に、何か違和感を感じる。ドレスの白さが、まるで花嫁を飲み込もうとしているような...。
「河野さん、大丈夫?」
田中さんの声で我に返る。私は慌てて笑顔を作った。
「ええ、問題ありません」
その夜、現像室で写真を確認していると、さらに強い違和感に襲われた。花嫁の表情が、一枚一枚で微妙に変化している。最初は幸せそうな微笑み。でも最後の一枚では、まるで誰かに助けを求めているような目をしていた。
「まだ残ってたの?」
スタジオマネージャーの高橋さんが声をかけてきた。五十代の彼女は、このスタジオで二十年以上働いているベテランだ。
「ええ、今日の写真を確認していて」
私が花嫁の写真を見せると、高橋さんの表情が一瞬、こわばった。
「このドレス...」
「何かありましたか?」
「いいえ、何でもないわ」
彼女は慌てたように去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は妙な胸の騒ぎを感じていた。
次の日、その花嫁の婚約者から電話があった。
「結婚式、延期することになりました」
淡々とした声。理由は聞かなかった。というより、聞けなかった。
それから一週間後、新しい花嫁が来た。彼女がドレスを選ぶ時、私は息を呑んだ。前の花嫁と同じドレスを選んだのだ。
「素敵なドレスですね」
花嫁は嬉しそうに微笑む。でも、ドレスを着た途端、彼女の表情が変わった。どこか虚ろな目をして、遠くを見つめている。
撮影が始まると、さらに異変が起きた。ファインダーの中の花嫁が、徐々に別人のような表情を見せ始めたのだ。それは前の花嫁に、どこか似ていた。
その夜も私は現像室に残った。写真を見ると、やはり花嫁の表情が変化している。最後の写真では、まるで泣いているように見えた。そして気がついた。ドレスが、少しずつ膨らんでいるように見える。
資料室で、そのドレスについて調べてみることにした。古いアルバムを開くと、同じドレスを着た花嫁たちの写真が次々と出てきた。そして、恐ろしい事実に気づいた。
どの花嫁も、同じ表情をしている。虚ろな目で、どこかを見つめる表情。そして、それらの結婚式は全て、直前で取りやめになっていた。アルバムに記された日付は、過去十年以上に渡っている。
「やっぱり気づいたのね」
背後から高橋さんの声がした。
「このドレス、何かあるんですか?」
「十年前のこと。このドレスを着た花嫁が、前日に失踪したの。原因は分からなかった。でも、それ以来...」
高橋さんは古い一枚の写真を取り出した。そこには、純白のドレスを着た若い女性が写っている。けれど、その表情は苦悶に満ちていた。
「この写真、撮影後すぐに現像したの。でも翌日見たら、花嫁の姿が消えていた。ドレスだけが、空っぽのまま写っていたわ」
私は震える手で、最近の花嫁たちの写真を広げた。よく見ると、写真の中のドレスが、撮影の度に少しずつ膨らんでいる。まるで、中に何かが育っているように。いや、何かを取り込んでいるように。
「このドレスを着た花嫁は、みんな消えていったの?」
「消えたわけじゃないわ」高橋さんは静かに言った。「ドレスの中に、取り込まれていったのよ」
その時、フロントから声が聞こえた。
「すみません、ドレスの試着に来ました」
私と高橋さんは顔を見合わせた。また新しい花嫁が、あのドレスを選びに来たのだ。
「止めないと」
私が立ち上がろうとした時、古いアルバムから一枚の写真が滑り落ちた。見覚えのないモノクロ写真。若い女性がドレスを仕立てている場面が写っている。その表情は、憎しみに満ちていた。
「あの頃、このスタジオは別の場所にあってね」高橋さんが続けた。「昭和の終わり頃、ここは小さなドレスショップだった。腕の良い仕立て屋で働いていた里中という女性がいてね。彼女が、このドレスを作ったの」
高橋さんは深いため息をついた。
「里中さんは、婚約者のために特別な一着を作っていた。毎晩遅くまで、真っ白なドレスに想いを込めて。でも、完成間近になって婚約者に裏切られた。別の女性と駆け落ちしたの。それを知った里中さんは、そのドレスに最後の一針を加えて...その夜、姿を消した。
翌日、このドレスが店に残されていた。不思議なほど美しい pure white。でも、どこか生きているような、そんな佇まいだった。最初にこのドレスを着た花嫁は、里中さんの婚約者の新しい相手。彼女は、試着室で消えたわ」
高橋さんの声が遠のいていく。私の目の前で、写真の中のドレスが大きく膨らんだ。中から、無数の手が伸びてきた。かつて、このドレスに取り込まれた花嫁たちの手が。その指先は、まるで助けを求めるように、そして同時に何かを掴もうとするように動いている。
「お客様、こちらです」
フロントからの声が、不気味に廊下に響く。
私は走った。今度こそ、新しい犠牲者を出してはいけない。でも、スタジオに着いた時には、もう遅かった。
新しい花嫁は、あのドレスを着て、鏡の前で微笑んでいた。その表情は、どこか虚ろで。
ドレスの白さが、まるで生き物のように蠢いている。
「素敵なドレスですね」
花嫁が言った。けれど、その声は彼女のものではなかった。あるいは、彼女一人のものではなかった。
私はカメラを構える手が震えるのを感じた。ファインダーの中で、ドレスが大きく膨らんでいく。そして、シャッターを切る瞬間、花嫁の姿が白い光に包まれた。
現像した写真には、空っぽのドレスだけが写っていた。まるで、誰かを待ち続けるように。
それ以来、私たちはあのドレスを倉庫に封印した。でも時々、夜になると、倉庫の奥から笑い声が聞こえてくる。花嫁たちの、虚ろな笑い声が。
そして今日も、新しい花嫁が「エターナル・モーメント」を訪れる。純白のドレスは、新たな夢を包み込もうと、静かに、しかし確実に、その時を待っている。
私は今でも、このスタジオで働いている。花嫁たちの幸せな瞬間を写真に収めながら。でも、あの倉庫の前は絶対に通らない。そこには、私の先輩カメラマンが最後に撮った写真が、まだ現像されないまま残されているから。その中には、おそらく、彼女自身が写っているのだろう。あの純白のドレスに包まれたまま。
高橋さんは時々、こう言う。「里中さんは、まだドレスの中で待っているのよ。自分の夢を奪った女性たちを、永遠の花嫁として閉じ込めながら」
そして今朝、スタジオの控室で一枚の古い新聞を見つけた。昭和の終わり頃の記事。「若き仕立て屋、行方不明に」その記事の横には、里中の写真が載っていた。そこで私は気づいた。高橋さんの若い頃の写真と、里中の写真が、妙によく似ているということに。
今日も「エターナル・モーメント」には、新しい花嫁がやってくる。そして、あの倉庫の奥で、純白のドレスが静かに、しかし確実に、その時を待っている。永遠の一瞬を切り取るために。
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